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    <title>穀潰シ</title>  
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    <description>穀潰シ</description>  
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    <title>「戦争」という比喩をめぐるメモ</title>  
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    <description><![CDATA[<p>とりあえずのメモ。現在の災害、とりわけ原発事故をめぐって、戦争の比喩が散見される。廃墟云々とか復興という話において、ではない。そういう物言いにも違和は感じるし、わたしは戦争を知らないのでそうした比喩は使わないし使えないけれど、それよりずっと気になっているのは、批判、とりわけ自己弁護のための反論に、「戦争」が持ち出されることについてだ。たとえば放射能を懼れて関東から避難した人（コラムニスト？　肩書きを知らない）がそのことに触れた文章で、テレビのコメンテーターの「逃げた人は無責任だ」という言葉に反応
</p>]]></description>  
    <dc:date>2011-07-03T18:01:06+09:00</dc:date> 
  </item>  
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    <title>無答責という懲罰（承前）</title>  
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    <description><![CDATA[<p>もうひとつ、自分が「嫌」でしようがないこと。警戒区域の動物のこと（犬や猫など、同居動物に関してはわたしは家族と一緒という立場なので、ここではもっぱら「家畜」と呼ばれる動物のことについて書く。同居動物が家族か否かというのはひとによるし、「所詮犬猫」とおもっているひととのあいだの溝は埋められないとかんがえているが、犬猫も家族という認識を押しつけるつもりはないかわりに、「所詮犬猫」という認識を受け容れる気もない。とはいえ現実に避難所生活を余儀なくされたとき、そこでは同居動物を「所詮犬猫」とみなす声が優
</p>]]></description>  
    <dc:date>2011-04-28T00:01:37+09:00</dc:date> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://ameblo.jp/yoko-mina/entry-10873890231.html"> 
    <title>無答責という懲罰</title>  
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    <description><![CDATA[<p>このところ、自分が嫌でしようがない。具体的な欠点がどうというのではない。それはそれで厄介ではある。しかし、個人の中で完結する「嫌」などしれている。克服できないにしても、ただ自分が「嫌」なだけで済む。いま陥っている「嫌」の泥濘は、もっと始末の悪い、大蒜を食べた後のように息をするだけで空気を澱ませる類のものだ。そしてこの悪臭は、大蒜と違って決して消えることはない。しかしかんがえてみれば、というまでもなく、この悪臭はいまに始まったことではなかった。ずっと匂いを撒き散らしながら、自分がそれを発しているこ
</p>]]></description>  
    <dc:date>2011-04-27T23:58:04+09:00</dc:date> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://ameblo.jp/yoko-mina/entry-10852197403.html"> 
    <title>「自己満足」に言い訳は必要か？</title>  
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    <description><![CDATA[<p>　新聞のコラムに、被災支援における「自己満足」について書かれているものがあった。ネットで情報を流したりクリックしたりするだけで貢献した気になっているのは「自己満足」だという批判があるのだという。それに対し書き手は、開発されたばかりらしい節電ゲームを例に、ゲームという娯楽要素を取り入れつつ節電に貢献できるという発想は「秀逸」であり、こうしたところに押しつけがましくない小さな善意の集積が大きな結果（社会貢献）に繋がるという新しい「連帯」の可能性がある、と結んでいる。　明らかにすれ違っている。「自己満
</p>]]></description>  
    <dc:date>2011-04-06T20:40:06+09:00</dc:date> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://ameblo.jp/yoko-mina/entry-10747634845.html"> 
    <title>砂漠の歩行者————「好き」を語る難しさについて</title>  
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    <description><![CDATA[<p>「好き」だとおもうとそれについてかんがえたくなる。なぜ好きなのか、どこが好きなのか、それを言葉にしてみたくなる。完全に言葉に昇華することなどできないと知っているのに、欲求が抑えられない。けれども「好き」について語ることは難しい。ただ好きだということを手を変え品を変えて羅列するならまだしも、なぜ好きか、どこが好きか、その魅力はなにかということを説明しようとすると北極星すらない砂漠を歩くようでどこへむかってどのように進めばいいか皆目わからない。わからないまま手探りで書いて、途がみえたような気がして手
</p>]]></description>  
    <dc:date>2011-01-07T23:41:01+09:00</dc:date> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://ameblo.jp/yoko-mina/entry-10714862852.html"> 
    <title>ウロボロスの蛇の残酷————三島由紀夫「太陽と鉄」</title>  
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    <description><![CDATA[<p>11月25日は三島由紀夫の命日だ。今年は没後40年ということもあってか、関連した書籍がいくつも出版されている。目についたものは手に入れているけれど、買ってよかったとおもえたものはない。かろうじて宮下規久朗の美術関連のものはセバスチァンの図版が豊富でありがたかったというくらい。そのほかでは中央公論編のものに武田泰淳の追悼文が掲載されていたのはちょっと嬉しかった。三島由紀夫の追悼文の中ではいちばん好きな文章なのに、ゆまに書房の追悼文集成にははいっておらず、手元にある小学館の群像日本の作家シリーズには
</p>]]></description>  
    <dc:date>2010-11-22T16:58:09+09:00</dc:date> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://ameblo.jp/yoko-mina/entry-10680720233.html"> 
    <title>怪しい語り手、転移する視点ーーーーコルタサルの短編群</title>  
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    <description><![CDATA[<p>小説に惹かれる要素はなにが語られるかよりもいかに語られるかだというのは別段理由はなく昔からそういう傾向だというだけのことなのだけれど、翻訳されたものを読むときも同じかといえばすくなくともそうは言い切れない。翻訳なら探偵小説類（内容重視という印象があるので。間違っていたら申し訳ない。）を読むという意味ではなく、翻訳されている以上いうまでもなく翻訳者という媒介があるのだから作者の息吹をそのまま感じることはできないというそれはしごく単純な理由（かといって翻訳者が違っても肌に合う作家とそうでない作家はい
</p>]]></description>  
    <dc:date>2010-10-21T21:16:14+09:00</dc:date> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://ameblo.jp/yoko-mina/entry-10658671784.html"> 
    <title>世界の外側でやすらう————色川武大『狂人日記』</title>  
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    <description><![CDATA[<p>好きな小説の舞台をめぐる旅をする人がいたり、研究するとなればその作家の人柄や私生活まで調べるのは当然らしく、つまりは作品の外側、その前方や後方、そして手前や向こう側や延長、拡散などなどに興味を持つというのはそうめずらしいことではないらしい。わたしはとても好きな作家でも、その人の私生活や遍歴を積極的に知ろうという熱意に欠けている。たいていのばあい、むしろ知りたくないとすらおもう。それはほんとうのところたいして好きではないのだろうと言われれば、ある観点からはそうなのかもしれないけれど、わたしのなかの
</p>]]></description>  
    <dc:date>2010-09-25T23:59:00+09:00</dc:date> 
  </item>  
  <item rdf:about="http://ameblo.jp/yoko-mina/entry-10645460728.html"> 
    <title>ドールハウスの幽霊たち————三島由紀夫『獣の戯れ』</title>  
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    <description><![CDATA[<p>幼い頃、うさぎの家族のドールハウスが流行ったことがある。友人たちはにんぎょうをそろえ、家を買い、家具をしつらえていた。わたしはがんばって興味を持とうとした。ひとつには、当時、異常なまでに横並びでなくてはならないという強迫観念があったからで、もうひとつには、そういうものを愉しむ姿を親に見せた方がいいのではないか、そうすれば喜ばれるのではないか、と漠然とおもっていたからだった。とはいえちっとも裕福でない家庭、欲しくもないものをねだるのも気が引け、しかし周囲と歩調をあわせねば不安でもあり、結局にんぎょ
</p>]]></description>  
    <dc:date>2010-09-11T22:44:34+09:00</dc:date> 
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    <title>堕落の加速度、光る愚者—————石川淳「普賢」</title>  
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    <description><![CDATA[<p>古びた皺紙に、さまざまな紙魚気儘にあり、惨めな紙とみればみえ、しかしこれら紙魚、草臥れた紙、それら聯関があるとおもって眺めれば、おのおのの紙魚までがただごとではない心地がしてくる。石川淳というと「紫苑物語」「至福千年」「狂風記」「修羅」といった物語的なものしか読んだことがなく、最近になって「佳人」「普賢」「かよい小町」「山桜」（ありがちな結末だけれどこれはいいようがなく好き。緊迫した場面でこどもが「ぽう、ぽう」と汽車の真似をするところの滑稽は冷血なわたしをしてちょっとじんわりするほどで、「甘露、
</p>]]></description>  
    <dc:date>2010-07-17T00:17:27+09:00</dc:date> 
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