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    <title>欧米神話</title>  
    <link>http://ameblo.jp/yanayuh/</link>  
    <description>相対論を語る。</description>  
    <language>ja</language>  
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    <item> 
      <title>アインシュタインの、間違った同時性の定義</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 =========================================<br />舌を出したアインシュタインの写真についての試論<br /><br />アインシュタインは自著の第六章で、「速度の加法定理を否定」する。<br />それは下のエントリの緑色の文字部分。<br />http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10181501177.html<br />その第七章でそう否定する理由を語ろうとしている。<br />それは上記青い文字部分。<br /><br />マイケルソン・モーレーの実験の正しい捉え方は<br />http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10162948953.html<br />http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10166431667.html<br />=========================================<br /><br /><br />　もしAとBから同時に光が進んでくれば、それらは同時にMに着くだろう。ところで、今、Mの近く、少しだけBよりのところに<font color="#008000">M’という点がある</font>としよう。<br /><br /><br />今、AとBから同時にMに光が着いたとする。要するに、AとBへ同時に落雷があったわけである。この場合、勿論、Bからやってくる光はM’を通過する。このM’を通過する時刻は、<font color="#008000">Bからやってきたこの光がMに到着する時刻より少し前</font>である。言い換えれば、Aからやってきた光がMに到着する時刻より少し前である。<br /><br /><br />では、AからMに達した光が、Mを通り過ぎてM’を通ったとしよう。Aから発せられた光が、M’に到達するのは、<font color="#008000">その光がMに到達した後</font>である。当然である。<br /><br /><br />Bから発せられた光はMに到達するより先にM’に達する。だから、AとBから同時に光が発せられる限り、つまり、AとBへ同時に落雷がある以上、Aからの光がM’に到達する時刻は、<font color="#008000">Bからの光がM’に到達する時刻より遅い</font>ことになる。<br /><br /><br />今、A、Bという二つの場所について考えている。そこに同時に落雷があれば、そこからの光はその中点Mに同時に到達する。同時にそれら光が到達するのは、以上、考察したように、<font color="#008000">あくまで中点Mにだけ、</font>である。<br /><br /><br />中点MよりB寄りにある点M’には、同時に光は到達しない。A寄りにある点M’’を考察しても、M’と同じことが言える。AとBから同時に発せられた光が、<font color="#008000">中点Mに同時に到達しても、点M’’には同時には達しない。</font><br /><br /><br />当たり前である。そして、もう一つ、当然な考察をここに付け加えておこう。AとBから光が発して、中点Mに同時に到達した。中点Mには、目印が置いてある。それを見ていた実験者が、実験後、こう想像する。<font color="#008000"><u>この中点Mの目印を、今さっきの実験の途中で、もし点M’に移動させていたら</u></font>どうなっだろうかと。<br /><br /><br />或いは、点M’’に移動させていたらどうなっただろうかと。AとBから同時に光が発せられたのは、見ていた通りわかった。光がAとBからそのように発せられた時、もし、僕が、中点Mにある目印を、点M’や点M’’にずらしていたらどうなっていただろうか。<br /><br /><br />勿論、<font color="#008000"><u>点M’やM’’では、AとBから発せられた光は、同時には到達しなかった</u></font>だろう。しかしそれでも、<font color="#008000"><u>AとBから同時に光が発せられたことは、先程、中点Mに光が同時に到達した実験で確認</u></font>されている。<br /><br /><br />その実験時に、もし、点M上の目印を移動させていれば、その目印には、AとBから出た光は同時には着かなかっただろう。こう実験者が想像しても、間違いではないはずだ。では、以上、当然のことをしっかり念頭において、引き続き引用する。<br /><br /><br /><blockquote><font color="#0000FF">　この定義が、たんに二つの事象だけでなく、任意の多くの事象について同時性をいうとき<br />厳密な意味を与えるために役立ちうることは、<br /><br />たとえそれらの事象の場所が基準体(ここでは軌道堤)に対してどのような位置にあろうとも明らかである。こうして、物理学における〈時間〉の定義にやってくる。<br /><br />すなわちレール(座標系)上の三点A、B、Cに同一構造の、そしてそれらの針の位置が同時に(上の意味で)同じ点を指すように合わせた時計が置かれている、と考える。<br /><br />こうすれば、ある事象の〈時間〉はその事象に(空間的)にすぐ隣りあっている時計の時刻表示(針の位置)を<br />それぞれ読みとることである、と理解されよう。このようにして、原理的に観測できる時計の位置がすべての事象に対応づけられる。</font></blockquote><br /><br /><br />　この第8章で、アインシュタインによる、同時刻の定義がなされた。では、次の第9章「同時性の相対性」で、<font color="#0000FF"><u>この定義からどのようにして同時性が相対化することになるか</u></font>拝見しよう。<br /><br /><br />どんな詭弁が弄されるか、僕たちはしっかり把握しないといけない。アインシュタインの速度観を認める限り、<font color="#0000FF">日常に、同時刻として体験されるものが、同時刻と解されてはいけなくなる。</font>つまり、僕たちは自分の体験を否定しなければならなくなる。今まで読んできた小説や歴史はアインシュタインの相対性理論に基づいて書き改められないといけないかもしれないのである<br /><br />(しかし、日常生活には、アインシュタインの理論は影響を及ぼさないことにされている。そうすることによって逆に、彼は、反事実的な彼の理論を守るわけである)。<br /><br />出来事を語るのにさえ、いちいちアインシュタインの相対性理論を借り、数式を出してきてから、語るのでなければならなくなる。アインシュタインの相対性理論は<font color="#0000FF">「速度の合成則」自体を否定してしまった</font>のであるから。<br /><br /><br />物理学者の中には、アインシュタインの速度観は<font color="#0000FF">光についてのもののみ</font>と考える向きもあるかもしれない。が、そうではない。それを、アインシュタインの著の第6章を引用して僕たちは確かめたのだ。さて、彼は、これから引用する第9章で、必死になって日常で体験する同時刻なるものが間違っていると説明する。<br /><br /><br /><blockquote><font color="#0000FF">　これまでわれわれは、〈軌道堤〉で示してきたある特定の基準体を、われわれの考察のよりどころとしてきた。<br /><br />さて、いまレールの上を非常に長い列車が、一定速度vで第1図に示す方向に動いているとする。<br /><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20090309/16/yanayuh/be/d5/j/o0560013210150258510.jpg"><img src="http://stat.ameba.jp/user_images/20090309/16/yanayuh/be/d5/j/t02200052_0560013210150258510.jpg"  alt="欧米神話戯画-「特殊および一般相対性理論について」p.41より" width="220" height="52" border="0" /></a><br />この列車に乗って動いている人は、剛体<br /><br />(剛体とは、「長さが伸び縮みしない堅い棒」のこと。「アインシュタイン　相対性理論」p.109での内山龍雄氏の説明より。屋那の補注)<br /><br />の基準体(座標系)として列車を使うのが便利である。すなわち、すべての事象を列車に照らして見るのである。<br /><br />レールに沿って起こるすべての事象は、したがってまた列車の特定の点に起こることになる。<br /><br />列車を基準とする同時性の定義もまた、軌道堤に準拠させたときとまったく同様にして得られる。しかし、こうなると当然の結果として、つぎの問いが生じてくる—。<br /><br />　二つの事象(たとえば二つの落雷AとB)があって、軌道堤を基準にして同時であるならば、列車を基準にしてもまた同時であるだろうか?<br /><br />　その答えがどうしても否定的になることを、ただちに示そう。</font></blockquote><br /><br /><br />　ここでアインシュタインは、同時というものは、慣性系(簡単に言えば、観測者)ごとに、別ものであることを示そうとしている。僕たちは、先に、点Mを点M’や点M’’に移す思考実験をした。<font color="#008000">AとBから同時に光が発しても、点M’や点M’’には同時にそれらの光が達するはずはない</font>のだった。その当然のことをここで思い出そう。以下、続きを読む。<br /><br /><br /><blockquote><font color="#0000FF">　落雷AとBが軌道堤に関して同時であるというときには、雷光のあった場所AとBから出た光線が<u>軌道堤の線分A—Bの中点Mで出会う</u>、という意味である。<br /><br />列車上の点AとBもまた、事象AとBに一致する。走行中の列車の長さA—Bの中点をM’としよう。この点M’は、たしかに落雷の瞬間には点Mと一致するが、図にあるように列車の速度vで右方向へ動いている。<br /><br />列車の中で点M’の所に坐っている観測者がこの速度をもたないとすれば、Mにいつまでもとどまっていることになり、とすれば、落雷AとBからの光線が彼の所に同時に到達することになろう。<br /><br />すなわち、この二つの光線はちょうど彼の所で出会うのである。しかし実際には(軌道堤から判断して)、彼はBからくる光に向かって急行していくのであるが、<u>Aからの光よりも先行してその光に後から追いつかれるのである。</u><br /><br />したがって観測者はAからくる光よりも先にBからの光を認めるであろう。列車を基準体として用いる観測者は、<u>落雷Bが落雷Aよりも先に起こっている</u>、という結論になるにちがいない。こうして、われわれは以下の重要な結論に達する—。<br /><br />　軌道堤を基準として同時である事象は、<u>列車を基準とすると同時ではない、</u>そしてまた、逆も真である(同時性の相対性)。すべての基準体(座標系)はそれぞれ固有な時間をもっている。だから時間の表示が意味を持つのは、時間の表示が基準としている基準体を挙げている場合だけである。</font></blockquote><br /><br /><br />　同時とはそもそも、体験にて確かめられるものだ。体験に於ける、今のありようという『一連続』が同時なものである。しかし、アインシュタインは、前の方で見たように、<font color="#0000FF">同時を或る偏った仕方で定義</font>してしまった。<br /><br /><br />そして、その定義に合うのでなければ、同時であるとは認められないと独断的に決め付けてしまった。その定義が偏狭なのだ。体験事実を汲み尽くし得ない尺度なのである。<br /><br /><br />AとBから同時に光が進んできた時、その中点Mには同時に光は到達する。それが同時だと彼は定義した。そして、AとBから発した光が同時に到達しないところ、上記で言えば<font color="#0000FF">列車上の点M’は、AとBとを同時だと認められない場所だ</font>と言うのである。<br /><br /><br />しかし、僕たちは、この引用の前に確かめておいた。AとBの中点MよりB寄りにある点M’や、A寄りにある点M’’について考察しておいた。中点MにAとBからそれぞれ発した光が同時に着いても、点M’や点M’’には、当然、それら光は同時には到達しない。<font color="#008000"><u>むしろ、AとBから発した光が同時であるからこそ、</u></font>それら点M’や点M’’には同時にそれら光が到達しないのである! <br /><br /><br />その実験で、実験者が、AとBから光が発した後、すぐ、中点Mにある目印を点M’や点M’’にずらしたとする。AとBから光の発したのが同時である場合、点M’及び点M’’には、同時に光は到達しない。むしろ、してはならない。それと同じことがこの引用文にも言える。列車内の点M’は、こう考えることができる。<br /><br /><br />当初は、点M’は、線分ABの中点であった。AとBから同時に光を発した。その際、その点M’を、実験者が少しB寄りにずらした、と。<br /><br /><br />先に確認した思考実験のように考えれば、列車上のこの移動された点M’にAとBからの光が同時に到達するはずのないことは一目瞭然である。こんなことから、列車内の点M’には、AとBに落雷があったことは、同時ではないとは言えないのである。<br /><br /><br /><br /><br /><br />　ちなみに、ここでは特に、光を、日常で理解しているそのものとして把握しておくことが必要である。光源が特に眩しくなる。すると、その周囲のありようが『それ相応』なありように変わる。僕たちは、<font color="#FF0000"><u>遠くの一点Aに、或いはBに、落雷そのものを認める。</u></font><br /><br /><br /><br />僕たちの認める落雷は、<font color="#0000FF">点A或いは点Bからこちらにまで波打っているそんな波</font>ではない。或いはそれらの点から、<font color="#0000FF">こちらに進行してくる粒子</font>でもない。<br /><br /><br />僕たちが問題にする落雷は、<font color="#FF0000"><u>点A或いはBの位置そのものにて、僕らから離れて起こる明るい破裂</u></font>なのである! アインシュタインはここで明らかに落雷を捉え損なっている。<br /><br /><br />点A及び点Bそのものの場所に、観測者から離れて認められる光の炸裂とは捉え得ていないのだ。その観測者は点M或いはM’にいる。<font color="#0000FF"><u>その観測者の目玉にくっ付いてくる粒子か波動を光と考えている</u></font>のである。<br /><br />( 続く )<br />(C)2009 Yuh Yana. All Rights Reserved.
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10221191114.html</link>  
      <pubDate>Fri, 13 Mar 2009 07:55:00 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>アインシュタイン第八図</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 =========================================<br />舌を出したアインシュタインの写真についての試論<br /><br />アインシュタインは自著の第六章で、「速度の加法定理を否定」する。<br />それは下のエントリの緑色の文字部分。<br />http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10181501177.html<br />その第七章でそう否定する理由を語ろうとしている。<br />それは上記青い文字部分。<br /><br />マイケルソン・モーレーの実験の正しい捉え方は<br />http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10162948953.html<br />http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10166431667.html<br />=========================================<br /><br /><br /><br />　この辺りの同時刻についての解釈の仕方について、内山龍雄氏による「相対性理論入門」(岩波書店) p.50から引用してその詳細を検討してみよう。<br /><br /><br />アインシュタインの速度観に則ると、同時刻ということがどう解釈されなければならなくなるか、物理学者である内山氏に確認してもらおう。「7　同時刻」と題された文章を見てみる。<br /><br /><br /><blockquote><font color="#0000FF"><em>　これから相対性理論のたいがいの教科書にのっている思考実験を、少しリアリスティックに脚色してみよう。<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/79/db/10138947047.jpg"><img src="http://stat.ameba.jp/user_images/79/db/10138947047_s.jpg"  alt="欧米神話戯画-第八図 ( 内山龍雄著「相対性理論入門」から引用 )"style="clear:both;float:left;"  border="0" /></a><br /><br />いま深夜、まっ暗な駅を、夜行列車が一定の速さvでとおりすぎたとしよう。<br /><br />いま或る客車の中心Mが、プラットホームに立っている電灯Lのまん前に来た瞬間に、一瞬この電灯にあかりがつき、再び消えたとする。<br /><br />電灯から発射された光は、客車の窓から車内にはいり、第8図の左右にひろがって行き、<br /><br />右に進んだ光は、やがて車の先端Aに到達する。また左に進んだ光は、車の後端Bに到達する。<br /><br />この現象を電灯Lの真下にたっている駅員S、および車内の中心Mのすぐ近くに着席している乗客S’がながめたとしよう。<br /><br />　まず地上に固定された慣性系を基準として、駅員Sがこの現象ながめたとする。<br /><br />光はLを中心として、四方に一定の速さcで伝播する。第8図は左方に進んだ光が丁度、車の後端Bに到達した瞬間の様子を示す。<br /><br />この時、右方に進んだ光はB’に到達する。BLとLB’の長さが等しいことはいうまでもない。<br /><br />右に進んだ光が車の先端Aに到達するには、さらに時間がかかる。つまり(駅員)Sから見た場合、同じ瞬間に左右に向って発射された光が、左右先端に到達する時刻は同時刻ではない。<br /><br />車の後端Bがまず一瞬パッと明るくなり、しばらくして先端Aが照らされる。</em></font></blockquote><br /><br /><br />　この段階で内山氏は間違ってしまっている。物理学者は、マイケルソン・モーレーの実験の結果を解釈し損ねる。<font color="#FF0000"><u>地球が、地球地面上の空間ごと移動している</u></font>と理解していない。地球を、<font color="#0000FF">囲いの無い、吹きさらしの一枚板</font>のように考えてしまうのである。<br /><br /><br />そして、例えば、地球上にいる観測者の眼前にある一点Mについてこう考える。地球が宇宙内を移動すると、<font color="#0000FF">その一点Mは、観測者からすれば、後方に置き去られていく</font>のだ、と。<br /><br /><br /><br />しかし、実際のところ、この点Mは、地球の移動につれて、観測者の眼前にそのままあるのだ。つまり、一点Mと観測者は、そのままの空間秩序で移動するのである。それと同じく、<font color="#FF0000"><u>電車も、電車内の空間ごと前方に移動</u></font>する。<br /><br /><br /><br />電車車内にいる乗客S’の眼前にある点Mは電車の進行につれ、ずっと、乗客S’の眼前にそのままある。車内空間ごと電車は移動しているのである。それを物理学者である内山氏は理解し損ねている。<font color="#0000FF">彼の上記の解説では、車内は、吹きさらしであることになってしまう。</font><br /><br /><br />乗客S’の眼前にあった点Mは、電車が移動すればする程、電車のヨリ後方に置き去られることになる。点Mのあった場所が、絶えず、前方にあった新たな空間と取って代わることになってしまうのである。<br /><br /><br />　車内に光が入ってくる。今、列車の進行方向のずっと先に杭Xが地面に打ち付けてあるとする。この客車内の空間は、<font color="#FF0000"><u>その空間秩序を保ったまま、杭Xに、速度vの割合で近付いている</u>。</font><br /><br /><br /><br />客車内の空間の中でじっとしているものがあるとする。それは、そのままじっとしていても、<font color="#FF0000">杭Xに速度vの割合で近付いている</font>のである。光がこの客車内に入ると、例え進まなくても、速度vの割合で杭Xに近付く。<br /><br /><br /><br />しかし、光が進まないことはない。車外では、速度cの割合で、杭Xに近付いていた。だから、<font color="#FF0000">列車内に入った光は、列車の進行方向に向けて進んだ場合、杭Xにc＋vの割合で近付く</font>ことになる。<br /><br /><br />一方、列車の進行方向とは逆に進む光にもまた、同じことが言える。もし、その光が進まないとしても、それは、速度vの割合で、杭Xに近付く。しかし、この光もまた進む。だから、<font color="#FF0000">この光が、杭Xから遠ざかる割合はc－vとなる</font>わけなのだ。<br /><br /><br />光が客車に入ったその窓は、列車のちょうど中点に位置するということである。窓から入ったちょうどその時、光は、列車の後端からも、列車の前端からも、同距離だけ離れている。そして、この場合、列車の一番前端は、杭Xに速度vの割合で近付いている。だから、<font color="#FF0000"><strong>この前端に光が近付く割合は、速度c</strong></font>である。光が杭Xに近付く割合c＋vから、列車の前端が杭Xに近付く割合vを引けば良いのだ。<br /><br /><br />一方、列車の後端も、杭Xに速度vの割合で近付いている。列車の後端に向かう光は、杭Xから速度c－vの割合で遠ざかっている。だから、<font color="#FF0000"><strong>この光と、列車の後端とが近付く割合は、c－v＋vとなる。つまり速度cである。</strong></font><br /><br /><br /><br /><font color="#FF0000"><u>光は、列車の前端にも後端にも、同時に到着する</u></font>のである。これは、列車が、列車内の空間ごと前方に進んでいることを理解すれば簡単にかわることである。<br /><br /><br />　けれども、物理学者である内山氏は、それを理解していない。まるで、列車を、囲いの無い、吹きさらしの一枚板のように考えている。もし内山氏の考える通りなら、乗客S’の眼前にある一点Mは、電車の進行につれて、列車よりヨリ後方に位置することになる。<br /><br /><br />列車の地面(一枚板)だけが、前方に移動し、列車内の空間は、後方に置き去られ、常に前方にあった空間が列車上にやってくることになる。だから、<font color="#0000FF">光が列車の後端に到達したとき、列車前方に進行する光は、B’にまでしか来ていないと誤解してしまう</font>ことになるわけなのである。<br /><br /><br /><br /><font color="#0000FF"><u>光は、その吹きさらしの板の上を、どちらの方向にも速度cで進む。</u></font>だから、杭Xに速度vで近付く列車前端にはc－vの割合で近づく。そんな後端にはc＋vで近づく、というわけだ。そのままの秩序で移動する車内空間の中に光があるということを理解しえていないのだ。<br /><br />(続く)<br />(C)2009 Yuh Yana. All Rights Reserved.
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10205542236.html</link>  
      <pubDate>Fri, 13 Feb 2009 07:50:00 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>速度とは目的地に近付く割合である</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 =========================================<br />舌を出したアインシュタインの写真についての試論<br /><br />アインシュタインは自著の第六章で、「速度の加法定理を否定」する。<br />それは下のエントリの緑色の文字部分。<br /><br />http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10181501177.html<br />その第七章でそう否定する理由を語ろうとしている。<br />それは上記青い文字部分。<br /><br />マイケルソン・モーレーの実験の正しい捉え方は<br />http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10162948953.html<br />http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10166431667.html<br />=========================================<br /><br /><br /><br />　先に僕が説明したところをもっと簡単に解説しなおせばこうである。アインシュタインたち物理学者が採りあげる光なるものを僕もここで扱う。その光は、地球地面に打ち付けられた杭Xに向かって真っ直ぐ速度cの割合で近付いている。<br /><br /><br />光のその進行過程上を列車が、同方向に走っている。その列車のレールのすぐ近くで、観測者Sがじっと立っている。なお、この列車には乗客Aが乗っている。自分の席に座っているのである。<br /><br /><br />今、この列車がちょうど観測者Sの目の前を通り過ぎようとしている。観測者Sと乗客Aは、光から同距離だけ離れている状態にある。列車の進行速度はvである。<br /><br /><br />これこそ、先程からずっと、僕たちが使ってきた例である。引き続き、この例で考えていこう。<br /><br /><br /><br /><br /><br />　では、これからこの光は、<font color="#008000">乗客Aと観測者Sのどちらに先、ぶつかるだろうか。</font>列車は光と同方向に進んでいる。一方、観測者Sは立ち止まったままである。簡単な話しである。<br /><br /><br />光が、観測者Sに近付く割合は、速度cである。光と乗客Aとが近付く割合は、c－vである。<font color="#FF0000">観測者Sが先にぶつかるに決まっている。</font><br /><br /><br /><br /><br /><br />　しかし、アインシュタインの速度観ではそう考えることができない。彼は、こう考える。<font color="#0000FF">光の発射源がどれくらいの速度で運動していようが、光の速度に関係はない、</font>と。それはそうである。それは事実だ。しかし、それを間違って次のように拡張してしまう。今の例の場合で言えばこんなふうに。<font color="#0000FF"><u>この光が、観測者Sに近付く割合も、乗客Aに近付く割合も、共に同じ</u></font>であるのだ、と。<br /><br /><br />これが彼の速度観である。そんな速度観に則って彼は考え始める。しかし、事実はこうだ。<font color="#FF0000"><u>乗客Aから見ても、光は、観測者S(或いは杭X)に一定の速度で近付いている</u></font>ように見える。列車の進行方向がどうであれ、進行速度がどのくらいであれ、光が観測者Sに速度cの割合で近付いているようにしか、乗客Aには見えない。が、<font color="#008000">これは、乗客Aと光の近付く割合もcである、ということではない。</font><br /><br /><br /><br />乗客Aと光の近付く割合はc－vである。何度も言おう。アインシュタインもまた、他の物理学者同様、速度を時間順序的『一連続』なありようの元で、捉え得ていない。<font color="#008000">例えば、<u>目的地に近付く割合</u>として速度を捉えることができない。</font><br /><br /><br /><br /><br /><br />　アインシュタインやその同調者たちの論調でいけばこの例はこう解説されるのだろう。<font color="#0000FF">今、乗客Aを基準にして、全てを見る。</font>すると、<font color="#0000FF">彼には、光が速度cと見える</font> (乗客Aにその速度割合で光が近付いてくるという間違った意味である)。観測者Sは後方に、速度vで遠ざかっている。だから、乗客Aから見ている限りでは、<font color="#0000FF"><u>観測者Sは、光とc＋vの割合で近付いているように見える。</u></font><br /><br /><br /><br />自分は観測者Sが、光とぶつかった後しばらくして、光とぶつかることになるというわけなのである。乗客Aには、<font color="#0000FF">自分が光とぶつかったのと同時に、観測者Sも光とぶつかっているとは見えない</font>のである。<br /><br /><br />一方<font color="#0000FF">全てを今度は、観測者Sから見てみる。</font><font color="#0000FF">光は彼には速度cと見える</font>。列車は速度vで遠ざかっている。<font color="#0000FF">この列車と光とは、c－vの割合で近付いているように見える。</font>だから、観測者Sから見る限り、<font color="#0000FF">自分が光にぶつかっている時、乗客Aは光と未だぶつかっていない。</font>観測者Sにとっても、自分が光とぶつかったのと同時に、乗客Aが光とぶつかっているようには見えていないのだ。<br /><br /><br />しかし、アインシュタインの速度観によると、<font color="#0000FF"><u>光は、乗客Aにも観測者Sにも、共に速度cの割合で近付いている</u></font>のである。<br /><br /><br />乗客Aにとっては、彼が光にぶつかったとき、観測者Sはそれ以前に光にぶつかり終わっているように見える。それが乗客Aにとっての同時刻の出来事である。<br /><br /><br />しかし、アインシュタインの発見のおかげで、<font color="#0000FF"><u>実は乗客Aが光とぶつかったその時、観測者S自身も、光とぶつかる体験をしている</u></font>と明らかになった。<br /><br /><br />というのも、乗客A、観測者S共に、光が速度cと見えるからである。当初、乗客Aと観測者Sとは同距離だけ光から離れていた。だから、乗客A、観測者Sとも、同時に光とぶつかることになる、というわけだ。よって、乗客Aにとっての同時刻の二つ出来事は、同時刻の出来事ではないという奇妙なことになる。<br /><br /><br />彼が光にぶつかった時、彼には、観測者Sははるか以前に光とぶつかり終わっていると見えているのだ。それが乗客Aにとっての同時刻の出来事だった。しかし今や、アインシュタインのおかげで、<font color="#0000FF"><u>本当に同時刻なのは、彼らが光にぶつかる時だ</u></font>ということになるのである。<br /><br /><br />観測者Sが光とぶつかっているその時、観測者Sには乗客Aが未だに光にぶつかっていないように見える。ところが、アインシュタインによれば、<font color="#0000FF">乗客A自身は、その時刻に、光とぶつかる体験をしている</font>ことになるのだ。<br /><br /><br />このようにして、アインシュタイン及びその同調者の屁理屈で、乗客Aと観測者Sの同時刻はそれぞれ別ものということになる。どう考えても、アインシュタインの速度観に基づく限り、同時刻というものが、日常、僕たちが体験にて信じている同時刻とは別ものにならなければならない。<br /><br /><br />僕らの体験では、<font color="#FF0000">乗客Aが光にぶつかる時刻と、観測者Sが光にぶつかる時刻とは別時刻</font>である。同時刻ではない。乗客Aが同時刻の出来事と思うものは、観測者Sにとっても同時刻の出来事である。<br /><br /><br />僕たちは自分たちの体験上の時刻観を信じる。僕たちは、速度を、体験の時間順序的『一連続』なありようの元で捉える。<font color="#FF0000"><u>杭Xや乗客Aに近付く割合</u></font>として考えることで。<br /><br /><br />そうすると、僕たちの体験上の時刻観を否定するものは、この世に何一つとしてないことがわかる。唯一、僕たちのその時刻観を否定するものがあるとすれば、それは古典物理学者やアインシュタインの間違った速度観だけである。けれども、あくまでそれらは間違っているのだ。<br /><br />(続く)<br />(C)2009 Yuh Yana. All Rights Reserved.
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10203899941.html</link>  
      <pubDate>Sat, 07 Feb 2009 14:11:16 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>アインシュタイン試論 vol.22</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 =========================================<br />舌を出したアインシュタインの写真についての試論<br /><br />アインシュタインは自著の第六章で、「速度の加法定理を否定」する。<br />それは下のエントリの緑色の文字部分。<br />http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10181501177.html<br />その第七章でそう否定する理由を語ろうとしている。<br />それは上記青い文字部分。<br /><br />(注)<br />今、例に挙げて語っている状況は、次のURLのエントリ冒頭<br />の緑色を付けた部分で確認ください。<br />http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10191968641.html<br />=========================================<br /><br /><br /><br />　けれども、どうしたところで、僕たちの日常体験では、<br />アインシュタインの言う同時刻は受け入れられない。<br />時計を使って考えてみよう。<br />上記の例を引き続き使う。<br /><br /><br />実際は、観察者Sが光にぶつかる時刻の時計の針と、<br />乗客Aが光とぶつかる時刻の時計の針とは、<br /><br /><br /><br />別時刻<br /><br /><br /><br />を指している。<br />ということで、アインシュタインは、<br />第12章にて「運動している棒と時計の挙動」を採りあげることになる。<br /><br /><br />観察者Sが光にぶつかったとき、彼が持っているその時計が、<br />時刻sをさしていたとする。<br /><br /><br />乗客Aが光とぶつかった時に、乗客Aが持っている時計の針もまた、<br />アインシュタインの考えによれば、<br /><br /><br /><br />時刻s<br /><br /><br /><br />をさしているのでなければならない! <br />しかし、実際は乗客Aの時計は<br /><br /><br /><br />時刻sより後の時刻をさしている<br /><br /><br /><br />はずである。<br />光が乗客Aにぶつかるまでに進んだ距離は、<br />光が観察者Sにぶつかるまでに進んだ距離まで縮んだものだ<br />とアインシュタインによって解釈される。<br />今度は、<br /><br /><br /><br />乗客Aの持っている時計の進度が、遅くならなければならない<br /><br /><br /><br />のである。<br />本当は時刻aまで進んでいるはずのところ、<br /><br /><br /><br />時刻sまでしか進んでいない<br /><br /><br /><br />ことにしなければならないのだ。<br />こうして、アインシュタインは、<br /><br /><br /><br />時計の針というものは、時計が空間移動していると、遅れる<br /><br /><br /><br />ということにしてしまう! <br />そのように遅れることで、時計は、アインシュタインの同時刻を保証するわけなのだ。<br /><br /><br /><br /><br /><br />　先を急ぎすぎた。少し戻ろう。<br />一つ一つ、じっくり確認していかなければならない。<br /><br /><br />僕たちは、例を出して考えてきた。<br />先ず、アインシュタインが、<br />相対性原理と光の伝播法則が両立すると考える<br />その理屈を点検していたのだった。<br />彼によると両立するためには、<br /><br /><br /><br />「古典力学による速度の加法定理」を否定<br /><br /><br /><br />しなければならなかった。<br />そうして、彼は代わりに新しい速度観を提示することになった。<br />その速度観によって、日常生活の速度観を自覚して僕たちが主張する<br />正しい速度の捉え方をも彼は否定するのだった。<br />物理学の伝統通り、アインシュタインも、<br /><br /><br /><br />速度を、目的地に近付く割合とは捉え得ない。<br /><br /><br /><br />互いが近付く割合を全て物に帰し、<br />そのものの一「属性」にしてしまう。<br /><br /><br /><br />彼の速度観で、光は、乗客Aとも観測者Sとも速度cの割合で近付く<br /><br /><br /><br />ということになってしまったのである。<br />だから、<br /><br /><br /><br />別時刻の二つの出来事がアインシュタインには「同時刻」とならなければならなくなった。<br /><br /><br /><br />僕たちが確かめた限りでは、アインシュタインは確実に間違っている。<br />荒唐無稽で哀れな屁理屈を捏造しているだけである。<br />それとも、<br /><br /><br />「いや、そうではない、君の解説が、間違ったアインシュタイン解釈なのだ」<br />というわけなのだろうか。<br /><br /><br />では、内山龍雄著、「相対性理論入門」(岩波書店)のp.47から引用して確認しよう。<br />下の引用で言う「光速度不変の原理」とは<br />アインシュタインが「光の伝播法則」と呼んだものである。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><blockquote><em><font color="#0000FF">　さきにも述べたように、相対性理論を作るのには、<br />相対性原理と光速度不変の原理という二つの原理が必要である。<br />(略)<br /><br />　ところでこれら二つの原理を組み合わせると、まことに奇妙なことがおこる。<br />第7図において<br /><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/f1/89/10133852231.jpg"><img src="http://stat.ameba.jp/user_images/f1/89/10133852231_s.jpg"  alt="欧米神話戯画-第七図 ( 内山龍雄著「相対性理論入門」より)" width="220" height="129" border="0" /></a><br />地上に固定されている街灯から発射された光Aを、<br />地上にたちどまっている観測者Sがながめたとすれば、<br />光の速さはcである<br />(話を簡単にするためにすべては真空中におきた現象とする)。<br /><br />また地上を一定の速さvで図のように走っている自動車<br />のヘッドライトから出る光Bを、Sがながめたとき、<br />光速度不変の原理によれば、Bの速さもcである。<br /><br />　つぎに自動車にのっている第二の観測者S’から、すべてをながめてみよう。<br />S’から見れば、自動車も、そのヘッドライトも、常に静止している。</font></em></blockquote><br /><br /><br /><br /><br /><br />　間違ってガリレイ変換を正しいと信じ、<br />「速度の合成則」をしている内山氏は同じ間違いを<br />前の方で引用した文章でもしでかしていた。<br />観測者S’から見ても、<br /><br /><br /><br />自動車は観測者Sに速度vの割合で近付いているように見える<br /><br /><br /><br />のである。<br />自動車の内の<br /><br /><br /><br />「S’から見れば、自動車も、そのヘッドライトも、常に静止している」というのでは決してない<br /><br /><br /><br />のだ。<br />この自動車の進行方向のずっと先に杭Xが打ち付けてあるとしよう。<br />そう仮定すれば、こう言える。<br />観測者Sから見ても、観測者S’から見ても、<br /><br /><br /><br />共に、自動車は杭Xに速度vの割合で近付いているように見える、<br /><br /><br /><br />と。<br />引用を続けよう。<br />この自動車のヘッドライトBについて彼はこう解説する。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><blockquote><font color="#0000FF"><em>ところで相対性原理によれば、<br />Sに対してなりたつ法則はS’に対してもそのまま適用できる筈である。<br />したがってS’から見ても静止している光源から出た光Bの速さはcである。<br /><br />つまり同じ光Bを、Sから見ても、またS’から見ても、<br />その伝播速度が同じであるという奇妙なことになる。<br /><br />これは従来のわれわれの常識にそむくものである。<br />いいかえればギャリレイ変換が破綻したことを示す。</em></font></blockquote><br /><br /><br /><br /><br /><br />　Sから見ようが、観測者S’から見ようが、<br />ヘッドライトの光Bが杭Xに近付く割合cは同じである。<br />ただし、<br /><br /><br /><br />この光Bが観測者S或いは杭Xに近付く割合と、観測者S’から遠ざかる割合とは、同じではない。<br /><br /><br /><br />ところが、アインシュタインの速度観では、<br />この光Bが観測者S或いは杭Xに近付く割合と、<br />観測者S’から遠ざかる割合とが<br /><br /><br /><br />同じcだ<br /><br /><br /><br />ということになる。<br />これは、前の方で僕たちが解説したように、<br />僕たちの世界観に反する。<br />だから、内山氏も<br /><br /><br /><br />「従来のわれわれの常識にそくむ」<br /><br /><br /><br />と言うのである。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><blockquote><font color="#0000FF"><em>　アインシュタインはこの両原理をもとにして、<br />従来の物理学の理論とは異なる新しい理論体系を創りあげた。<br />これが相対性理論である。<br /><br />この理論の最も特徴的な点は、<br />時間・空間に対する考えかたが、<br />われわれの常識となっていたニュートン以来の伝統的な考えかたと<br />異るということである。<br /><br />この理論は、また特に、<br />それから導かれる反常識的な種々の結論は、<br />単に物理学界のみならず、<br />一般の人々のあいだにも大きなセンセーションをまきおこした。<br /><br />いまだに相対性理論の啓蒙書に人気があるのは、<br />ひとつにはこのためであろう。<br />そこで、これから時間・空間に対する<br />反常識的な新しい考えかたについて説明してみよう。</font></em></font><br /><br /><br /><br /><br /><br />　僕のアインシュタイン解説が間違いでもなさそうである<br />とこれで読者諸氏も思われるだろう。<br />僕たちは今後も、この内山氏の入門書と<br />アインシュタイン自身による前掲書とを導きの糸として、<br />彼の過ちを段階を踏んで見ていこう。<br /><br /><br /><br />彼のあやまちは、速度観にある。<br /><br /><br /><br />光 ( しかし先に見たよう、光だけに限るのではない ) は、<br />観測者がどうあろうが、<br />その観測者にいつも一定の割合で近付くと彼は考え間違った。<br /><br /><br />そういう間違った速度観を抱くことで、彼は、<br />別時刻同士の出来事を同時刻に起こると解さなければならなくなった。<br />そこで、彼は「同時刻」というものを、彼の間違った速度観に合うよう改変する。<br /><br /><br /><br />それが「同時刻の相対化」である。<br /><br /><br /><br />そして、距離も同じく、<br />彼の速度観に合うよう解釈し直す。<br /><br /><br /><br />自分の都合に合うよう縮めてしまう。<br /><br /><br /><br />ローレンツ収縮を利用して。<br />しかも、時計の進み具合すら、彼は、<br />彼の速度観に都合の良いものに変えてしまわなければならない。<br /><br /><br />光は、観測者がどう動こうが常に、<br />その観測者に一定の同じ割合で近付くという<br />間違った速度観を確立してしまった以上、<br />そうしなければならなくなるのは、当然である。<br /><br /><br />ではまず、「同時刻」について<br />アインシュタインがどう考えたか、<br />僕たちはその後をじっくり追っていくことにしよう。<br /><br />(続く)<br />(C)2009 Yuh Yana. All Rights Reserved.
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10198320751.html</link>  
      <pubDate>Fri, 30 Jan 2009 07:00:00 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>アインシュタインの速度観</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 =========================================<br /><a href="http://www.mag2.com/m/0000266459.html" target="_blank">舌を出したアインシュタインの写真についての試論</a><br /><br />アインシュタインは自著の第六章で、「速度の加法定理を否定」する。<br />それは下のエントリの緑色の文字部分。<br /><a href="http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10181501177.html" target="_blank">http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10181501177.html</a><br />その第七章でそう否定する理由を語ろうとしている。<br />それは上記青い文字部分。<br />=========================================<br /><br /><br /><br /><u>第二節　アインシュタインの速度観</u><br /><br /><br /><br />　例を使って考えよう。<font color="#008000">列車が速度vで走っている。光はそれと同一方向に速度cで進んでいる。ここでの登場人物は観測者Sと乗客Aである。観測者Sは、この列車が進行しているレールのすぐ近くに立ち尽くしている。列車は彼に近付いている。乗客Aは、当の列車内の一席に座っている。</font><br /><br /><br />では、光速度を考えよう。それは、<font color="#008000">観測者Sに速度cの割合で近付く</font>ことになっている。<font color="#008000">観測者Sには、列車が速度vの割合で近付いてきている。今、列車の進行方向のずっと先のレール上に、杭Xが打ち付けてあると仮定しよう。</font><br /><br /><br /><br /><u>乗客Aから見ると、この光はどれ位の速度と見えるだろうか。</u>何度も言ったように、速度cと見えるのだ。これは、観測者Sについても言えることである。観測者Sにも、この光は速度cと見える。<font color="#FF0000">乗客Aから見ようが、観測者Sから見ようが、光は杭Xに速度cの割合で近付いている</font>ように見えるのである。杭Xに近付く光の割合は、どこからどんなふうに見ようが、同じ速度cである。これは当然なことだ。<br /><br /><br /><br />　では、<u>乗客Aと、この光とはどれ位の割合で近付いているのだろう</u>。列車の速度は光と同方向にvである。<font color="#FF0000">乗客Aと、この光は、速度c－vの割合で近付いている</font>のだ。光についてはこう言えることになる。<font color="#FF0000">光は、乗客Aとは速度c－vの割合で近付き、『同時』に、観測者Sには速度cの割合で近付いている</font>、と。<br /><br /><br />観測者Sから見ようが、乗客Aから見ようが、光の杭Xに近付く割合は同じcである。一方、乗客A、観測者Sそれぞれと光が近付く割合は上記のように、c－vとcである。<br /><br /><br />観測者Sと乗客Aの状態が違うのだから、このように近付く割合が異なっても全く不思議ではない。これこそ、事実に即した、速度の捉え方である。<br /><br /><br /><br />　一方、ガリレイ変換つまり「速度の合成則」、アインシュタインの言い方で言えば「古典力学による速度の加法定理」に則ると、こう考え間違うことになる。<font color="#0000FF">乗客Aには、光が速度c－vと「見え」、観測者Sにはそれが速度cに「見える」</font>と。<br /><br /><br />光の伝播法則で光は速度c =30万km/sであるということなのに、乗客Aから見ると、光はその法則に当てはまらなくなってしまう、というわけだ。彼らにとって、速度とは、物のベクトルなのである。<br /><br /><br />しかし、確認したように、観客Aから見ようが、観測者Sから見ようが、光速は変わらない。光が杭Xに近付く割合は同じなのである。<font color="#FF0000">異なるのは、観客Aと観測者Sそれぞれと光が近付くその割合だけ</font>である。物理学は、光と観測者S、或いは乗客Aとの関係を『一連続』なありようとして捉えられない。<font color="#0000FF">互いが近付く割合を全て、光のものに帰してしまう</font>のだ。<br /><br /><br /><br />　物理学では、速度について勘違いしてきた。そんな間違った速度観に基づいて、アインシュタインも速度を考えることになる。この例の場合、僕たちは、光が杭Xに近付く割合と、乗客A或いは観察者Sそれぞれに光が近付く割合の二つを考えるべきである。<font color="#FF0000">光がどの目的地に近付く割合を自分は考えているのか、明確に</font>しないといけない。<br /><br /><br />しかし、物理学では、前者の、<font color="#0000FF">光が杭Xに近付く割合の方は考えない</font>。後者しか考慮しない。しかも、光と乗客A或いは観測者S<font color="#0000FF">とが近付く割合のことを、光の速度そのものと勘違い</font>してしまう。<br /><br /><br />乗客Aから見える光の速度そのものは、c－vになると言ってしまう。<font color="#0000FF">乗客Aには、光が一秒あたりc－vで進むように見える</font>と考えてしまうのだ。しかし、乗客Aから見ても、光はまさに杭Xに速度cの割合で近付いているのである。<br /><br /><br /><br />　古典物理学では、間違って、次のように考えてしまう。上記の例で言えば、乗客Aには、光がc－vで進んでいるように「見える」と。乗客Aと光とが近付く割合という意味で、そう言うのなら正しい。しかし、彼らは乗客Aには、光の速度がc－vになると言ってしまっているのである。<br /><br /><br /><u>観測者Sが一定期間、その光を見ていたとする。乗客Aも同じ期間だけその光を見ていたとする。</u>そうすると、古典物理学者の速度観では、<font color="#0000FF">その一定期間に光の進んだ距離は、観測者Sから見たものと、乗客Aから見たものとは、違ってくる</font>ことになる。<br /><br /><br />観測者Sが見ていた光の方が、単位時間に速度vの割合分だけ、多くの距離を移動したことになってしまう。<br /><br /><br /><font color="#0000FF">時間tの間に観測者Sの見ていたその光は、ctだけ進む。その同じ光が、乗客Aから見れば、(c－v)×tだけしか進んでいないことになってしまう</font>のである。<br /><br /><br />それもこれも、古典物理学者が、「速度の合成則」をし、こう言ってしまうからである。乗客Aには、その光が、速度c－vに「見える」と。「光そのもの」の速度をc－vと言ってしまうところに、彼らの間違いがあるのだ。それは、あくまで光と乗客Aとが近付く割合にすぎないのである。杭Xに、その光は、乗客Aから見ても、速度cの割合で近付くのである。<br /><br /><br /><br />　ガリレイ変換つまり「速度の合成則」をする人たちは、速度についてきっちり理解していない。彼らのそんな無理解を引き継いで、アインシュタインは、自分の速度観を確立した。<br /><br /><br />挙げ句、普段、誰でも理解している速度観とは相容れない、事実に反する速度観を提唱することになってしまったのである。彼が言うには、<font color="#808000">光は、観測者Sにも乗客Aにも共に速度cという同じ割合で近付く</font>、のである!<br /><br /><br />が、乗客Aは実際のところ、光とc－vの割合で近付いているのだ。それは普段、速度を理解している人なら誰でもわかることである。一方、観測者Sに光は速度cの割合で近付いている。<br /><br /><br />乗客Aと観測者Sは元々、光から同距離だけ離れている。そういう状態を今考えているのだとしよう。すると、光は乗客Aに先にぶつかることになる。しばらくして後、観測者Sにぶつかるのである。けれども、アインシュタインは言う。<font color="#808000">光は、乗客Aにも観測者Sにも同じ割合cで近付く</font>のだ、と。そう考えると、<font color="#808000"><u>乗客Aにも観測者Sにも、光は同時にぶつかる</u></font>ことになってしまうはずだ。<br /><br /><br /><font color="#FF0000">現実では、光が観測者Sにぶつかる時刻と、光が乗客Aにぶつかる時刻とは別時刻</font>である。それを<font color="#808000">アインシュタインは「同時刻」と認めなければならなくなった</font>のである!<br /><br /><br />彼がそんな速度観を信奉するようになったのは、内山氏の解説にあったように、その速度観が、マイケルソン・モーレーの実験の結果を唯一解釈しえるものだと彼が勘違いしたからだろう。<br /><br /><br />しかも、彼は、相対性原理と光の伝播法則とを一致させるのが、彼のその速度観だとも誤解した。<br /><br /><br />ずっと前の方で、僕たちは、内山氏のギャリレイ変換についての解説文を読んだ。そこには慣性系がどうのこうのと書いてあった。それについて僕は、僕たちの正しい速度観をもってすればわざわざそんな難解な言葉を持ち出してくる必要はないと言った。<br /><br /><br />光は杭Xに速度cの割合で近付いている。乗客Aと光とは速度c－vの割合で近付いている。<br /><br /><br />観測者Sついてだけではなく、乗客Aについても光と近付く割合をすっきりした式で言い表せる。単にそうであることを、乗客Aもまた慣性系だからだと言ったりする。<br /><br /><br />或いは、観測者Ｓについてだけではなく、乗客Aと光の近付く割合も言えるようになることを、相対性原理と呼んだりする。<br /><br /><br />そうしたことには、大した意味があるとは思えないと指摘しているのだ。そんな相対性原理と、光の伝播法則とは、一致しないと言ったのが、アイシンシュタインだ。しかし、僕たちの速度観をもってすれば、既に、相対性原理なるものと、光の伝播法則とが初めから見事に一致している<br /><br /><br /><br />ことは誰にでもわかる。光の観測者Sに近付く割合が言えた。乗客Aと光が近付く割合も言える。乗客Aと光の近付く割合はc－vである。<br /><br /><br />こう考えると、光の伝播法則が成立しなくなるとアインシュタインは言う。<font color="#808000">乗客Aから見ると、光の速度がc－vになってしまって、光速度は常に不変のc=30万km/sであるという法則が乗客Aには成立しなくなるという</font>わけだ。<font color="#FF0000">しかし、乗客Aから見ても、光は、杭Xに、c=30万km/sで近付くことに変わりはない! </font><br /><br /><br /><br />それが古典物理学の速度観や、それに則るアインシュタインの速度観をもってしては理解できないだけなのである! 僕たち、日常生活での速度観をしっかり捉えられる者だけが理解できる事実なのである。まさに、乗客Aから見ても、光速度は不変である。<br /><br /><br /><br />そもそも、アインシュタインは、光の速度についてこう定義したではないか。アインシュタイン著「動いている物体の電気力学」1.運動学の部、より(岩波書店出版「アインシュタイン　相対性理論」p.21から)。<br /><br /><br /><blockquote><em>速さ=光の進んだ距離/伝播に要した時間</em></blockquote><br /><br /><br />　乗客Aと光が近付く割合は、c－vである。しかし、<font color="#FF0000">乗客Aが光とぶつかるまでに光が進んだ距離</font>は、<font color="#FF0000">杭Xに光が近付いた距離のこと</font>である。杭Xに光が近付く割合は、速度cだ。乗客Aにぶつかるまでに<font color="#FF0000">光が進んだ距離はct</font>なのである。ぶつかるに要した時間をtとすれば。<br /><br /><br />光の「速さ」は、上記アインシュタインの定義によると、「<font color="#FF0000">光の進んだ距離」であるct</font>を、「伝播に要した時間」であるtで割れば出てくることになる。だから、その「速さ」はやはりcだ。乗客Aと光とがc－vの割合で近付いていても、光は観測者Sに近付くのと同じ割合で、杭Xに近付いているのである。<font color="#FF0000">乗客Aが杭Xに近づいた距離は、v×t</font>である。<br /><br /><br />光が杭Xに近づいた距離ctから、乗客Aが杭Xに近づいた距離vtを引く。すると、ct－vt=(c-v)×t。<font color="#FF0000"><u>単位時間あたり、光と乗客Aはc-vの速度割合で近づいていた</u></font>ということなのである。<br /><br />(続く)<br />(C)2009 Yuh Yana. All Rights Reserved.
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10191968641.html</link>  
      <pubDate>Tue, 13 Jan 2009 17:18:31 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>速度の加法定理は間違っていると言うアインシュタイン　アインシュタイン試論vol.19</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 =========================================<br />舌を出したアインシュタインの写真についての試論<br />第五図(マイケルソン・モーレーの実験)についての解説はこちら。<br />http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10172572764.html<br />=========================================<br /><br /><br /><br /><u>第四章　アインシュタイン特殊相対性理論について<br />第一節　「速度の合成則」否定</u><br /><br /><br /><br />　ここからは、アインシュタイン自身が書いた「特殊および一般相対性理論について」(白揚社)から引用しよう。同書p.32から。<br /><br /><br /><font color="#0000FF"><strong>「第7章　光の伝播法則と相対性原理との見かけ上の不一致」</strong></font>より、彼がどのようにしてガリレイ変換つまり「速度の合成則」を否定するか見てみよう。<br /><br /><br /><blockquote><font color="#0000FF"><em>　物理学の法則には、光が真空中を伝播するさいの法則ほど簡単なものはほかにないであろう。光の伝播は毎秒30万kmの速度(c=300,00km/sec)をもって直線上に起こることは、学校の生徒なら誰でも知っており、あるいは知っていると思っている。<br /><br />とにかくわれわれは、すべての色光についてのこの速度が同一であることを、あらゆる場合においてたいへん厳密に知っている。<br /><br />というのは、もしもそうでないとしたら、恒星が暗い伴星によって掩蔽されるさい、各色光について輻射が極小になる現象が同時に観測されることもないであろう。<br /><br />連星の観測についての同じような考察から、オランダの天文学者ド・ジッターも、光の伝播速度が発光体の運動速度とは無関係であることを示すことができた。<br /><br />光の伝播速度が〈空間における〉方向によって決まる、という仮定はそれ自体確からしくないのである。</em></font></blockquote><br /><br /><br /><br /><br /><br />　<font color="#0000FF"><em>「光の伝播速度が〈空間における〉方向によって決まる、という仮定はそれ自体確からしくない」</em></font>。即ち、<br /><br /><br /><br />光の伝播速度は、どの方向であろうが、一定のc( =30万km/s)である。<br /><br /><br /><br />そうアイシンシュタインは言っている。マイケルソン・モーレーの実験の結果は、内山氏が言うように、彼のそうした考えの一つの根拠なのだろう。引き続き引用しよう。<br /><br /><br /><blockquote><font color="#0000FF"><em>　要するに、光速度cが(真空中において)一定であるという簡明な法則は、学校の生徒に信じてもらってよいとまず仮定しよう!<br /><br />この単純な法則が、誠実で思慮深い物理学者を重大な思考上の困難に陥れるとは、誰に考えられようか。<br /><br />この困難はつぎのようにして起こるのである。　光の伝播速度は、もちろん他のすべての過程と同じように、一つの剛体の基準体(座標系)に準拠させなければならない。</em></font></blockquote><br /><br /><br />　「長さが伸び縮みしない堅い棒」という「理想的物体」を剛体と物理では言うのらしい (岩波書店出版「アインシュタイン　相対性理論」p.109にての内山氏の解説より)。引用を続けよう。<br /><br /><br /><blockquote><font color="#0000FF"><em>そのような基準体として、ふたたびわが軌道堤(電車のレールのこと。屋那より)を選ぶ。その上の空気は除かれていると考えることにしたい。<br /><br />堤防にそって光を送ると、前述のように、その光の先端は堤防に関して速度cで進む。<br /><br />そのレールの上をわが列車はまた速度vをもって、たしかに光の矢と同一方向だが、当然はるかにゆっくりと進む。<br /><br />われわれは、列車に相対的な光線の伝播速度を問うている。<br /><br />ここに、前章の考察が当てはまることは容易にわかる。というのは、列車に対して相対的に走っている男が光線の役をつとめるからである。<br /><br />堤防に対するその男の速度Wのかわりに、ここでは堤防に対する光速度cで置きかえる。すなわち、<br /><br />wはわれわれが求めようとしている列車に対する光速度<br /><br />であり、これについてはまた<br /><br />w=c－v<br /><br />があてはまる。列車に相対的な光線の伝播速度はcより小さいということになる。　しかし、この結果は第5章で述べた相対性原理と矛盾する</em></font></blockquote><br /><br /><br /><br />　この辺りをきっちり理解しておこう。第7章のこの引用部分には「前章の考察が当てはまる」とのことである。では、その前章である<font color="#008000"><strong>第6章</strong></font>からも引用して、確認しておこう。この<font color="#008000"><strong>第6章でアインシュタインは、重要な宣言</strong></font>をしている。<br /><br /><br /><blockquote><font color="#008000"><em>　これまでしばしばお目にかかったわが列車が、レール上を一定速度vで走っているとしよう。<br /><br />その列車内を一人の男が長軸方向に歩いていて、そのときの進行方向の速度はwである。<br /><br />この男はその歩行の間、軌道堤に対してどれほど速く、つまりいかなる速度Wをもって前進していることになるか?<br /><br />唯一の可能な答えは、つぎのように考えれば得られるだろう。　かりに男が一秒間静かに立っているとすれば、列車の進行速度と見合うだけの距離を堤防に対して前進することだろう。<br /><br />しかし現実には歩いているのだから、列車に対してばかりではなく堤防に対しても、この一秒の間にその歩行速度に等しい距離wだけ前進することになる。<br /><br />したがって彼は、その一秒のうちに堤防に対しては合わせて<br /><br />W=v＋w<br /><br />の距離をカバーする。のちにわれわれは、<br /><br /><br /><u>古典力学による速度の加法定理から出たこの判断が支持されない</u>こと、<br /><br /><br />したがって、たったいまここに書きとめた法則が真理を射とめていないことを知るであろう。だが、しばらくはそれを正しいものとしておこう。</em></font></blockquote><br /><br /><br /><br />　古典力学の速度観、つまり「速度の合成則」すなわちガリレイ変換をここでアインシュタインは<br /><br /><br /><br /><font color="#008000"><em>「古典力学による速度の加法定理」</em></font><br /><br /><br /><br />と呼んで、採りあげている。<font color="#008000"><em>「のちにわれわれは、古典力学による速度の加法定理から出たこの判断が支持されないこと、したがって、たったいまここに書きとめた法則が真理を射とめていないことを知るであろう」</em></font>と宣言している。<br /><br /><br /><br /><font color="#008000"><strong>「速度の合成則」は間違った速度観である</strong></font><br /><br /><br /><br />と言っているのだ。その速度観に従えば、以上のようになると例を出してここで考察している。地上に、或いはアインシュタインの言い方では言えば軌道堤に、じっと立っている観測者Sがいる。<br /><br /><br />彼は、レールの近くにいる。列車は、彼に、速度vの割合で近付いている。その列車の中を或る男が歩いている。<br /><br /><br />彼は、進行方向前方にある自分の席に速度wの割合で近付いている。その席は、地上の観測者Sに速度vの割合で近付いているのだった。その席に男が速度wで近付いているのである。だから、<br /><br /><br /><br />観測者Sにこの男が近付いてくる割合は、速度v＋wである<br /><br /><br /><br />だろう。これは、古典物理学の速度観でもなんでもない。日常、速度というものを理解している全ての人にとっての正しい速度観である。<br /><br /><br />ただし、古典物理学は、このことを誤解して次のように言ってしまう。列車内で静止している観測者S’からは、列車内を歩く上記の男は、速度wと<font color="#CC6600"><strong>見える</strong></font>。<br /><br /><br /><br />しかし、レールの近くにいる観測者Sには、その歩く男の速度はv＋w<font color="#CC6600"><strong>と見える</strong></font>。<br /><br /><br /><br />歩いている方の男の速度は、観測者の状態が変わることによって、変化する。ところで速度とは何であったか。<br /><br /><br /><br />(古典)物理学にとっては、一瞬に於ける、スカラー量をもったベクトル<br /><br /><br /><br />であった。その運動物の「属性」の一つということだったのである。その物のベクトルは、観測者SとS’とでは別になるというのだ。<br /><br /><br /><br /><font color="#CC6600"><strong>物の「属性」つまり物理現象が、古典物理学によると、観測者ごとに変わってしまう</strong></font><br /><br /><br /><br />ことになる。だから、アインシュタインは言うのだ。或る慣性系を基準にした場合にだけ見ることのできる<br />というような物理現象はこの世には存在しない、と。<br /><br /><br />古典物理学の速度観を信じると、或る慣性系を基準にした場合にだけ見ることのできる物理現象がこの世に存在することになるからである。<br /><br /><br />　アインシュタインは、この第6章で、<font color="#008000"><em>「古典力学による速度の加法定理」</em></font>つまり「速度の合成則」すなわちガリレイ変換<font color="#008000"><strong>が間違っている</strong></font>と宣言する。<br /><br /><br />しかも、彼がこうして否定する速度観は、見方によれば、実は、日常で誰もが正しいとしている、僕らの速度観でもある。<br /><br /><br />つまり、彼は、ガリレイ変換も、僕たちの速度観も両方とも否定してしまうことになるのである。<br /><br />(続く)<br />(C)2008 Yuh Yana. All Rights Reserved.
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10181501177.html</link>  
      <pubDate>Mon, 22 Dec 2008 13:52:51 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>マイケルソン・モーレーの実験の解釈について12月2日付けで補足説明</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 マイケルソン・モーレーの実験についてのローレンツ収縮が出てくるまでの補足をします。当の実験の模様はこちらの引用図をご覧ください。<br /><br /><br />(内山龍雄著「相対性理論入門」p.37からの引用)<br /><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/e6/23/10111556199.jpg"><img src="http://stat.ameba.jp/user_images/e6/23/10111556199_s.jpg"  alt="第五図 (内山龍雄著「相対性理論入門」p.37より)" width="220" height="253" border="0" /></a><br /><br /><br />物理学者たちは、こう未来予想を立てていたわけです。光が光源から出る。Oに向かう。そこからM1に行くものは、M1に反射して、Oに帰ってくる。そして、そこで反射して、干渉計に光が入る。<font color="#0000FF">これにかかる<u>時間T1</u>はT2<u>より、「長い</u>」</font>と。宇宙を地球が進行している方向がある。<font color="#0000FF"><u>光源から、その方向に沿って出た光の方が、進行にかかる時間はヨリ「長い」</u></font>と言いたいのです。<br /><br /><br />T2という時間は、光が次のように進行するのに要した時間のことです。光源から光が出る。同じくOに向かう。ここで、M2に向かう光もある。それはM2で反射してOに帰ってくる。そして、干渉計に入る。この光の進行に要した時間がT2とされているわけです。<br /><br /><br />物理学者の計算では、T1の方が、T2より長い時間なのです。というのも、<font color="#0000FF">光の速度自体が、違う</font>と考えるから。<font color="#0000FF"><u>Oまで来た光がM1に方に進行する速度を、c＋vと彼らは考える</u></font>のです。cは宇宙空間上を、光が重心Gから遠ざかる速度。vは地球がその重心Gから遠ざかる速度です。<font color="#0000FF"><u>M1からOに帰ってくる光は、一方、c－v</u></font>と物理学者には考えられる。<br /><br /><br />ところが、OからM2に向かう光の速度はcにすぎない。またM2からOに帰ってくる光の速度も、cにすぎない。だから、計算すると、T2の方が短時間になるというわけなのです。<br /><br /><br /><font color="#FF0000">ところが実験を実際にしてみると、<u>T1=T2</u>となった。</font><font color="#0000FF"><strong>T1の方が長時間になるはずだったのに</strong></font>、こうなったのは何故かと物理学者は考えた。<font color="#0000FF"><strong>どうして、T1の時間は、思ったより短かったのだろう。</strong></font>そこで考えたのが、ローレンツ収縮。T1は当初考えていたのより、短い時間だった。<font color="#0000FF"><strong>きっと、思っていたより、移動距離が短かったのだ。</strong></font>だから、T1はT2より長時間になることはなかったのだ。同じ時間になったのだ。だとすると、<font color="#0000FF">OからM1までの距離が思っていたより短かったことになる。<u>地球の進行方向に沿った長さは短くなる</u></font>のだ、というわけです。<br />
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10172572764.html</link>  
      <pubDate>Tue, 02 Dec 2008 18:00:00 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>マイケルソン・モーレーの実験の正しい捉え方　続き</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 =========================================<br />舌を出したアインシュタインの写真についての試論<br />=========================================<br /><br /><br /><br />第四節　実験について<br /><br /><br /><br />　では、彼ら物理学者のその予測と、日常の速度観にしっかり則った僕たちの予想と、どちらが的を射ているか、実際に、マイケルソン・モーレーの実験について内山氏が語るところを引用して確認しよう。内山龍雄著「相対性理論入門」(岩波書店)p.36から以下引用。<br /><br /><br /><blockquote><font color="#0000FF"><em>　第5図は、水平な実験台の上に置かれたマイケルソンの実験装置を天上から見おろした図である。<br /><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/e6/23/10111556199.jpg"><img src="http://stat.ameba.jp/user_images/e6/23/10111556199_s.jpg"  alt="第五図 (内山龍雄著「相対性理論入門」p.37より)" width="220" height="253" border="0" /></a><br />この図は、わかりやすいように、装置の本質的なからくりを抽き出して描いたもので、原理的には実際の装置と同等だが、見かけは簡素化されている。実験の手順を説明しよう。<br /><br /><br />　光源から出た光は、小さな穴を通って、鏡Oにつきあたる。Oは半透明の鏡で、この表面にあたった光の一部は、光の進行方向に直角に、M2の方向に反射される。<br /><br />残りの光は、鏡Oを透過して直進し、鏡M1に向う。M1に到達した光は反射されて、再びもときた路をたどってOに帰る。Oで一部は直進して光源の方に向うが、残りの光は鏡Oに反射され、図の下側にある干渉計にとびこむ。<br /><br /><br />　一方OからM2の方向に反射された光は、鏡M2で反射されて、再びもときた路をたどり、鏡Oに到達する。ここで一部の光は反射されて光源の方にもどるが、残りの光は鏡Oを透過して干渉計に向う。<br /><br />鏡M1で反射されてO→M1→O干渉計と進んだ光を、光線L1と名づけよう。<br /><br />またO→M2→干渉計という路をたどった光を、光線L2とよぶことにする。<br /><br />(略)<br /><br />　さて第5図にもどり、簡単のためにOM1とOM2の長さは等しいとする。<br /><br />もし地球が絶対系SGに対して静止していれば、光線L1、L2がOで分れてから、それぞれのコースをたどり、Oにおいて再会するまでの所要時間は等しい。<br /><br />しかしもし地球が絶対速度vで走っていれば、たとえOM1の長さとOM2のそれが等しくても、両コースをたどるに要する時間にはくいちがいがおきる。<br /><br />計算によると、このくいちがいは、vの二乗に比例する。このくいちがいの大きさを干渉計を使って調べることが、マイケルソンたちの実験のねらいである。<br /><br /><br />　ここで話をわかりやすくするために、地球の絶対速度の方向はベクトルOM1の方向と同じとする。(略)いま光線L1がO→M1→Oというコースをたどるに要した時間をT1とする。またL2がO→M2→Oと進むに要した時間をT2としよう。<br /><br />ここに仮定したように、vの方向がベクトルOM1と同じならば、計算によるとL1はL2より長い時間がかかる。すなわちT1＞T2となる。</em></font></blockquote><br /><br /><br />　以上のように物理学者は、この実験の結果を予測する。僕たちは先に、地上の観測者Sにとっての光A、Bを考察した。そこで出た結論はこうだった。<font color="#FF0000"><u>光A、Bとも観測者Sに、速度cの割合で近付く。</u></font>つまり、僕たちの考えでは、このマイケルソン・モーレーの実験の結果は、<font color="#FF0000">T1＝T2となるはず</font>なのである。<br /><br /><br />地上では、干渉計に近付く光の割合は、それが光線L1であろうが、L2であろうが、同じはずと予想するのである。が、上記解説文中にはこう書いてあった。<br /><br /><br /><blockquote><font color="#0000FF"><em>もし地球が絶対系SGに対して静止していれば、光線L1、L2がOで分れてから、それぞれのコースをたどり、Oにおいて再会するまでの所要時間は等しい。<br /><br />しかしもし地球が絶対速度vで走っていれば、たとえOM1の長さとOM2のそれが等しくても、両コースをたどるに要する時間にはくいちがいがおきる</em></font></blockquote><br /><br /><br />のだ、と。では、実際、マイケルソン・モーレーの実験の結果は、僕たちの予想通りになったのだろうか。それとも<font color="#0000FF">物理学者が予測したように、T1＞T2となったのだろうか。</font>引用文の続きを見てみよう。<br /><br /><br /><blockquote><font color="#0000FF"><em>ところで第5図の装置は水平な台の上にのっており、この装置全体を台の上でOを中心として回転させることができる。<br /><br />例えばベクトルM1Oが東西、ベクトルOM2が南北をさしているとしよう。Oを中心として時計の針の進む向きと同じ向きに九〇度回して、ベクトルM2Oが東西に、ベクトルM1Oが南北を指すようにすることができる。<br /><br />いま、このように九〇度だけ回転したとしよう。そのようにすれば、今までM1のおった位置にM2がくる。またM1は回転前の直線ベクトルM2Oの延長上にくる。<br /><br />したがって地球の絶対速度の方向と光線L1、L2の関係は九〇度回転の前後で、丁度逆の関係となる。つまり回転後にはベクトルOM2がvの方向となる。<br /><br />したがってT2＞T1となる。<br /><br />換言すれば、回転前には光線L2の方がL1よりさきに干渉計にとびこむが、回転後L1の方がさきになる。<br /><br />したがって装置全体を回転させながら干渉計のぞいていれば、明暗の変化が必ずおきる筈である。<br /><br />なお以上の考察はvの方向がベクトルOM2の方向であっても、或いは他のどんな方向でもかまわない。<br /><br />干渉計をのぞきながら、装置全体を三六〇度回転させれば、vの方向がどの向きを向いていようが、必ず明暗の変化がおきる筈である。<br /><br />唯一の例外はvがゼロの場合だけである。そのときはT1は常にT2に等しく、L1とL2の間にくいちがいはない。したがって、いくら装置を回転しても、何の変化もおこらない。<br /><br /><br />　以上がマイケルソンたちの考えである。この予想にもとづいて実際に実験が行われたが、<u>結果は予想に反して、干渉計には明暗の変化は起こらなかった。</u>そこでこの結果をなんと解釈すればよいかが問題となった。</em></font></blockquote><br /><br /><br />　地上では、観測者Sに、光A、Bは共に速度cの割合で近付く。だから、このマイケルソン・モーレーの実験でも、そうなるに違いない。僕たちはそう予想した。<font color="#008000"><u>そして、実際、結果はその通りになったのである!</u></font><br /><br /><br />にも拘わらず、物理学者たちは、この実験について、「この結果をなんと解釈すればよいかが問題」だとするのだ! それもこれも、彼らが速度について誤解しているからである。彼ら物理学者たちは、<font color="#FF0000"><u>地球上の空間層が、地球地面と一緒に移動しているという、空間移動</u></font>について全く理解していない。<br /><br /><br /><br />だから、<font color="#FF0000"><u>光A、Bの考察に於いて、それらが地上の観測者に速度cの割合で近づく</u></font>と捉えることができないのである。よって、マイケルソン・モーレーの実験の結果を解釈する際、悩むことになるのだ。<br /><br /><br />彼らが取ることができる態度はここではもう二つだけだ。一つは、僕たちのように、<font color="#FF0000"><u>地上の空間層が地球地面と共に移動している</u></font>と捉えられるようになることである。そうすれば、この実験の結果が至極当然であると納得することができる。<br /><br /><br />もう一つの態度は、そのまま、間違った自分たちの速度解釈を篤く信仰して、実験結果をその信仰に合うように歪曲することである。<br /><br /><br />補助理論を捏造して、この実験結果が、自分らの間違った速度観に合うよう工夫することである。物理学者は、後者のこの態度を選んだ。そして、ローレンツ収縮なるものを捏造した。では、その態度について検討していこう。<br /><br />(続く)<br />(C)2008 Yuh Yana. All Rights Reserved.
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10166431667.html</link>  
      <pubDate>Fri, 21 Nov 2008 07:50:00 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>全体は部分の総和である</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 「ゼノンの矢」という、2000年以上誰もまともに解けていない疑問を例に出してみよう。そのパラドクスの答えとして、<font color="#0000FF">「全体は部分の総和では<u>ない</u>」</font>という説明がなされることが多い。<br /><br /><br />ゼノンは言った。飛んでいる矢は止まっている、と。各瞬間を考える。飛んでいる矢も、<font color="#0000FF">各瞬間は、止まっている。「静止している」。</font>だから、矢が飛ぶのはおかしなことだ、というのである。<br /><br /><br />しかし、『一連続』なありようとしてものごとを捉えることのできる僕たちは、<font color="#FF0000">各瞬間の矢は、『飛んでいる最中』である</font>、とすぐにわかる。「静止」はしていないと理解している。<br /><br /><br />ものごとは『一連続』なありようである。この今のありようは、『世界の中に自分がいる』という『一連続』なありようである。ヨリ古い過去体験から、この今のありようへ、そしてこの今のありようから、ヨリ遠い未来体験へと、時間順序的に『一連続』でもある。<br /><br /><br />今、僕の眼前に矢がある。それは確かに、或る特定の位置しか占めていない。けれども、この今に引き続く、過去体験の各瞬間にて、矢がどのようにあったか。今から続く、未来体験の各瞬間に、矢はどのようにあるか。過去体験からも、未来体験からも、この今の矢のありようは、切り離せない。<br /><br /><br />この今の矢のありようは、この時間順序的な『一連続』の中で捉えられなくてはならないのである。だから、今、特定の位置を占めている矢は、『飛んでいる最中』なのである。<br /><br /><br />けれども、(西欧)学問では、今の矢のありようを、過去の矢のありようからも、未来の矢のありようからも、<font color="#0000FF"><u>切り離して考えてしまう</u></font>。過去及び未来のそれぞれと、この今との間にある時間順序的な連続性を切断してしまうのである。だから、この今の矢は「静止している」としか解せない。<br /><br /><br />しかし、どうしたところで、この矢は時間を通して飛んでいる。だから、「<font color="#0000FF">全体は部分の総和では<u>ない</u></font>」と言って誤魔化すことになる。各瞬間の「静止している」矢のありようを全て集めてきて足し算したら、矢が飛んでいるという全体に達するのではない、と言うのである。<br /><br /><br />これは、ものごとを『一連続』なありようと捉えられればそれで済むだけの話しである。<font color="#FF0000">全体はやはり、部分の総和なので<u>ある</u></font>。各瞬間の矢は『飛んでいる最中』である。この『飛んでいる最中』の各瞬間の矢を足し合わせれば、全体の矢のありようになるのである。<br /><br /><br />この「ゼノンの矢」は笑い話しに聞こえるかもしれない。しかし、これを、(西欧)学問の代表例として語ることができるのである。(西欧)学問では、<font color="#0000FF"><font size="3">「意識」</font></font>について語る。<br /><br /><br />これから、先の或る箇所で、僕たちは、「意識」について考える。<font color="#0000FF"><u>「意識」などを持ち出してくるのは、『一連続』なありようのその連続性を切断する者の仕業である。</u></font>そのことを、そこで、まざまざと痛感することになるのである。
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10166397686.html</link>  
      <pubDate>Tue, 18 Nov 2008 14:00:00 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>マイケルソン・モーレーの実験の正しい捉え方</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 =========================================<br />舌を出したアインシュタインの写真についての試論<br />=========================================<br /><br /><br /><br /><u>第三節　その光は、地球上にあるか宇宙空間にあるか</u><br /><br /><br /><br />　引用した<a href="http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10153889474.html" target="_blank">第4図(できれば、書き写されたい)</a>では、<br />地球上の人が光A、Bを見ていることになっている。<br />この光は、観測者Sに近付いて、最終的に<br /><br /><br /><br />地上を進行する<br /><br /><br /><br />ことになるのだろうか。<br />それとも、観測者Sに近付いたといっても、<br /><br /><br /><br />地上遙か上空を通るだけ<br /><br /><br /><br />なのだろうか。<br />先ず、前者の場合を考えてみる。<br />すると、上記引用部分の解説<br />(上記URLに第4図と共に引用してある文章)<br />は完全に間違いということになる。<br />ここでは、まだアインシュタインの学説は<br />出てこないものとして考えていこう。<br /><br /><br /><br /><br /><br />　第4図によると、<br /><font color="#008000">光Aは</font>今、宇宙の重心なる部分Gから<br />宇宙上を速度cの割合で遠ざかっている。<br /><br /><br />それが地上の空間の中に入ってきた時には、<br />それは<font color="#008000">観測者Sに速度cの割合で近付く</font>ようになる。<br /><br /><br />一方、<font color="#008000">光Bは</font>どうだろう。<br />それは、重心Gに速度cの割合で近付くものである。<br /><br /><br />それが、地球上の空間の中に入ってきたとき、<br />それは<font color="#008000">観測者Sに、速度cの割合で近付く</font>ことになる。<br /><br /><br /><br /><font color="#008000"><u>地上では、光A、B共に、観測者Sに速度cの割合で近付く</u></font><br /><br /><br /><br />のである。<br />それが事実である。<br />しかし、上記引用部分での物理学的考察では、<br /><br /><br /><br /><font color="#0000FF"><u>光Aは観測者Sにc－vの割合で近付き、光Bは観測者Sにc＋vで近付く</u></font><br /><br /><br /><br />ことになっている。<br />物理学者たちはそう考え違いしているのだ。<br />だから、後々、マイケルソン・モーレーの実験の結果に納得できなくなる。<br /><br /><br />自分らの間違った速度観に都合の良いよう、<br />その実験結果を解釈しようとして、<br />ローレンツ変換なるお伽噺を捏造してしまうことになるのである。<br />彼らは、<br /><br /><br /><br /><font color="#FF0000"><u>地球上の空間が、地球の移動と共に移動している</u></font><br /><br /><br /><br />ことに全く気づいていない。<br /><br /><br /><br /><font color="#FF0000">地球は、その<u>地上の空間と一緒に、</u></font>速度vで、重心Gから遠ざかっている<br /><br /><br /><br />のである。<br />走っている電車の車内空間を考えよう。<br /><br /><br /><br />その<font color="#FF0000">車内空間は、電車本体と共に丸ごと移動している。</font><br /><br /><br /><br />それが電車の移動である。<br />それと同じく、地球の移動もまた、<br />地上の空間をまるごと抱えての宇宙移動なのである。<br /><br /><br /><br /><br /><br />　光Aは、地球上の空間の中に入ってくるまでは、確かに、<br />観測者Sと、c－vの割合で近付いている。<br />光Bは、その空間の中に入ってくるまでは、<br />観測者Sと、c＋vの割合で近付いている。<br /><br /><br />一方、地上の空間は、地球の地面と共に<br />宇宙の重心Gから速度vの割合で遠ざかっている。<br /><br /><br />地上にいる観測者の目の前すぐのところにある<br />空中の一点を考えてみよう。<br />その一点Mは、地球の地面と共に、宇宙内を、<br />速度vの割合で、重心Gから遠ざかっているのである。<br /><br /><br />だから、一旦、光A、Bともこの地上の空間の中に入ってしまうと、<br /><br /><br /><br />観測者Sに近付く割合はcになってしまう<br /><br /><br /><br />のだ。<br />地上の一点Mを含む空間層自体が<br />宇宙の重心Gから速度vの割合で遠ざかっている。<br />光Aが、その空間層に入ってくる。<br />すると、宇宙の重心からc＋vの割合で遠ざかることになる。<br /><br /><br /><br /><font color="#008000"><u>その空間層が移動している割合分だけ余計に、重心Gから遠ざかる</u></font><br /><br /><br /><br />ことになるのである。<br />一方、地上の観測者Sは宇宙の重心Sから速度vの割合で遠ざかっている。<br />だから、<font color="#008000">光Aは地上では、この観測者Sに<br /><br /><br /><br /><u>速度c+v－v=c</u>の割合で近付く</font><br /><br /><br /><br />ことになるのだ。<br />光Bが、地上の空間層に入ってくる。<br />すると、宇宙の重心に、速度c－vの割合で近付くことになる。<br />地上の空間層自体が、その宇宙の重心から速度vで遠ざかっているからである。<br /><br /><br />一方、地上にいる観測者Sは宇宙の重心Gから速度vの割合で遠ざかっている。<br />だから、<font color="#008000">光Bはこの観測者Sに<br /><br /><br /><br /><u>速度c－v＋v=c</u>の割合で近付く</font><br /><br /><br /><br />ことになる。<br /><br /><br /><br /><br /><br />　もし、物理学者が言うように、<br />光Aが観測者Sに速度c－vの割合のまま近づき、<br />光Bがc＋vの割合のまま近付くというのなら、<br /><br /><br /><br />それら光A、B共に、地上の空間層の中に入ってきていない<br /><br /><br /><br />ことになる。<br />その場合は、地上遙か上空をそれら光は移動している<br />ということになるだろう。<br />しかし、まさにマイケルソン・モーレーの実験では、<br /><br /><br /><br />光A、Bとして、地上の空間の中を進む光を使用している<br /><br /><br /><br />のである。<br />だとすると、上記引用部分に出てくる光A、Bは共に、<br />一旦、地球上の空間層に入ってくるものと想定されていると考えるべきである。<br /><br /><br /><br /><br /><br />　僕たちはまだマイケルソン・モーレーの実験について、<br />それがどんなものか詳しくは見ていない。<br />が、その前に、この実験でどんな結果が出るかはもうわかってしまったのである。<br /><br /><br />その実験では地上の光をもってして、光A、Bとする。<br />だから、<br /><br /><br /><br />観測者Sに、その実験では光A、B共に速度cの割合で近付く<br /><br /><br /><br />ことになるだろう。<br />それはもう既に明白である。<br />にも拘わらず、上書引用部分では何と書いてあったか。<br /><br /><br /><br /><font color="#0000FF"><u>光Aは、観測者Sにc－vの割合で近付き、光Bは、c＋vの割合で近付く</u></font><br /><br /><br /><br />と解説してあったのである!<br />僕たちは、「速度の合成則」が間違っていることを<br />一番先に確認した。<br /><br /><br />次に、「速度の合成則」とは、<br />古典物理学で言うところのガリレイ変換であることを確かめた。<br />ガリレイ変換は間違いなのである。<br /><br /><br />僕たちは速度を、『一連続』なありようとして捉えないといけない。<br />僕たちは、日常、速度について理解している。<br />その速度は、ものごとの時間順序的『一連続』を捉えることができない限りは、<br />捉え得ない。<br /><br /><br />物理学がしているように、今という、<br />未来や過去から切断した、限りない一瞬を考えていたのでは、<br />速度は捉え得ない。<br />そんな一瞬の変化を速度とするのでは、<br /><br /><br /><br /><font color="#0000FF">速度を、移動物体の「属性」にしてしまう</font><br /><br /><br /><br />ことになる。<br />実際、古典物理学のみならずアインシュタインも、<br />そう誤解してしまっている。<br /><br /><br />僕たちは、日常、僕たちが理解している速度を捉えるために、<br />時間順序的『一連続』なありようで速度を捉えようとしている。<br />そこで、<br /><br /><br /><br />杭Xや観測者に近付く(から遠ざかる)割合<br /><br /><br /><br />として速度を考えてみている。<br />そういう速度観で、問題になっている地上の光を考察する限り、<br /><br /><br /><br />光はどの方向からやってこようが、観測者と近付く割合は、実は、速度cと一定である<br /><br /><br /><br />と理解することになった。<br />しかし、物理学は、<br /><br /><br /><br />地上の空間層が、地球地面と共に速度vで移動している<br /><br /><br /><br />ことに気付いていない。<br />しかも、その上、速度をガリレイ変換で考えてしまっている。<br />そうしたところで、マイケルソン・モーレーの実験をし、<br />その結果を予測するのである。<br /><br /><br /><br />その予測では、観測者Sに、光Bの方が、光Aよりも速く近付く<br /><br /><br /><br />ことになっている。<br /><br /><br />(続く)<br />(C)2008 Yuh Yana. All Rights Reserved.
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/yanayuh/entry-10162948953.html</link>  
      <pubDate>Fri, 14 Nov 2008 18:00:00 +0900</pubDate> 
    </item> 
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