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    <title>我々少数派</title>  
    <link>http://ameblo.jp/toyamakoichi/</link>  
    <description>政府転覆の恐ろしーいインボーを、共に進めていこうではないかっ!!</description>  
    <language>ja</language>  
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    <item> 
      <title>【史上最悪のネットストーカー Ｆ】９年前の被害届</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 <font color="#FF0000">　※検索サイト等からいきなりこのブログにアクセスした方へ。ここには「我々団」もしくは「外山恒一」に関する詳しい情報はありません。<a href="http://www.warewaredan.com/" target="_blank">公式サイト</a>へ移動してください。<br />　カンパを広く募集しています。振込先は、「福岡銀行　春日原支店　普通　1167080　トヤマコウイチ」です。</font><br /><font color="#FF1493">　２月12日に熊本、13日に福岡、26日および３月６日に東京でイベントあります。詳しくは<a href="http://www.warewaredan.com/event.html" target="_blank">こちら</a></font><br /><br />　今度こそ“絶対悪”Ｆを追い込むために、過去の資料をいろいろ整理していたら、2001年３月に私が福岡南警察署に提出するために作成し、しかし受理さえしてもらえなかった２通の「被害届」が出てきた。<br />　警察がこの時にちゃんと動いていれば、ここまで被害は拡大しなかったのだ。<br />　こともあろうにバカ警察は、この時点ですでにかなり悪質な名誉毀損事件であるこの件についてはまったく対処せず、約１年後、一億歩譲ってもこの千分の一、万分の一のあまりにも些細な一件（福岡県弁護士会幹部のフェミ弁護士を自分のサイトで堂々と批判した）について私を逮捕し、私はその日から丸２年間、殺される（投獄される）ことになったのだ。<br />　福岡バカ地裁は、この私の「名誉毀損」事件について懲役１年の実刑判決を出したが、私のケース程度で懲役１年なら、Ｆなど八つ裂き刑どころか一族郎党皆殺しぐらいでないと釣り合わないだろう。ま、それは革命政権樹立後に自分でやるとして、とりあえずは現行の法定刑最大の懲役３年の刑でも食らってもらうかな。<br />　当時も今も、私は常に冷静であるから、９年前に提出しようとしたこの「被害届」でも、はっきりとＦの行為であるという直接証拠のあるものと、そうでないものとは分けて記述してあり、だから２通あるわけだ。<br />　以下、（それなりの活動家である、もしくはあった人物のそれを別として）実名部分等を伏せて、全文公開。なお文中「誣告罪」とは「虚偽告訴罪」のことである。<br /><br />　　　　　　　　　　※　　　　　　　　　　※　　　　　　　　　　※<br /><br />　　　<font size="4">被害届１</font><br /><br />　Ｆ（福岡市東区箱崎……に1999年12月時点で居住。現在の居住地は不明）を、私に対する名誉棄損罪、および誣告罪で刑事告訴することを希望し、被害実態について届け出るものです。<br /><br />　まず、事件の背景について簡単に申し述べます。<br />　私は97年５月から、Ａ子（福岡市中央区……に住民登録。実際の居住地は不明）といわゆる男女の交際をしておりました。<br />　99年４月末に、私はＡ子より一方的に別れを告げられ、これに納得できず、Ａ子に未練のあった私は、７月末までの約３ケ月間、交際を再開しようと頻繁に電話やメール、あるいは時折の訪問などで説得を続けました。<br />　しかしＡ子は、その頃すでにＦとの交際を始めていた様子で、結局、私の希望はかなえられませんでした。<br />　Ａ子がＦと交際を始めたきっかけは、私からの頻繁な電話などによる精神的苦痛から、自宅を出て、複数の知人宅を転々とする過程で、その中の一人であったＦと親しくなったものであるようです。<br />　私は、上記のとおり、99年７月末の段階で、Ａ子との交際再開を断念し、以後、私の方から積極的にＡ子に連絡をとることをやめました。<br />　以上が、事件の背景です。<br /><br />　これは私の推測にすぎませんが、Ａ子が私からの頻繁な接触から逃れるためのいわば「避難先」であることがＡ子との交際のきっかけとなったＦは、私のＡ子への積極的接触がなくなったことで、Ａ子が自分を必要としなくなるのではないかとの不安に駆られたものだと思われます。<br />　そこでＦは、99年８月頃から、「外山の標的が自分に向け変えられた」ことを装い、私からの架空の「ストーカー行為」の被害を周囲に吹聴しはじめました。それは例えば、「電話で脅迫された」、「自転車にいたずらをされた」、「バイクで尾行された」、「自宅のチャイムを鳴らして逃げて行った」などといった内容でした。<br />　もちろん私はそのような行為に及んだことは断じてなく、すべてはＦの虚偽であります。<br />　しかし、Ｆの作り話を信用する者も、交際相手であるＡ子をはじめとして一定数存在し、私の名誉感情は著しく傷つけられました。<br />　なお、Ｆがそのような虚偽の吹聴をしていたことを知る人物は、私の関知している範囲では、<br />　・原健一（福岡市早良区……）　　（註．当時「メンズリブ福岡」代表）<br />　・伊藤謙児（福岡市中央区…… ただし最近転居した模様）　　（註．当時「だめ連福岡」代表）<br />　・Ｒ（住居不明　自宅電話番号×××-××××）　　（註．当時「だめ連福岡」メンバー）<br />　・原田直子（Ａ子の代理人）　　（註．私の「名誉毀損」事件での自称「被害者」の同僚のフェミ弁護士）<br />　などですが、前述のとおりこれはあくまでも「私の関知している範囲」であって、実際にはさらに多数の者に前述のような私への名誉棄損行為をおこなったに違いないことは想像に難くありません。<br />　また、現在、Ａ子は私を相手どって民事訴訟を起こしておりますが、その訴状の中でＡ子が私から受けた「不法行為」として、このＦへの架空の「ストーカー行為」も含まれており、Ｆが事実無根の虚偽に基づいた私への誹謗中傷を直接に吹聴した範囲は限られているかもしれませんが、民事裁判の提訴理由の重要な要素となっている点など、「社会的影響力」の面で私の受けた被害は甚大なものと云えます。<br />　よって私は、Ｆを名誉棄損罪で刑事告訴することを望みます。<br /><br />　またＦは、この架空の「ストーカー行為」に関して、2000年３月19日、中央警察署に被害届を提出しており、これは誣告罪にあたる可能性が濃厚と思われますので、名誉棄損罪と同時に、誣告罪の容疑でもＦを刑事告訴することを望みます。<br /><br />　　　　　　　　　　　2001年３月16日　　　外山恒一<br /><br />　　　　　　　　　　※　　　　　　　　　　※　　　　　　　　　　※<br /><br />　　　<font size="4">被害届２</font><br /><br />　ネット上に存在する複数のホームページの掲示板で、私に対する誹謗中傷の書き込みが相次いでおり、これを犯人不明のまま、私に対する名誉棄損の容疑で刑事告訴することを望み、被害状況を届け出るものです。<br />　私のホームページ「革命家・外山恒一」内の掲示板に、2000年４月頃、「ＭＴ」なるハンドルネームで、私がかつて交際していた女性が、私との間にできた子供を中絶し、また交際末期の痴話喧嘩が高じて私に殴られ負傷をしたことなど（それらは事実ではありますが）をセンセーショナルに書き立て、私を口汚く中傷する内容でありました。<br />　「ＭＴ」とはこれより少し前に、別のホームページ「貧民日報」の掲示板において、私との間で激しい論争をした人物です。しかしこの直後、また「ＭＴ」名義で、上記の私への誹謗中傷の書き込みをおこなったのは自分ではない、という主旨の書き込みがありました。すると「ＭＴ」名義の最初の書き込みをした人物は、自分が他人になりすまそうとしていたことを暗に認め、以後は「2000年安保見つめ隊」なるハンドルネームで、頻繁に私への誹謗中傷の書き込みを繰り返すようになりました。<br />　初期の書き込みは、文章の調子は口汚く激しいものとはいえ、内容的には、私が過去に交際相手を深く傷つけたことを非難攻撃するものでしたが、時を経るにつれ、私とその元交際相手とのセックスを想像たくましく描写するなど、卑猥極まりないものへと変質していきました。ですからこれらの書き込みは、私への名誉棄損だけにとどまらず、私の元交際相手への名誉棄損でもあるといえます。<br />　私のホームページの管理者は私自身ではなく、私の当時の交際相手であった千葉在住の女性・Ｃで、私はＣに対し、書き込みの削除を求めましたが、Ｃは、どのような書き込みであれ削除はせず、むしろそのような書き込みをする人物への非難の書き込みが他の参加者から続出することが想像されるため、それによってこの人物への猛省を促そうという方針を私に対して提示し、私も渋々ながらこれに同意しました。<br />　結局、別の事情からこの私のホームページ内の掲示板そのものが、2000年５月頃、廃止されました。<br />　すると、今度は私のホームページからリンクが張られていた複数の友人・知人のホームページの掲示板に、同様の書き込みが頻発するようになりました。これらの書き込みは、それぞれのホームページの管理者の判断で、発見されるたびに即削除されたので、その詳細な記録は残っておりませんが、おおよそのことは、それら管理者である以下の私の友人たちが証言してくれるはずです。<br />　・堤繁千代（カメラマン　「ミルオンガク」管理人）<br />　・千艘（学生　「らくだ公式ホームページ」管理人）<br />　・野口英一郎（鹿児島市議　「en-TAKU」管理人）<br />　また、上記・堤繁千代によれば、書き込みは「葦原骸吉」なるハンドルネームでおこなわれていたそうですが、これは私の友人でもあり論敵でもある東京在住のフリーライター・Ｓのペンネームおよびハンドルネームです。Ｓは自身の主宰するホームページ上で、よく私への批判をおこなっていましたが、私がＳ本人に電話をして確かめたところ、上記のような書き込みは決しておこなっていないとのことでした。Ｓは、私とは思想的に対立しておりますが、悪質な嘘をつくような人間ではなく、前述の「ＭＴ」の経緯なども勘案し、私はやはりこれら一連の書き込みは、その直前まで私のホームページの掲示板で同様の書き込みを繰り返していた「2000年安保見つめ隊」なる人物が、Ｓになりすましたものと推測します。<br />　また同じ時期、私とは何の関係もないホームページの掲示板に、「ただの女」なるハンドルネームでの同様の書き込みがあるのを前記・Ｃが発見し、直ちにその管理者に削除を要請するメールを出し、まもなく削除されましたが、管理者からの返信メールによると、投稿は匿名サーバからなされており、<br />　spica.anonymizer.com[216.34.244.103]<br />　からの発信である痕跡が残っていたそうです。この「anonymizer」は、有名ないわゆる「プロクシ」で、ある程度コンピュータの扱いに慣れた人物なら、ここを経由して書き込みなどのアクセスをおこない、そもそもの発信元を突き止められないように工作することができるのだそうです。<br />　私やＣが気づかなかっただけなのかもしれませんが、2000年６月以降は、このような書き込みはなく、トラブルは収束したかに思えました。<br />　しかし2001年３月４日、友人から電話で、前述した友人のホームページ「貧民日報」の掲示板に変な書き込みをしているらしいね、と云われ、その時は何のことを云われているのか分からず、早速「貧民日報」の掲示板を閲覧してみると、そこには「全裸主義者　外山恒一」なるハンドルネームで、複数の書き込みがおこなわれておりました。この時点で閲覧できる書き込みは２件で、また、その内容が悪質であったためかすでに管理者によって削除された書き込みが他に２件あることも分かりました。また、それらを本当に私による書き込みであると誤解した複数の参加者から、私を非難する内容の書き込みもおこなわれていました。早速、管理者・Ｗに連絡し、一連の書き込みをしたのは私ではないことを釈明し、またすでに削除された書き込みがどのような内容のものであったかを問いました。Ｗによると、すでに削除された書き込みはやはり、私の元交際相手のプライバシーを口汚く暴くような内容のものであったとのことでした。また、この掲示板をよく閲覧していた東京在住の友人・山本夜羽に問い合わせたところ、同様の書き込みは2000年秋頃にも何度かあったという話でした。<br />　私は、今度こそ本当に頭に来て、これまでに書いたような一連の悪質な書き込みの犯人を突き止めてやろうと、Ｗに、「全裸主義者　外山恒一」の書き込みは私によるものではないことを含め、事実関係をしばらく公にせず、この犯人をしばらくいわば「泳がせ」ておいてほしいと依頼しました。しかし2001年２月10日21時17分のものを最後に、現在のところ、この「全裸主義者　外山恒一」による新たな書き込みはありません。<br />　また、現在確認できる２件の書き込みの発信元は、それぞれ、<br />　atik.anonymizer.com[216.34.244.19]<br />　proxy5.anonymizer.com[216.34.244.19]<br />　となっております。<br />　しかし、コンピュータに関する知識に乏しい私は、これ以上、私個人の力で、犯人を突き止める策を講じるのは困難であると判断し、悪質極まりない名誉棄損事件として、刑事告訴する決意を固めるに至りました。<br /><br />　なお、犯人の心当たりですが、私が最も疑っているのは、一連の書き込みで私と共に侮辱されていた私の元交際相手であるＡ子（住民登録は福岡市中央区…… 実際の居住地は不明）が、私と別れた後に交際を始めたＦ（1999年12月時点で福岡市東区箱崎……に居住。現在の居住地は不明）です。<br />　Ｆは、私がＡ子と別れた1999年４月末の前後からＡ子と交際しはじめました。私はＡ子に未練があり、同年７月末までＡ子に対し、交際の再開を求め続けましたが、Ａ子とＦにはこの時期の私の行動がいわゆる「ストーカー行為」と感じられたようです。<br />　1999年７月28日から翌29日にかけて、Ｆは私に電話をかけてきましたが、私が留守だったため、留守番電話に６件のメッセージを残しました。それらは、私の「ストーカー行為」を非難する内容でしたが、その口調は、とても正常な精神状態のものとは思えませんでした。そこでこの同じ７月29日、私の方から、Ｆに電話をかけ、冷静に話し合おうと提案しましたが、Ｆは「うるさい、キチガイ」などと叫んでこれを一方的に切りました。私は腹を立て、その後、数時間にわたって何十回も一方的に電話を切られながらも、「話し合いに応じろ」と電話をかけ続けましたが、次第にバカバカしくなってきて、Ｆを相手にするのをやめました。<br />　するとその翌日あたりから、私の自宅に頻繁な無言電話がかかってくるようになりました。それは、周期的に、頻繁さの度合いを高めたり低めたりを繰り返しましたが、約１年にわたって続きました。<br />　また、Ｆは、当時、大野城市にあった私の実家や、現在××市に住む私の妹の家にまで、脅迫じみた内容の電話をかけてきました。<br />　さらに、別件で被害届を提出したように、Ｆは、私を冤罪で告発しようと、Ａ子に対してではなくＦに対しての私の「ストーカー行為」の話をデッチ上げ、周囲に吹聴したり、警察に虚偽の被害届を提出したりしました。<br />　99年12月６日に、南署の私服刑事２名が私の自宅を訪ねてきて、私が若い女性を次々と自宅に連れ込んでは麻薬をやらせている、との情報が入ったのだが、そのように疑われる根拠になるようなことに心当たりはないかと尋ねられました。もちろんそんな事実はなく、唯一思い当たるのは、99年７月８日、私の自宅をＡ子が訪れた際、意見が食い違うとすぐにヒステリックになるＡ子に、私が当時処方されていた精神安定剤の服用を求めたことです。Ａ子はこの時、私がＡ子に怪しげなクスリを飲ませて自由を奪おうと画策しているかに疑った様子でした。ですから、南署に入ったという悪質な情報の提供者は、Ａ子か、Ａ子に近しい人物であるに違いありません。<br />　99年12月末には、Ｆは、私を中傷する内容の手紙を私に送りつけました。<br />　そして翌2000年４月頃から始まる、今回、名誉棄損容疑での刑事告訴を希望するネット上での一連の悪質な書き込みです。　　（註．被害届にはプリントアウトしたものを添付。要は今もネット上に大量に存在する例のアレ）<br />　証拠のないことなので、これはあくまでも私の推測にすぎないのですが、やはり私が最も犯人として疑っているのは、上記のような経緯から、Ｆということになります。しかし、それは私の疑心暗鬼にすぎないのかもしれません。いずれにせよ、犯人不明のまま、2000年４月頃から始まり、現在も継続している、同一人物によるものと思われる一連の悪質な書き込みについて、名誉棄損容疑での立件・捜査を強く希望する次第です。<br /><br />　　　　　　　　　　　2001年３月16日　　　外山恒一<br />
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/toyamakoichi/entry-10455247997.html</link>  
      <pubDate>Wed, 10 Feb 2010 11:07:10 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>RADWIMPS</title>  
      <description> <![CDATA[ <font color="#FF0000">　※検索サイト等からいきなりこのブログにアクセスした方へ。ここには「我々団」もしくは「外山恒一」に関する詳しい情報はありません。<a href="http://www.warewaredan.com/" target="_blank">公式サイト</a>へ移動してください。<br />　カンパを広く募集しています。振込先は、「福岡銀行　春日原支店　普通　1167080　トヤマコウイチ」です。</font><br /><font color="#FF1493">　２月12日に熊本、13日に福岡、26日および３月６日に東京でイベントあります。詳しくは<a href="http://www.warewaredan.com/event.html" target="_blank">こちら</a></font><br /><br />　そのうち言及しようと思いつつ、いつのまにか１ヶ月以上たってしまった。<br />　年末に、“イマドキの歌”に疎すぎるのもマズいかと、スペースシャワーＴＶの<a href="http://ameblo.jp/toyamakoichi/entry-10420910251.html" target="_blank">「邦楽年間チャート50」をとりあえず全部見た話</a>を書いた。<br />　「ちょっといいなと思える曲」は「２、３曲」しかなかった、という話でもあったが、その「ちょっといいなと思えた２、３曲」のうちでも最も「いいな」と思ったのは、この曲である。<br /><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/7MaF-bWeLGw&hl=ja_JP&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/7MaF-bWeLGw&hl=ja_JP&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br />　ただし、そのチャートはスペースシャワーＴＶ独自のちょっと特殊なものだったようで、上の曲はシングル曲ではない。このバンドの今のところ最も売れた曲は、↓らしい。<br /><br /><object width="425" height="344"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/CetVGsV6g44&hl=ja_JP&fs=1&"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/CetVGsV6g44&hl=ja_JP&fs=1&" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="425" height="344"></embed></object><br /><br />　両方が入っているアルバムを借りてみると、これら以外の曲もたいてい、いい。<br />　いつの時代にも、マメにチャートをチェックしてれば、例外的に「いいバンド」ってのはいるもんだという話。もちろんたいていの時代、「例外的に」なのであるが。<br />
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/toyamakoichi/entry-10454728208.html</link>  
      <pubDate>Tue, 09 Feb 2010 19:18:29 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>２月12日の熊本イベントも中止……ってことにはなりません！</title>  
      <description> <![CDATA[ <font color="#FF0000">　※検索サイト等からいきなりこのブログにアクセスした方へ。ここには「我々団」もしくは「外山恒一」に関する詳しい情報はありません。<a href="http://www.warewaredan.com/" target="_blank">公式サイト</a>へ移動してください。<br />　カンパを広く募集しています。振込先は、「福岡銀行　春日原支店　普通　1167080　トヤマコウイチ」です。</font><br /><font color="#FF1493">　２月12日に熊本、13日に福岡、26日および３月６日に東京でイベントあります。詳しくは<a href="http://www.warewaredan.com/event.html" target="_blank">こちら</a></font><br /><br />　<a href="http://ameblo.jp/toyamakoichi/entry-10451040368.html" target="_blank">史上最悪のネット・ストーカー Ｆ</a></font>による次なる卑劣な策動が始まった模様。<br />　２月12日に予定されている熊本でのイベント（ニコニコ動画でも生中継予定）会場宛に、以下のメールが届いたというのだ。<br /><br />　　　　　　　　　　※　　　　　　　　　　※　　　　　　　　　　※<br /><br />拝啓　時下ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。<br /><br />さて、来る2010年２月12日(金曜日)午後８時頃、貴社グループ店舗の一つ、「秘密基地 AZITO」にて、<br />トーク・イベント出演予定ゲストの外山恒一なる人物について、大変、重大な情報を入手しました。<br /><br /><br />『ポスト学生運動史　法大黒ヘル編 1985～1994』　2010年１月25日発売　刊行記念イベント<br />2010年２月12日（金）　夜（19:30開演～）<br />会場　秘密基地【AZITO】（熊本市新市街玉屋通り）<br />出演　外山恒一　他未定<br /><br /><br />この外山恒一なる人物は、福岡刑務所に２年近くも服役した前科二犯の犯罪者だそうです(性的犯罪を含む)。<br /><br />しかも、服役中の受刑態度は、劣悪そのもので、看守の指示に対しても、終始、不服従を貫き、<br />出所後も筋違いの警察、裁判所批判を繰り返した上、福岡市内にて「革命結社・黒色クートベ」なる怪しげな私塾を主宰し、<br />塾生募集などと称して、各地の不穏な不満分子を結集しようと図り、所轄の福岡県警福岡中央署から、マークされるな<br />$I<br />現在に至るまで、何の反省の色もみせていないようです。<br /><br />また、外山は、自身のブログで「大麻を使った経験がある」などと公言し、遵法精神が薄く、<br />背後には、怪しげな闇社会との接点をうかがわせるなど「犯罪者予備軍」と言っても差し支えない人物です。<br /><br />このような反社会的で、怪しげな人物を貴社店舗「秘密基地 AZITO」のような「公共の場」におけるイベントに<br />出演させてよいものでしょうか？<br /><br />このようにいかがわしく、反社会的な前科２犯の犯罪者予備軍を、貴社が認め、貴社店舗内のイベントに出演させるということは、<br />熊本市内の公序良俗を乱し、ひいては熊本市内における貴社の社会的信用を著しく、失墜、毀損する行為であると憂慮します。<br /><br />つきましては、<br />◎　2010年２月12日(金曜日)午後８時頃の「秘密基地 AZITO」における外山恒一関連トーク・イベントの開催を中止する。<br />◎　外山恒一本人に対し、トーク・イベント開催中止を通告する。<br /><br />以上の二点の措置を考慮された方が、賢明かと存じます。<br /><br />外山恒一の過去の犯罪について??隆慙▲汽ぅ?:<br />http://openwiki.netii.net/index.php<br /><br />http://www.warewaredan.com/<br /><br />http://plus-1.freehostia.com/soc/<br />http://plus-1.freehostia.com/readres-soc.cgi?bo=soc&vi=0003<br /><br /><br />その他、グーグルなどの検索エンジンにて、【外山恒一　犯罪】などの検索ワードで、検索を試みることを強くお勧めします。<br /><br />まずは、略儀ながら書中をもって、ご通知申し上げます。 <br /><br />敬　具<br /><br />熊本市民 良識ある有志一同<br /><br /><br />（アタマの程度が知れる間違った日本語の用法、および文字化け等は原文のママ）<br /><br />　　　　　　　　　　※　　　　　　　　　　※　　　　　　　　　　※<br /><br />　あわわ……熊本イベントも潰されてしまうのか!?<br />　まあ、店名に「秘密基地」だの「アジト」だのつけて平然としている経営者が、事なかれ主義の天下り官僚を経営陣に迎えるようなヘッポコ放送局とおんなじ対応をするわけがないのであって、今回は中止ということには絶対にならないのでご安心を。<br />　なお今回もメールの発信元アドレスは、私の出身高校のものに偽装されていたようである。
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/toyamakoichi/entry-10454244910.html</link>  
      <pubDate>Tue, 09 Feb 2010 01:18:58 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>私と全共闘【長文】２</title>  
      <description> <![CDATA[ <font color="#FF0000">　※検索サイト等からいきなりこのブログにアクセスした方へ。ここには「我々団」もしくは「外山恒一」に関する詳しい情報はありません。<a href="http://www.warewaredan.com/" target="_blank">公式サイト</a>へ移動してください。<br />　カンパを広く募集しています。振込先は、「福岡銀行　春日原支店　普通　1167080　トヤマコウイチ」です。</font><br /><font color="#FF1493">　２月12日に熊本、13日に福岡、26日および３月６日に東京でイベントあります。詳しくは<a href="http://www.warewaredan.com/event.html" target="_blank">こちら</a></font><br /><br /><br />　　　（前の記事からの続き）<br /><br />　　　　５．<br /><br />　とにかく私はまた福岡で活動を再開した。先述のとおり、だめ連ムーブメントを「輸入」する試みだ。<br />　当初はあまりうまくいかなかった。能動的ニヒリズムの数年間のうちに、私の言葉遣いはかなり生硬になっていたし、またオウム事件直後というタイミングになってしまったので、「戦争」に備えなければという内心の焦りとだめ連路線とを自分の中でうまく接合することができない苛立ちにたえず襲われてもいたのだ。<br />　東京のだめ連やその周辺の動向にも、ずっと注意を払いながら福岡での模索を続けた。もちろん時には上京して、それをじかに「視察」して回ることもあった。面白い動きがあれば、それも福岡へ「輸入」した。<br />　例えば「メンズリブ東京」である。日本のメンズリブ運動は、90年ごろまず大阪で始まったが、当初それは（たいていは「つれあい」の）フェミニストからのさまざまの糾弾に屈服した男たちの「自己批判」運動の色彩が強かった。当然「異端的極左」道を追求する私にとっては愚劣この下ない運動だったが、東京に飛び火したメンズリブはこれとは少し違っていた。フェミニズムを否定するわけではないが（むしろ支持しているだろう）、とりあえずそれとは別次元の問題として、「男らしく生きろ」という世間からのプレッシャーは男自身にとってキビシーのだ、という自己解放運動の側面が強調されたのである。つまりかぎりなくだめ連的な「脱力運動」としてのメンズリブ。まもなく福岡にもメンズリブ団体が誕生するが、私はそこに結成段階から介入して、大阪路線を警戒し東京路線を導入する努力を続けた（最終的には敗北した）。<br />　あるいは「銭湯料金値上げ反対」運動である。一見あまりにも地味なテーマに思えようが、東京で日常的に銭湯を利用しているのは、家賃の安い風呂なしアパートに住む若者たちである。「一人前の社会人」たろうとする者は、世間体を考えてか、無理をしてでもベラボーに高い風呂つき物件に住んで、ほとんど家賃を稼ぐためだけに朝から晩まで働かされ「社畜」と化していくわけだが、つまり風呂なしアパートに住んでいるのは、そういう生き方を（自覚的にかどうかはともかく）しない若者たちであり、この運動はそうした層を組織することを念頭におこなわれていた。したがってまた「ウチブロ的」（もちろんプチブル的とカケてある）な生活スタイルに対する批判は、不況期の厳しい労働環境の分析を含み、今日の「プレカリアート」諸運動を10年近く先取りしていた感もある。さらに風呂なしの木造アパートが多数残る雑然とした町並みを守れという主張は、整然として管理の行き届いた町並みへの再開発に反対する、管理社会批判・監視社会批判のモチーフを含んでいた。発行するミニコミが多少難解でありつつもポップだったため、首都圏の運動シーンに徐々に影響力を拡大していた。<br />　そして松本哉の「法政大学の貧乏くささを守る会」である。「学費値上げ反対」や「サークル棟建て替え反対」といった学生運動の伝統的なテーマを、「貧乏くささを守れ」というコミカルな切り口で再編し、奇想天外な（マヌケな）戦術を次々とくりだして、沈滞しっぱなしのノンセクト学生運動を短期間ながら久方ぶりに高揚させるという奇跡を実現した。<br />　福岡の「交流圏」も、がんばって続けているうちにいつのまにか総勢百人程度に拡大し、彼らにも私が東京から「買いつけ」てくるそうした一連の運動情報や関連文書、さらには次々と発明される新しいキーワードやキャッチフレーズは受けがよく、それらに共通して漂っているノリやセンスは一定浸透した。その過程で、少なくとも「オウム以降」の状況に関して私自身がこだわってきた課題と、この「だめ連福岡」の運動とを結合する方向性も見えてきた。それを私は、「自警団から身を守るための自警団」と表現した。東京の一連の運動に参加している若者たちもそうだし、だめ連福岡の「交流圏」に集まってきた若者たちもそうなのだが、要するに世間一般から見れば「わけのわからない怪しげな連中」である。オウム以降、そのような連中を市民社会から一掃するためのさまざまの動きが強まっている。そのことをよく認識し、こちら側も団結して市民社会の大多数派たる「健全な連中」から身を守るべく準備していかなければならない。実はこの発想こそが私の考える「ファシズム」の原型なのだが、当時まだそこまでは自覚していなかった。そして進むべき方向性は見えたのだが、実際にその実現に向けた試みへと踏み出す前に、このだめ連福岡の「交流圏」は突然崩壊してしまう。<br />　私が当時付き合っていた女性を、つまらない痴話喧嘩の末につい激高して殴ってしまい、そのことが「交流圏」内外の左派系活動家の糾弾の対象とされたのが崩壊の始まりである。もちろん私は、これまでさんざん述べてきたような問題意識でいたから、このテの糾弾に簡単には屈服しない。私を支持する者と左派系を支持する者とに「交流圏」は分裂するし、またまだ感覚的なシンパシーで出入りしていたにすぎない圧倒的多数はこうしたシビアな状況になるとたちまち寄りつかなくなってしまうし、こっちももうそれどころではないので彼らを引き止めるエネルギーもないし、という次第である。<br />　結局私と相手女性とは（半ばムリヤリ）引き離され、そのまま別れることになったのだが、女ってのはアサハカなもので（と私はもはや現在では確信をもって女性を差別するファシストなのであるが）、私と別れてからさらに左派系の運動に積極的に参加するようになった彼女は、１年以上を経ていきなり当初の殴打事件について私を刑事告訴してきたのである。しかも彼女についた弁護士グループが、福岡であの「子どもの権利条約」の運動の中心にいた、当時何度かその集会を「粉砕」したこともある相手だったのだ。もちろん彼女ももはやその一員となり、当然その裁判闘争を支えようという福岡の左派系市民運動の活動家の中には、90年代前半の能動的ニヒリズム時代に衝突した相手もたくさんいる。つまり私にとっては、ますます後には退けなくなるような状況がこれ以上ないというほど完璧に構築され、私はそれまでの活動家人生のすべてを賭けてこれと対決せざるをえないという、それはそれはもう大変なことになってしまったのである。<br /><br /><br />　　　　６．<br /><br />　「交流圏」の崩壊が99年春、その後しばらくほとんど抜け殻のようになって（初めて精神科の門も叩いたし）かつてなく荒れてすさんだ生活を送っていたが、そこへ突如、裁判所からの「召喚状」と初公判期日を知らせる通達（もちろんそもそもショボい痴話喧嘩でしかないわけで、在宅裁判である）が届いてビックリ仰天したのが2000年暮れのことである。<br />　この裁判の経過について説明しはじめるとまた長くなるので省くが、真正面から連中と対決することを決意した私は、以下のようなスタンスでこれに臨んだ。<br />　「ぼくの問題意識は極めて明確だ。セクハラ問題あたりから予兆があって、近年のストーカー規正法、ＤＶ（ドメスティック・バイオレンス）防止法など、誰も正面切って反論できないような大義名分で、国家権力の及ぶ領域が市民社会のすみずみにまで拡大していく状況にぼくは反対だということだ。しかも、国家権力の肥大化に本来なら歯止めをかけるべき左翼勢力が、むしろフェミニズムの猛威に萎縮して、それを事実上、後押しさえしているという様は言語道断と云うべきだ」（当時の文章より。補足しておくと、私の事件は相手方である左派の連中に「ストーカー事件」「ＤＶ事件」として認識されていた。後者については云うまでもないが、前者は本稿では省略した「交流圏」崩壊過程での私のいくつかの言動や、さらには字義どおりの「濡れ衣」や「云いがかり」を含んだ諸々を指す）<br />　ここは重要なので、後になって獲得した視点も加えつつになるが、もう少し詳細に私の問題意識を説明したい。<br />　2009年現在、世界は戦時下にある。しかもその戦争は新たな世界大戦、「第四次世界大戦」（「第三次」はいわゆる冷戦）である。一般にはそれは、「対テロ戦争」と呼ばれている。<br />　対テロ戦争が世界大戦であるというのは、アメリカの戦争に世界中が巻き込まれているという意味ではない。対テロ戦争には、あらゆる国が程度の差はあれ主体的に取り組んでおり、例えば我が国でも95年の地下鉄サリン事件以来、対テロ戦争は独自に継続されている。<br />　今次世界大戦の最大の特徴は、それが「内戦」的であることだと云われる。内戦では、主役は軍隊ではなく警察である。それまで漠然と想定されていたスケールをはるかに凌駕する大規模な犯罪（たいていは何らかの「テロ」）発生をきっかけに、警察力の無際限の強化が始まる。これは「戦争への道」などではなく、「警察力の無際限の拡大」それ自体が戦争行為としておこなわれるのである。私はオウム事件に接して「戦争が始まる」と恐怖し、それについて「この認識はある意味決定的に間違っていた」と先に述べたのはつまりそういうことである。オウム事件によって「戦争への道」が開かれ始めたのではなく、つまり「戦前」期に入ったのではなく、実はオウム事件勃発の時点が「開戦」であり、以後はもう（比喩でもなんでもなく字義どおりの）「戦時下」だったのである。<br />　たしかにアメリカは世界中に軍隊を送り込んでいるように見えるだろうが、本質的には、アメリカは「世界の警察」として警官隊を送り込んでいるにすぎない。アメリカがアルカイダに対しておこなっていることは、日本がオウムに対しておこなっていることとまったく変わりがない。<br />　開戦は何らかの具体的な事件（地下鉄サリン事件や「９・11」）をきっかけとするが、いったん始まってしまうと、この戦争は（開戦にあたってアメリカ指導部がまさにそう宣言したとおり）永遠に続く。二度とサリン事件や「９・11」のような事態を招かないためには、オウムやアルカイダさえいなくなればそれで安心、とは云えないからだ。そこで官民一体となっての「不審者」狩りが始まる。<br />　改めてその気になって周囲を見渡せば、「今に何かしでかしそう」なのはオウム信者だけではない。北朝鮮工作員、外国人犯罪者、ヤクザ、ストーカー、ＤＶ男、20代（まして30代）無職男、キレる子供たち、キレなさすぎる子供たち（引きこもり）、我が子を虐待する親、飲酒ドライバー、路駐ドライバー、……しまいには、ゴミをきちんと分別しない奴や、繁華街で歩きながらタバコを吸って平然としている奴まで、どいつもこいつも不気味な犯罪者予備軍に思われてくる。<br />　一般市民は自ら進んで街じゅうに監視カメラを設置し、街頭パトロールを組織し、子供たちに防犯グッズを配る。<br />　マスコミも戦時協力を惜しまない。ちょっと迷惑な住人がいると聞けば殺到し、糾弾し、追放を支援する。犯罪被害者の悲惨をドラマチックに演出し、加害者への憎悪だけをひたすらかき立てる。<br />　職業裁判官が非情で（冷静で）、他の事例とのバランスなどという被害者にとってはどーでもいいことを理由に、加害者に厳罰を科すことをためらうので、直接リンチに参加させろという要求が高まって、裁判員制度まで導入された。<br />　ついでに触れておくと、そもそも間違いなく「テロリスト」である「新」左翼諸党派の存在が放っておかれるわけがなく、明治・早稲田・法政といった、これと一定の妥協をしてきたことで有名ないくつかの大学当局も、強硬な対決方針への変更を余儀なくされた。<br />　挙げていけばキリがないのだが、とにかく95年以来この国で起きているこれらの現象全体が戦争（内戦）なのであって、海外派兵や改憲や靖国や日の丸・君が代や……といった類の諸問題は、今回の戦争とは少なくとも直接の関係がない。右派政治家の一部に、何かにつけては軍を海外に出したがったり、９条に手をつけたがったりする者がいるのは、それに反対する左派と好対照をなす「冷戦ボケ」か、せいぜいアメリカとの付き合いの問題であって、我が国が独自に主体的におこなっている戦争の問題とは関係がない。<br />　現在もし本当に「反戦」のスタンスに立つのであれば、日本軍がアフガンやイラクやどこかの海賊退治に派遣されようが、そんな瑣末なことには見向きもしないで、95年以来無数におこなわれた警察力強化の戦時政策を一つ一つ改めて問題にしてゆくことだ。具体的には、オウム対策法や盗聴法や組織犯罪対策法や住基ネット法やストーカー防止法やＤＶ防止法や犯罪被害者支援法や健康増進法やリサイクル法や路上禁煙条例や……をすべて撤廃させ、少年法や刑法や道交法の厳罰化方向への改変をすべて取り消させ、駐車監視員制度や裁判員制度を中止させ、街頭の監視カメラやＮシステムやオービスや……を撤去させる、さらにはいたずらに不安を煽って戦時協力しているマスコミにもその姿勢を改めさせる、といった方向のものでなければ、今おこなわれている戦争に反対していることにはならないのである。<br />　裁判闘争時点に話を戻す。<br />　今列挙したようなさまざまの戦時政策の一つ一つに関して、ただそれが「戦時政策」であることに気づいていなかっただけで、私はその都度その都度、危機感を表明していた。しかし左派は、過去の戦争（しかも一つ前の戦争である冷戦よりさらに一つ前の戦争である第二次大戦）のイメージに呪縛され、盗聴法や住基ネットといった系列の問題にかろうじて（しかし「反戦」の文脈ではない形で）反応しただけで、ＤＶ法や健康増進法といった系列の戦争法案にはまったく反応できなかった。それも当然で、ＤＶ法やストーカー法や被害者支援法の類はフェミニストたちの（「被害者の人権」はそもそも性犯罪のそれについてまずフェミニストたちが云い始めたということを私は決して忘れていない）、健康増進法やリサイクル法や路上禁煙条例の類は（嫌煙権活動家を含む）エコロジストたちの、つまり一連の「戦時政策」のかなりの部分が実は左派の要求と支持によって推進されてきたものなのだ。<br />　触れる機会がなかったので今触れるが、90年代を通して私は「反帝反スタ」と（わざと声高にコトサラに）云い続けてきた。しかもその場合後半の「反スタ」をより強調してであり、その含意は、冷戦崩壊以降、政府はどうも「左傾」しているのではないかという直感的疑惑だ。もちろん今述べたような、本来左派的な政策が（しかも刑事法的な部分にさえ）次々と取り入れられていく状況に着目してである。多くの人が、90年代に世の中は急速に右傾化したと云っているが、実は逆なのではないか。しかもこれらＰＣ（ポリティカル・コレクトネス）的な政策は、云うまでもなくあの華青闘告発以来の左派の正義の現在形であり、つまり「全共闘は（自分でも気がつかないうちに）勝利している」のではないかと、やはり私はスガ秀実の指摘を改めて待つまでもなく、90年代のうちからさんざん云い散らし、たいていは「電波系」扱いされてきたのである。<br />　裁判闘争の過程は、私にとってそうした疑念をさらに強くさせられていく過程で、したがって私は急速に「右傾化」しはじめた。<br />　まず弁護士が見つからなかった。私の問題意識そのものはやはり左派的なものだったし、だからまずは福岡の心当たりの左派系弁護士を何人かあたってそれを説明してみたのだが、結局どいつもこいつも相手側を支持するという（もっとも地方には弁護士の総数自体が少なく、中でも数少ないロコツに左派的な弁護士はたいてい実体的に相手方と関係があったのだ）。<br />　どうにも困り果てた私は、きっと右派のはずだという予測のもとに、北朝鮮による日本人拉致疑惑（小泉訪朝前である）を追及していた市民団体に連絡をとり、私の立場と置かれた状況とを説明して、誰か弁護士を紹介してもらえないかと頼んだ。実際に紹介してもらった弁護士は結局この事件を引き受けてくれなかったが、最初に相談を持ちかけた相手はやはり想像どおり分っかりやすく右翼思想の持ち主で、私の「左翼異端派としての左翼主流派批判」を大変面白がってくれて、今に至るも交流が続いている。<br />　結局私は事実上弁護人ナシで（国選弁護人はもちろんついたが、法廷で弁護人と被告人がお互い丁重な言葉遣いで罵り合うような事態にまでなった）闘う覚悟を固め、左右の政治運動シーンを味方につけられないならいっそ前衛芸術シーンの注目を集められないかと、裁判を徹底的にパフォーマンス化する戦術（弁護人とモメてみせたのもその一つ）を採用して裁判官を激怒させ、事前に相談したどの左右の弁護士あるいは法廷取材の経験が長い新聞記者たちも「どんな有能な弁護士でも無能な弁護士でも、執行猶予つき有罪判決以外の判決はあり得ない」と意見を一致させたショボい痴話喧嘩裁判で、驚愕の実刑判決を勝ちとり、2002年５月から04年５月まで、丸２年間もの獄中生活を経験することになったのである（どうも私は極めて紳士的な物腰を維持したまま裁判官という人種を挑発し激怒させる技術に長けすぎているようで、昨年も原付バイクによるショボい交通違反を正式裁判に持ち込んで、「求刑の８倍」というこれまた前代未聞のトンデモ判決を引き出し、これは全国報道された）。<br />　かなり右傾化しつつあったとはいえ入獄の時点ではまだ私は「異端的極左」のアイデンティティを保持していたが、２年間の獄中生活のちょうど中間の時期、ついに「転向」に踏みきった（「獄中転向」とはまたいかにも戦時下にふさわしいふるまいであると自負している）。<br />　ただし私は転向して右翼になったのではなく、右翼とはまた別種の政治的立場である「ファシスト」になったのである。獄中でムソリーニの前半生を詳細に描いた評伝（藤沢道郎『ファシズムの誕生』）を読み、ムソリーニがまさに異端的極左の立場から、右でも左でもないオリジナルの思想としてファシズムを創出していく過程に心底から共感し、その志を継ぐことを決意したのだ。<br /><br /><br />　　　　７．<br /><br />　私の考える「ファシズム」の何たるかについて詳細に語るには紙幅が足りないが、これまでの文脈をふまえていただいた上で、「国家権力と対決的な性格のある立場Ｘが、国家権力が右傾しているために対抗的に左翼勢力と結んでいる場合にはアナキズムと呼ばれ、国家権力が左傾しているために対抗的に右翼勢力と結んでいる場合にはファシズムと呼ばれる」という私なりの要約で、あとは推察されたい（私のサイトhttp://www.warewaredan.com/にはむろん詳細がある）。<br />　私は、現在の「プレカリアート」諸運動に直接つながってゆくことになる01年暮れからのアフガン反戦や03年のイラク反戦の運動が、若い世代の大量参入によって高揚していく時期に、裁判闘争で精一杯だったり獄中にあったりしたために、まったく関わりを持てなかったことを大変幸運だったと思う。もし関わっていれば、間違いなくまた異端としての苦渋を舐めるばかりで、すべてが徒労に終わる孤独な闘いを強いられていたことだろう。<br />　もちろん私は獄中で意識的に可能なかぎり一連の反戦運動に関する情報を集め、その推移を注視していた。<br />　日本の反戦派は、現在に至るも、今回の戦争はアメリカの戦争であり、日本はせいぜいそれに巻き込まれたり、追従しているだけだという観点を抜け出せていない。「現在は戦時下にある」と云う者は多いが、わずかに森達也を除いて他全員が「９・11以来」の意味でそう云っているにすぎない。そのような「反戦」運動に、何の意味も展望もありはしない。<br />　そして実は現在の私は「反戦派」ではない。最初にブッシュやラムズフェルドが宣言したとおり、今回の戦争は「永久戦争」であって、絶対に「終わらない」のだ。この永遠の内戦状況において、反体制派が取りうる選択肢は「応戦」（か「投降」）以外にない。<br />　私は、ファシストとして今後右翼勢力と手を結び、左傾した国家権力（とその同伴者である左翼勢力）と対決する道を選んだ。<br />　現実的な展望はある。<br />　そもそも左派はなぜ、徴兵制に反対するのだろうか。政府が右傾していようが左傾していようが、志願制であるかぎり、軍隊という存在の本質的な性格上、軍人は圧倒的多数の（体制的な）ノンポリと少数の右翼とで占められる。左派がいくら軍に働きかけようと、せいぜい数名の「反戦自衛官」のごとき変わりダネを獲得しうるのみである。革命の過程が深まってゆけば、それが本物のそれであるかぎり、いずれ必ず警察の武力と対峙しこれを打ち破っていかなければならない局面に遭遇する。その時、軍人が革命側に呼応して起つことを期待できないのであれば、自前の武力を事前に培っておく他なくなる。自前の「革命軍」の建設は、それ自体が極めて難しいばかりでなく、必ず法に抵触するから弾圧をますます容易にさせもする。全共闘も結局、この難所をうまく越えることができずに「敗北」していったのである。<br />　私は左派が今後も引き続き徴兵制に反対し、軍の赤化を防止し続けてくれることを期待する。逆に我々は、アサハカな保守政治家が、「軍部の暴走」をより容易にするような、シビリアン・コントロールを骨抜きにしてゆくような軍事政策を提起した時には、諸手をあげてこれに賛成しよう。<br />　全共闘の限界は、それがあくまで左派圏内での試行錯誤にとどまったことにある。そのことは同時に、「華青闘告発への道」をも必然化した。<br />　若者はいつの時代にも敏感で、かつ反抗的である。国家権力が左傾した現在、多くの若者たちが正しくも右傾化している。<br />　突破口は「右翼全共闘」の方向にしかない。かつての「左翼全共闘」の半分ほどの高揚でももし実現しえたなら、今度は本当に、我々は「勝つ」かもしれない。<br />
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      <link>http://ameblo.jp/toyamakoichi/entry-10453291824.html</link>  
      <pubDate>Sun, 07 Feb 2010 23:25:01 +0900</pubDate> 
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      <title>私と全共闘【長文】１</title>  
      <description> <![CDATA[ <font color="#FF0000">　※検索サイト等からいきなりこのブログにアクセスした方へ。ここには「我々団」もしくは「外山恒一」に関する詳しい情報はありません。<a href="http://www.warewaredan.com/" target="_blank">公式サイト</a>へ移動してください。<br />　カンパを広く募集しています。振込先は、「福岡銀行　春日原支店　普通　1167080　トヤマコウイチ」です。</font><br /><font color="#FF1493">　２月12日に熊本、13日に福岡、26日および３月６日に東京でイベントあります。詳しくは<a href="http://www.warewaredan.com/event.html" target="_blank">こちら</a></font><br /><br />　ストーカー・Ｆのおかげで（？）、昨日・一昨日とアクセス数がすごい。一過性の現象だろうが、アクセス数の多いうちに、実は公開のタイミングを計っていた長文をいよいよ公開しよう。<br />　そもそもはＦの卑劣な所業が引き金となって始まった、投獄そしてファシズム転向に結実する裁判闘争についても、別の角度から（そして思想的にも意味のある視点で）言及している。<br />　<a href="http://www.linelabo.com/han/no003index.htm" target="_blank">雑誌『悍』第３号の「暴力論特集」</a>のために書いた原稿で、その「暴力性」ゆえに後続世代に一様に毛嫌いされている感のある「全共闘」を、私がいかにして真に理解するに至ったか、という趣旨なのだが、「しかし暴力論にはなってないじゃないか」ということでボツになった。まあ、たしかにそのとおりではある。<br />　結局、同誌には全面的に書き直したまったく別の原稿が掲載された。結論部分のみほぼ同じだが、この程度の重複なら構わないだろうと判断し、そのボツ原稿を以下全文公開する。実際、依頼されたテーマからは外れてしまってはいるとはいえ、結局載った原稿よりこのボツ原稿の方が面白いと思う。<br />　なお当時これを読んでもらった中川文人氏に、「今の日本に自分史を思想史として語ることのできる人物は他にいないだろう」との賛辞（たぶん）をいただいた。<br /><br />　　　　　　　　　　※　　　　　　　　　　※　　　　　　　　　　※<br /><br /><br />　　　　　<font size="4">私と全共闘</font><br /><br />　私には、自分が全共闘運動の唯一の継承者であるという自負がある。<br />　そもそも私の世代に、全共闘運動をたえず参照しながら自らの進むべき道を探ってきたような人間は、狭い政治運動のシーンにさえ他にほとんど（せいぜい数人くらいしか）存在しないだろうし、しかも単に参照するにとどまらず、全共闘のさらに先へ進もうと志して、なおかつその具体的な方向性を提示しうるにまで至ったのはおそらく私一人だろう。<br />　そんな確信を深めているところだったから、『悍』創刊号に掲載された千坂恭二「一九六八年の戦争と可能性」にある、「プレ・ファシズム性こそが、この運動（全共闘運動）の最大の思想的遺産でもある。つまりファシズムの自己肯定を経過しない思想は、この運動以降には到達出来ないということでもある」との記述は、ますます私を天狗にさせている。<br />　全共闘を意識して以来10余年に及ぶ試行錯誤の末に、５年ほど前、私はファシズムへの「転向」を宣言していたからである。<br /><br /><br />　　　　１．<br /><br />　私が生まれた時、全共闘はすでに「終わって」いた。<br />　私の理解では、60年代後半の高揚期から70年代前半の停滞期へと、全共闘運動が移行するターニング・ポイントは、70年７月７日の「華青闘告発」である（念のために云っておくが、スガ秀実がこの事件について盛んに論じ始める以前から私はそう理解していた。さらに云えば、スガはそれを全共闘運動が決定的に変質するターニング・ポイントであるとは云うが、別に「停滞期への」それであると云っているわけではないのだから、ニュアンスは少し違う）。<br />　私が生まれたのは、その華青闘告発の３週間ほど後のことである。<br />　10代がちょうど80年代とぴったり重なっていることになるのだが、80年代はいわゆる「管理教育」の全盛期である。高校全共闘が鎮圧され、校内暴力さえとっくに鎮圧されていた80年代半ばの学校状況は、教師と生徒の力関係が一方的に前者に傾いた、きわめて息苦しいものだった。これに抵抗の声を上げるところから、私の活動家人生は出発した。<br />　当時、「反管理教育」は流行のテーマであり、運動の創始者である保坂展人のグループが発行する『がっこうかいほうしんぶん』は、ミニコミなのに１万部出ていたと聞くが、九州のしかも鹿児島のしかも郡部の高校に通っていた私は、そんなことはまったく知らなかったので、その闘いぶりは完全に自己流のものとなった。おかしな校則や理不尽な生徒指導方針について単身職員室に抗議に押しかけたり、生徒総会で当局の手先でしかなかった生徒会役員たちに議論を挑んだり、あるいは似たような不満分子たちを放課後の教室に集めて謀議したり、そんなタワイもないものだ。<br />　「人権」という便利な言葉があることぐらいは知っていたから、そこらへんを入り口に他のさまざまの社会問題にも興味が湧いてきたが、80年代半ばの九州のしかも鹿児島のしかも郡部のしかも世間知らずの16才が周囲をざっと見渡したところで、目に入ってくるのは共産党ぐらいしかない。町にただ一人の共産党議員の事務所を訪ね、パンフを大量にもらって「勉強」した。民青には（「民青というのは学生運動の組織で、学生運動というのはよく分からないけれども火炎瓶や爆弾をアレして暴れたりなんかするとにかく恐ろしいものである」というウワサを耳にしていたので）入らなかったが、だから思想的にもセンス的にも、共産党のハンパなシンパ程度の水準で、在学中は「闘って」いた。<br />　ところがそんなヘタレ活動家の存在すら許さないのが80年代の管理教育体制であり、私はやがて「自主」退学に追い込まれた。88年春のことである。<br />　この前後に、初めて保坂展人の運動の存在を知り、そこに参加する中高生たちの闘争レポートなどをむさぼり読んで、「なるほどこんなふうに闘えばよかったのか」と悔やんだ。あきらめの悪い性格なので、もう高校生じゃないけれども、学校の現状はやっぱり許せないし、保坂グループのようなものを自分も地元で組織して闘争を継続しようと決意した。<br />　またほぼ同じ頃、全国から「闘う高校生」が集まる合宿イベントが東京で開催されると聞いて、もう高校生じゃないけれども、「高校生相当年齢」であれば中退者でも参加ＯＫとのことだったので、行ってそこで衝撃を受けた。鹿児島や福岡では（繁雑になるので説明をハショったが、私のそもそもの「地元」は福岡で、高校時代には、主に学校当局との頻繁な衝突が原因で実はたった２年間に２度の転校をし、つまり計３つの高校に通って、先述の鹿児島の高校はその２つ目の高校である。その鹿児島時代以外は今も昔もたいていの時期は福岡に住んでいる）、私より果敢に闘争している高校生は当時いなかったから、自分はものすごく意識の高い、とにかくもうなんというか一番すごいぐらいの高校生活動家だと（民青以下のくせに）うぬぼれていたのに、それが大いなるカンチガイであることを当然にも思い知らされたのである。幕末にショボい藩で息巻いていたヘッポコ志士が、初めて京や江戸に出て他藩の本格派と交わり、ヘコまされたようなものだろう。全国から結集した「闘う高校生」の中には、当然保坂グループの重要メンバーとして活動している者もいたし、新左翼党派の活動に参加している者もいたし、夏休みや冬休みのたびに全国各地の左派系の運動現場を訪ね歩いているという変わりダネもいた。私のやってきたことなんか、もうまったく子供の闘争だ（いや実際子供だったんだけど）と反省もしたが、負けず嫌いでもあるので、いよいよ地元福岡での活動に力を入れて、彼らを追い越し追い抜いて、今に見ておれ「筑前に外山恒一あり」と天下に名を轟かせるリッパな活動家になろうとも心に誓った。<br />　単に全国に名を轟かすことはまもなく実現した。高校在学中の「闘争の日々」を手記にまとめて東京の大手出版社に持ち込んだら、あっさり刊行されてしまったのである。それで隆盛する反管理教育運動の新しい担い手として、そのシーンでは一定認知されることになったのだが、思想的にはまだこの時点でも、共産党からマルクス主義を引き算しただけの凡庸な戦後民主主義者である。<br />　本を読んで連絡をとってきてくれた地元の中高生を組織していよいよ独自の反管理教育グループを立ち上げ、機関誌を発行したり、原発や天皇制や反戦などをテーマにする左派系のいわゆる無党派（？）市民運動シーンに出入りしたり、なんとかそんな「フツーの活動家」のスタイルに収まったのが、89年半ばあたりのことだ。<br />　ところがまもなく、このグループは崩壊する。積極的に活動を担うごく一握りのメンバーと、ただ私が用意した拠点アパートに毎日のように入りびたってダベリに興じるだけの大多数とに、役割（？）が固定してしまったのだ。頭に来て多数派を追い出したまではよかったが、そうすると人数も極端に減って、途端に活動停滞に陥ることになる。<br />　どうすれば闘う奴らだけの組織を実現できるんだろう、出て行った多数派の奴らの顔を具体的に思い浮かべていけば「みんな話せば分かってくれる」とはとうてい思えなくなってきたぞ、そもそも「反管理教育」って云うけれども「管理じゃない教育」なんてありえるのか、単に「今よりいくらかマシ」なだけの学校に改革してしまうとむしろそれで満足する奴（拠点アパートという「居心地のいい居場所」を見つけたら途端に闘う気をなくした多数派の奴らみたいな）が増えるだけなんじゃないか……「停滞の日々」の中でそんなことをウダウダ考えるようになり、つまりグループのあっというまの崩壊は私のラジカリズム志向に火をつけたのである。<br /><br /><br />　　　　２．<br /><br />　具体的な行動はほとんどせずに、数名の残存メンバーと意見をすり合わせているうちに、（闘争意欲旺盛なメンバーだけが残っているのだから）よりラジカルな方へと議論が整理されていく傾向が出てくる。発行だけは定期的に続けていた機関誌の内容も、もはや活動報告ではなく、そうした議論の状況報告がメインとなったが、これが前述の高校生合宿のラジカリストたちの間で評判となった。一時的に疎遠になっていた彼らとの関係がより強い形で復活して、私のグループは、全国に散らばるラジカルな高校生活動家ネットワークの福岡支部のような案配になった。<br />　そんな状況にいた90年の始めぐらいだったか、ネットワークの一員である広島の同志が、「すごい本を見つけた」と興奮して、みんなにもぜひ読んでほしいがなにせ絶版なのでと自分の通う高校の印刷機で勝手に数百部を「増刷」、全国の仲間に送りつけるという奇行に走った。もちろん私のところへも送られてきた。<br />　それが（オリジナルは）70年に三一新書から刊行された竹内静子『反戦派高校生』で、要するに高校全共闘に関する詳細なレポートである。<br />　他ならぬ同志のタッテの勧めだからということで読むには読んだが、たしかすぐにはピンとこなかったような気がする。民青よりダメなレベルから出発して、数年をかけてようやくラジカル道の緒についたばかりの私には、全共闘はまだ遠かった。<br />　自分のグループの崩壊体験に続いて、私が停まった「ラジカルすごろく」の次のマス目にあたるのは、この90年４月、なんと19歳にしてまた新しい高校に１年生として入学してみる、という奇行だった。もちろん私は、拠点を維持するために大学に何度も入り直す党派活動家のような心づもりでそれをおこなったのである。グループの崩壊で現役高校生メンバーが激減し、「現場での活動」が停滞している状況を打破したかったのだが、云うまでもなくこんなアクロバットがうまくゆくはずがない。15歳の集団の中に19歳が１人混じっているのだから、その居心地の悪さときたら大学自治会室の中年活動家の比ではなかろう。やっぱりまたすぐ中退してしまったが、一度「学校」の外に出て、２年間もブラブラしながらいろいろ考えて、その上でまた「学校」に戻ってみると、現役の時には何とも思わなかった学校空間の細部に至るまでがすべて異様なものに見えてくる。教室の教壇と椅子の配置さえ、監視と管理のプログラムに奉仕している。どの教師が日教組でどの教師が御用組合員であるかまで把握した上で、生徒の立場から学校状況を観察するという珍しい体験だったわけだが、むしろ日教組的な批判分子までをも含みこんで学校というシステムは機能しているのだというカラクリにも気づいてしまう。どうもこの「潜入体験」によって、私はようやく全共闘の問題意識を理解しはじめたらしく、当時書いた文章に『反戦派高校生』のこんな記述を引用している。<br /><br /><em>　……企業には、ある程度ズケズケものを言い、ムホンを起こす青年社員の存在が必要であり、官僚機構には、局長や大臣にタテつくような革新官僚の存在が必要である。高校では、人生に対する疑問を提出し、こんなことでいいのか、もっと話し合って生きていかなければならない、という生徒や、ベトナム戦争に無関心であってはならない、という発言が必要である。多数のもの言わぬ羊と、よい草を食べさせてもらいたいという少数の羊の存在、それが均衡して調和を保つところに、管理社会は最も有効に機能することができる。……</em><br /><br />　管理的な学校状況を改良しようという運動こそが、管理的な学校状況をむしろ強化してしまう。じゃあどうすればいいんだよ、ということになるのだが、簡単である。「学校改良」ではなく「学校解体」を主張しなければならないのだ。<br />　自伝じゃないので停まったマスをいくつか飛ばすが、次は同じく90年の８月、神戸で開催された高校生の討論会である。直前に神戸で起きた「管理教育」に起因するある大きな事件を受けて開催されたもので、地元の高校生たちが大勢つめかけていた。例のネットワークの中核的なメンバー数名と共に私も参加したのだが、それは圧倒的多数の地元高校生たちと私たち数名とが互いに非難しあう、大混乱の場になってしまったのである。<br />　結局、互いの「ふるまい」が気にいらないのである。司会の高校生が議論の流れを（予定調和な結論に向かって）コントロールしようとし、私たち以外の高校生たちはそれにおとなしく従う。私たちは、くだらない発言があれば挙手もせずしたがって司会に指名されるのも待たずに、勝手に割り込んで議論をふっかけ、それに司会が怒り出すと今度はその司会と私たちとの議論に持ち込もうとする。最終的には、私たちvs他全員、という構図での罵り合いである。<br />　私たちのそれは、実はそもそも私たち同士が初めて出会ったあの合宿での討論スタイルなのであった。せいぜい数十人や百人程度の場であれば、司会進行なんか置かなくても成り行き任せで議論は成立する。野次も自由だ。「さっきから何も発言していない人がいるので、その人の意見も聞いてみましょう」なんて提案は即座に却下される。自分から喋り出すパワーなり情熱なりがないのなら、黙って聞いていればよいのだ。だいたいその程度の主体性もない奴が、学校と闘えるか。<br />　こんな私たちの「作法」は、その後どこの集会に行っても同じように嫌われた。「帰れコール」を浴びるのも日常茶飯事で、そんな時は私たちも「また始まったよ」と苦笑しながら居座った。自覚はなかったが、私たちの流儀が極めて全共闘的であったことは云うまでもない。<br />　また何マスか進めよう。<br />　同じく90年秋。当時の反管理教育運動シーンには、「子どもの権利条約」待望論が蔓延しており、どいつもこいつも同条約の批准を政府に要求する活動に精を出していた。私たちはこれに牙を剥いた。前記高校生集会と同じように、全国各地で開催される関連集会に、数名でヒッチハイクで押しかけては会場からの「不規則発言」で壇上のパネリストたちに盛んに議論をふっかけるのである。私たちの主張はこうだ。重要なのは生徒自らが学校現場で闘争を展開することであり、国会議員や弁護士を先頭に立てる形にしかなりようのないテーマに多くのエネルギーを費やすのはそもそも単純にもったいないし、ましてせっかく権利意識に目覚めた生徒たちをも次々とこの運動に動員して巻き込んでいこうとするのは、現場での闘争勃発をむしろ予防さえしてしまう最悪の方針である。<br />　一連の「子どもの権利条約」批准要求運動粉砕闘争は、運動内部で総スカンを食らい、私たちのグループは決定的に孤立した。<br />　この闘争の過程で、私たちは「子どもの権利条約を新たな闘いの武器にする」という発想だけでなく、「憲法で保障されたナントカの自由を侵害するなー」式の学校批判にも強烈な違和感、やがて反感を抱き始め、ますます主流派との間の溝が広がった。<br />　当然、全共闘に対するシンパシーはいっそう強まった。私たちは結局、全共闘派が民青を批判したように、運動の主流派を批判していたのだ。こっちは数人しかいなかったからゲバルトは行使しなかったが、いればやっただろうし、できればやりたいと思うぐらいには主流派を憎むようにもなっていた。<br />　そもそも反管理教育運動は、保坂展人の麹町中学全共闘とその裁判支援闘争から発展してきたものだ。それが当時すでに、その保坂グループまでをも含めて、私たち以外のシーン全体が「子どもの権利条約」に夢中だったのだ。全共闘（やベ平連）的なものの「その後」が、今やかつての民青のようなものに先祖返りしてしまっていることに、私たちは気づき始めていた。<br />　「どいつもこいつもくだらない運動ばかりやりやがって」とグチり合いながら、全国各地のくだらない集会を「粉砕行脚」して回る日々は楽しかったが、さすがにそう長くは身がもたない。91年に入る頃には、すっかり疲れて、私を含め同志たちの気持ちもすさんできた。こうなると、例によって不毛な内輪モメが始まる。<br />　一連の闘争で敵を罵倒する技術はすっかり身についていたから、それが今度は身内に向かう。ちょっとした「日和見的」な言動が、糾弾の対象になる。私はその頃すでに一派の中核にいて、リーダーではなかったがイデオローグ的な役回りだったから、常に糾弾する側にいた。同志たちが次々と消耗して脱落していき、最後にリーダーと私の二人が残った。私に対するリーダーからの糾弾が始まった。私は屈服せず、自己批判を拒否して、決裂した。私はまた一人になった。<br /><br /><br />　　　　３．<br /><br />　まもなく笠井潔の『テロルの現象学』を読んだ。連合赤軍事件やソ連の粛清裁判のくだりは、なるほどそういうことは起きうるものだと腑に落ちた。そもそも運動全体の規模が小さい時代で（つまりだから暴力が身近ではなく）、また私たちのグループもどこかの閉鎖的な拠点にこもるような方針を何かの拍子に採用したりしなくて本当によかったと心から思った。私が同志たちに対しておこなった糾弾の内容は正しかったが、正しいことが必ずしも良いとは限らないのだと考えるようにもなった。<br />　前後して、「腹腹時計」も読んでいた。左派系の運動シーンに何年も身を置いていれば、新左翼ふうの血債論的な反差別論を、私だっていつのまにか自然に内面化している。しかしその論理を徹底的に追求すれば、反日武装戦線に志願する他なくなるのだということを理解した。私には単純に勇気がなくて、「日帝本国人としてのオトシマエ」をつけるための唯一の選択肢へと跳躍する決断ができなかった。動機が本末転倒的だと思わないでもなかったが、反日闘争への不参加に整合性をつけるために、新左翼ふうの反差別論とは違う革命の論理を組み直さなければと考えた。またこれも多少ヤツアタリ的かとは自覚しつつも、やはり私と同じように、反日闘争に決起する勇気も、あるいはその必然性を理解する知性もないくせに、聞いたふうな反差別論を開陳する奴を見ると虫酸が走るようになった。<br />　党派との本格的な接触はなかったが、党派機関紙の類を目にする機会は当然いくらでもあったから、どうやら中核派が一番「反差別」に熱心な党派であるらしいことは見当がついていた。論理的には説明できなかったが、内ゲバを敢行する情熱と血債論的な反差別論の強調とには何か共通の心情的根拠があるようだとも気づいていた。また中核派の機関紙には、何かにつけては「華青闘告発、華青闘告発」としつこく書いてあって記憶に残り、他の新左翼運動史の本にも手をのばしているうちに、たしかにこの事件の前と後とでは全共闘運動の雰囲気が一変しているぞ、と確信を持つようになった。華青闘告発以前の全共闘の記録はひたすら楽しい。読んでいてワクワクする。しかし華青闘告発が起きるやいなや、途端に陰惨な雰囲気が漂い始めるのだ。それがちょうど津村喬の『われらの内なる差別』という本が評判になっている時期であったことにもすぐに気づいた。東大全共闘が云い出して、全共闘運動全体に流行した「自己否定」というスローガンについても、それまでは「このままイイ子ちゃんでい続けると、このろくでもない社会の役に立つ人間になっちまうぞ」といった、つまりともすれば機動隊や民青との衝突に臆して闘争現場から逃げ出しそうになる自分を鼓舞するためのかけ声、ぐらいに理解して受け止めていたが、この言葉が反差別論と結びつくとろくでもないことになるし、実際そうなったのではないかと考え始めた。東大闘争の主要キャラの一人である助手共闘の最首悟が、また反差別運動における重要人物でもあることを思い出して、やっぱりそうなんだと思った。「論理的な暴論」のようなものがそもそも大好きな私は呉智英の著作をそれ以前から愛読していたが、呉が反差別運動批判をテーマに書く時には、たびたび津村喬と最首悟が槍玉に挙げられていることに改めて気づいて、さすがセンセイと唸った。<br />　華青闘告発以前の全共闘は良い。華青闘告発からすべてがおかしくなった。だから、華青闘告発は全共闘運動の延長線上に必然的に起きるものなのか、それ以外の方向へ展開する可能性はなかったのか、というのが全共闘について考える時に私にとって一番重要なテーマになるんだなと見定めた。<br />　とまあ、一人になった私が異端的極左活動家（つまり共産党などを除く左派のほとんどがその濃度はともかく内面化している血債論的な反差別論を必然化しない、何か別の革命の論理を模索する極左活動家）として再出発する決意を固めた91年の段階で考えていたのはおおよそ以上のようなことだ。<br />　もちろん私は圧倒的に遅れて……いや全共闘の後に「遅れてきた」どころではなく「生まれてきた」ぐらいの大遅刻青年であるから、リアルタイムでの経験によらず、20年後にも読める資料から得た断片的な知識に基づいての思考である。だからリアルタイム世代のスガ秀実が近年続けている詳細な分析を読んで、今では認識を改めている箇所も多い（スガへの異論があるとすれば、「華青闘告発への道」が必然的であったとする点にはやはり同じがたいという程度だ）。しかし21歳の私は、スガの一連の仕事が開始されるまで、こうした問題意識を誰とも共有できないまま孤独な試行錯誤を続けなければならないハメに陥ってしまったのである。<br />　もっともそれからしばらくの間の私が実際に展開したのは、単なる能動的ニヒリズムではないかと批判されても仕方がないような、今から思えば無意味な闘争ばかりだ。同時代のすべての左派が立脚しているのとは違う革命の論理を見いだすのだといくら息巻いても、それがそんなに簡単に見つかるものなら他の誰かがとっくに手をつけているはずで、そうそう何かうまい解決の道を見いだせるわけがない。進むべき道が見つからないなら無為でいるべきものを、何でもいいからとにかく動いていないと退屈で死にそうになる、こらえ性のない左翼小児病患者ときている。結局、もうとっくに見切りをつけている戦後民主主義返りした左派系の運動現場にたまに登場してはモメゴトを起こし、罵倒されたり追い出されたり稀に殴られたりするのを、面白おかしくレポートに仕立て、多少センスだけは共有してくれている友人知人に読ませては大笑いさせ溜飲を下げてもらう、というやはりどう考えても不毛なことを３年ほど続けた。<br /><br /><br />　　　　４．<br /><br />　転機はまず95年に訪れた。明けるやいなや阪神大震災というあの年だ。<br />　私の前述したような無自覚な能動的ニヒリズム闘争にシンパシーを抱いてくれていた数人を伴って、ヒッチハイクで瓦礫の街に駆けつけた。震災の翌日だ。もちろんただの物見遊山である。２日間ほどメチャクチャにぶっ壊れた街をぶらぶら散策して、福岡に戻った。入れ替わるように、大量の若者が、ボランティアのために全国から神戸入りしはじめた。ニュースでその様子を見て、ケッと思った。他人を助けてるヒマがあるなら、その前に何とかしなきゃいけない自分の現実ってものがあるだろう。私たちの90年の闘争が失速すると同時に、地球環境問題（権力との衝突が不可避となる原発問題だけはうまく回避するようなタイプの）やエイズ感染防止の啓発キャンペーンに取り組む同世代の若者の姿が目立ち始めて、その健全さ無邪気さに苛立ち続けていた私は、震災ボランティアの若者たちにもまずはケッという反応をすることしかできなかったのだが、実は一方で動揺もしていた。今の自分はちょっとすさみすぎ、グレすぎなんじゃないだろうかと。<br />　震災の翌２月。私は東京で「だめ連」の運動に出会った。当初早稲田大学の弱小ノンセクト・グループとして出発しただめ連は、例えば「熱く交流レボリューション」などに象徴される、ダサすぎて却って笑える類の恥ずかしい直球スローガンやフレーズを確信犯的に多用する斬新な「トーク」の技術を武器に、首都圏のさまざまな左派系政治運動、アングラ文化運動、さらに文系の若手研究者たちのシーンにまで介入、ことごとく面白がられて、結成からわずか３年で、数百人を擁するジャンルの垣根を超えた巨大な「交流圏」を首都圏に成立させていた。出会ったその日から、１ヶ月以上にわたって私はだめ連界隈に入りびたり、彼らの脱力系トークの心地良さにほとんど一方的に聞き入っていた。結論としては私はつまり、大いに癒されたのである。<br />　とりあえずだめ連に学ぼう、と思った。福岡に戻って、だめ連のやり方をそっくり真似て、「交流圏」を作ってみよう。地球を守るだボランティアだと無邪気に盛り上がっている若者たちに対しても、遠くから「ケッ」と冷ややかに見つめているのではなく、直接の「トーク」の可能性を追求してみよう。こうした「だめ連路線」は、そもそも追求しようとしていた「異端的極左」の方向とはズレるけれども、時々くだらない左派系の集会を荒らしてウサ晴らしするようなニヒった活動をだらだら続けるよりはいくらかマシだろう。<br />　せっかくそう決意したところに、さらに翌３月、あの地下鉄サリン事件が起きた。私は恐怖した。むろんオウムに対してではない。それまで運動周辺で見聞きしてきた水準をはるかに超える「トンデモ」レベルの微罪逮捕、別件逮捕を乱発する警察の強硬姿勢と、それを圧倒的に支持し、いやそれにとどまらず「警察のやり方はまだ手ぬるい」とさえ云わんばかりの世論やメディアのマス・ヒステリーぶりに対して恐怖したのである。当時、誰も読んでくれないような特殊なサブカル誌に唯一持っていた連載コラムに、「戦争が始まる」とまで書いて警鐘を鳴らそうとしている。後に述べるように、この認識はある意味決定的に間違っていた。しかし、ラジカル道に邁進して以来、凡庸な左派がことあるごとに繰り返す「これは『いつかきた道』だ」式の反戦の言辞を軽蔑してきた私が、この時ばかりは本気で「戦争が始まる」と思ったのだ。<br />　しかし左派の反応は驚くほど鈍かった。世論との乖離を恐れてか、左派はほとんど沈黙し、どころかオウム・バッシングに同調する左派系ジャーナリストの姿が目立つほどだった。当時すでに一定の知名度のある左派論客で、世論と対決する覚悟を示してよく奮闘しえたのは、わずかに吉本隆明とスガ秀実の二人だけだ。むしろ宅八郎や鈴木邦男、さらには『週刊プレイボーイ』といった、常識的な論壇的感覚からすればトンデモ系、電波系と見なされてきたような部分が、原則的な警察批判の論陣を張っていた。他は全滅だ。<br />　以来現在に至るまで、大小無数のある共通の方向への社会の変化が生じてきた（後述）。私はその一つ一つにいちいち恐怖し、機会あるごとに注意を呼びかけながら、それらがすべて「オウム以降」の文脈にあることを強調してきたが、（何年か経って森達也が私とは無関係に独自に同じことを云い始めただけで）ほとんど誰も反応してくれなかった。<br /><br />　　　（以下、次の記事につづく）
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      <link>http://ameblo.jp/toyamakoichi/entry-10453289453.html</link>  
      <pubDate>Sun, 07 Feb 2010 23:00:05 +0900</pubDate> 
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      <title>九州移住ブーム</title>  
      <description> <![CDATA[ <font color="#FF0000">　※検索サイト等からいきなりこのブログにアクセスした方へ。ここには「我々団」もしくは「外山恒一」に関する詳しい情報はありません。<a href="http://www.warewaredan.com/" target="_blank">公式サイト</a>へ移動してください。<br />　カンパを広く募集しています。振込先は、「福岡銀行　春日原支店　普通　1167080　トヤマコウイチ」です。<br /><br />　２月12日に熊本、13日に福岡、26日および３月６日に東京でイベントあります。詳しくは<a href="http://www.warewaredan.com/event.html" target="_blank">こちら</a></font><br /><br />　昨日、夏の参院選に向けた「新風・福岡」の街宣（昼間）と事務所開き（夜）と交流会（深夜）があり、街宣を見学、事務所開きに参加した後いったん中洲で労働し、さらに深夜の交流会に参加。<br />　新風・福岡では、国士舘大学「皇国史観研究会」出身のＩ君という青年がこれを機会に福岡に移住し、活動に加わるとのことで、そのＩ君がまたそもそも「ファシスト」を自称しており、かつ私の視点からもその「ファシズム」理解はかなり正しく、話が大いに盛り上がって、気がついたら朝の７時近かった。<br />　こういう優秀な青年が、東京の新風ではなく、福岡の新風の活動を「面白くなってると聞いて」移住してくる。<br />　我々団にも、じわじわとだが、従前からの呼びかけに応えて移住してくる者が現れている。<br /><br />　<a href="http://ameblo.jp/toyamakoichi/entry-10449398970.html" target="_blank">先日発表した妄想</a>が現実化する日も近いな。<br />
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      <link>http://ameblo.jp/toyamakoichi/entry-10453235234.html</link>  
      <pubDate>Sun, 07 Feb 2010 21:58:05 +0900</pubDate> 
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      <title>そんなことより</title>  
      <description> <![CDATA[ <font color="#FF0000">　※検索サイト等からいきなりこのブログにアクセスした方へ。ここには「我々団」もしくは「外山恒一」に関する詳しい情報はありません。<a href="http://www.warewaredan.com/" target="_blank">公式サイト</a>へ移動してください。<br />　カンパを広く募集しています。振込先は、「福岡銀行　春日原支店　普通　1167080　トヤマコウイチ」です。</font><br /><br />　佐賀県東松浦郡玄海町在住のキチガイ・ニートなんかの問題より大事なことがある。<br />　昨日、法政大学でまたまた逮捕者が出たとのこと。しかもまたまた一気に６人。<br />　<a href="http://08bunren.blog25.fc2.com/" target="_blank">http://08bunren.blog25.fc2.com/</a><br />　上記やマスコミ報道では、うち２名の中核派の活動家の名前しか出てこないし（マスコミ報道は、ノンセクト学生であっても警察発表どおり「中核派とその同調者」とするから、「中核派活動家６名逮捕」とあってもそのままには信用できないし、してはならない）、少なくとも私が知っているノンセクトの面々は今回無事のようだが、いくら中核派の活動家だからといって、大学の前でビラをまいていた（プラス、ハンドマイクでの情宣）だけで逮捕されるようなことがあってはならない。<br />　受験生向けの情宣活動だったそうで、もしかすると世間一般には「そんな日に情宣などやるべきではない」という反応も多いのだろうが、そんなことはそれぞれのセンスの問題で、逮捕を正当化する理由にはならない。まあ、私もかつて自分が中退した高校の前で、当然受験の日に、「私はこの学校を半年でやめました」というビラを受験生たちにまいて、当局をパニックに陥れて楽しんだことがあって、その時も、警察は呼ばれたが当然逮捕などされなかった（今なら逮捕されるのかもしれない。しつこく云うように、今は戦時下であるから）。<br />　戦時下なので中核派の諸君のように正攻法で反撃したってどうせ勝ち目はなく、早くファシズムに転向しろというアドバイスしかできないが、せめてこうして情報を広めるお手伝いだけでもと思い、言及した次第。<br />
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      <link>http://ameblo.jp/toyamakoichi/entry-10451938079.html</link>  
      <pubDate>Sat, 06 Feb 2010 11:01:58 +0900</pubDate> 
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      <title>熊本シティＦＭに届いたストーカー・Ｆのメール</title>  
      <description> <![CDATA[ <font color="#FF0000">　※検索サイト等からいきなりこのブログにアクセスした方へ。ここには「我々団」もしくは「外山恒一」に関する詳しい情報はありません。<a href="http://www.warewaredan.com/" target="_blank">公式サイト</a>へ移動してください。<br />　カンパを広く募集しています。振込先は、「福岡銀行　春日原支店　普通　1167080　トヤマコウイチ」です。</font><br /><br />　まあともかくそういうわけで昨夜のラジオ出演おそびそのネット中継はポシャったが、来週の熊本イベントは予定どおりおこなわれるし、またそれを現場から「ニコニコ動画」で生中継するという話も予定どおりなので、そっちを期待してくれ。<br /><br />　ところでストーカー・Ｆが「熊本シティエフエム」に送りつけたというメールの文面（の一つ）は以下のとおり。<br /><br />　　　　　　　　　　※　　　　　　　　　　※　　　　　　　　　　※<br /><br />Date:1 Feb 2010 15:31:28 +0900<br />From:info@chikushigaoka.fku.ed.jp<br />To:info@fm791.jp<br />Subject:2月5日　熊本シティＦＭ　予定ゲストの外山恒一（前科２犯）について<br /><br />２月５日　熊本シティＦＭ　予定ゲストの外山恒一なる人物にについて、大変、重要な情報を入手しました。この外山恒一なる人物は、福岡刑務所に二年近く服役した前科二犯の犯罪者だそうです(性的犯罪を含む)。このような人物を熊本シティＦＭのような公共の電波に載せていいのでしょうか？番組出演を強く再考された方が、賢明かと存じます。外山恒一の犯罪について関連サイト:http://openwiki.netii.net/index.php<br /><br />　　（誤字などは原文のママ）<br /><br />　　　　　　　　　　※　　　　　　　　　　※　　　　　　　　　　※<br /><br />　失敬な。<br />　私は前科２犯ではなく３犯だ。<br /><br />　例によって偽造の発信元は、これはたぶん私の出身（中退）高校のものだろう。<br />　他にFAXも送られてきたそうで、その発信元（用紙の端っこに印字されるやつ）は熊本市内の実在する劇団のものとなっていたようだ（その劇団のサイトで公開されているFAX番号）。もちろん、それはFAXの機械の設定をいじればいくらでも偽装できる部分なわけで、たぶん「184」を押した上で発信したのだろう。<br />　が、表面上は偽装できても、FAXの場合は「プロクシ」とやらを通すわけにもいかないだろう。NTTにはちゃんと記録が残っているはずである。もちろん警察や裁判所でないとそれを提出させることはできないだろうが、少なくとも、警察としても海外のサーバに記録を提出させるよりは手間も時間もかからないはずだ。<br />　さてＦの運命やいかに。<br />　もっとも警察が動かなくてももう、自分で何とかしますけどね。警察が動いたとしても、それとは別個にね。<br />
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      <link>http://ameblo.jp/toyamakoichi/entry-10451913195.html</link>  
      <pubDate>Sat, 06 Feb 2010 09:51:40 +0900</pubDate> 
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      <title>【必ず読め・重要】史上最悪のネット・ストーカー Ｆ【だがすげぇ長文】</title>  
      <description> <![CDATA[ <font color="#FF0000">　※検索サイト等からいきなりこのブログにアクセスした方へ。ここには「我々団」もしくは「外山恒一」に関する詳しい情報はありません。<a href="http://www.warewaredan.com/" target="_blank">公式サイト</a>へ移動してください。<br />　カンパを広く募集しています。振込先は、「福岡銀行　春日原支店　普通　1167080　トヤマコウイチ」です。</font><br /><br />　「ストーカー」という言葉が嫌いだ。<br />　片想いのままこじれる場合であれ、いったん交際していたものが破綻して別れ話がもつれる場合であれ、恋愛にまつわる諸々は、誰もが恋愛に関しては最大級に真剣になってしまうものであるがゆえに、往々にしてこじれがちで、ややこしい深刻な事態に発展してしまうことも別に珍しくはない。<br />　珍しくないからこそ、そのテの話は「痴話」だの「痴情のもつれ」だの「犬も食わぬ」だのと侮蔑や揶揄の対象ですらあったのだ。<br />　それが「ストーカー」という言葉が定着するや、まるで常軌を逸した非道な犯罪であるかに認識され、社会悪のように扱われるようになった。<br />　そのことが特に世の男性に一種の恋愛恐怖を蔓延させ、「二次元サイコー」的な逃避の病を広げているのだから、政府は責任をとって打倒されるべきだ。<br /><br />　もっとも、「ストーカー」という言葉はもともと現在のような意味で使われてはいなかったと私は記憶している。<br />　当初「ストーカー」という言葉は、芸能人やスポーツ選手などの有名人へのファン心理が嵩じて、異常な振る舞いに及ぶ人々を指す言葉だった。人気歌手などの元に「コンサートで私の方ばかり見るのはやめてください」みたいな“ファンレター”がたびたび舞い込むとか、自宅のドアノブにいつのまにかプレゼントみたいなものがぶら下げてあるとか、あるいは実際に強引に個別で会おうと押し掛けてくるとか、「なんかよく分からないけど、怖いんですよ」といった類の話は前々からあって、そういう“異常なファン”のことを「ストーカー」と呼んでいた。極端かつ最も有名なケースとしてジョン・レノンを射殺したマーク・チャップマンの例があるし、人気作家が“異常なファン”に監禁される恐怖体験を描いたフィクション『ミザリー』（スティーヴン・キングが87年に発表し、90年に映画化され、“異常なファン”を演じた女優がアカデミー賞を受賞）もそういう本来の意味での「ストーカー」をテーマとしていた。<br />　本来の意味での「ストーカー」問題の著しい特徴は、被害者と加害者の関係が著しく非対称的であることだった。被害に遭うのは不特定多数の人間の視線に自らの姿をさらしている者で、加害者である“異常なファン”は当然、被害者のことをよく知っているわけだが、被害者は加害者のことをまったく知らない（自分を見つめる“不特定多数”の中の一人にすぎない）。したがって「ストーカー」という言葉にはもともと、マス・コミュニケーション社会の病理、というニュアンスがあり、逆に現代社会に特有の現象であるからこそ、そのような「新しい言葉」が必要とされたのだとも云える。<br />　つまりもともと「ストーカー」というのは、「有名税」などと同じく、無名の一般庶民の生活とは縁遠い言葉だったのである。<br /><br />　「不特定多数の人間の視線に自らの姿をさらしている者」は何も芸能人やスポーツ選手だけに限らない。『ミザリー』で描かれるように、作家もそうだし、政治家もそうだろう。また、その者が本当に「有名」であるかどうかというのも本質的には関係ない。「不特定多数の人間の視線に自らの姿をさらし」た結果、注目を浴びる者もいれば黙殺される者もいる。本質的なことは、そのことで有名になるかどうかにかかわらず、「不特定多数の人間の視線に自らの姿をさらし」た結果として、その「不特定多数」であったはずの中から「特定の個人」が一方的に立ち現れてきて、自らに対する理不尽な行動を継続的に展開しはじめるということである。<br />　だからおそらく一般的にはあまり知られていないネット・アイドルやローカル・タレント、あるいはまったくアマチュアのミュージシャンや劇団員などにもストーカーがつく（まさしく“憑く”感じである）ことはいくらでもあろうし、そういう者を「ストーカー」と呼ぶのは言葉の用法として正しい。<br /><br />　政治活動家にも、ストーカーはつく。<br />　政治活動家も「不特定多数の人間」に向けて自らの主張を発し、その姿を公にさらしている。とくに左右両極の政治運動は、そもそもあまり「フツーじゃない」者に偏ってそのメッセージが伝わっていきやすい。そういうものが下火になった80年代半ば以降はとくにそうだろう。新著『ポスト学生運動史』の中でも、中川文人氏が、“敵の首領”松尾眞氏の「おれが全学連委員長をやっていた時は、全国から問題意識のある奴が結集してきた。が、最近は問題のある奴しか寄ってこない」という述懐を紹介している。当然、ストーカー体質の人間もたくさん引き寄せてしまう。鈴木邦男氏の文章でもそんな例はたくさん紹介されていたし、「政治活動家」とはちょっと違うかもしれないが浅羽通明氏も時々そういう話を書いている。<br />　当然、私にもよくストーカーがつく。これを読んでいる大半の諸君は07年の都知事選で初めて私を知ったのだろうと思うが、私はそれまでにも何度か（18歳の時から！）プチ・ブレイクしているので、一般の政治活動家よりもずっと多くそういう体験を重ねている。<br />　多いのは、最初やたらと熱狂して近づいてきて、何かのきっかけで（たいていそいつが勝手に思い描いていた私のイメージとズレるような振る舞いを私がした時だ）突然、「裏切られた!!」と感じ、だったらただ離れていけばいいものを、今度は執拗に私に対するさまざまの攻撃を仕掛け始めるタイプだ。あるいは、これも最近やたら多いし今も１人いるのだが、交流会やらイベントやらで、誰でも私と直接に話をする機会はいくらでも設けており、しかもその情報も公開しているというのに、自分だけは特別扱いされるべきだと思っているのか、個別の面談をしつこく要求してくるタイプ。<br />　もちろんたいていの場合は、長くても半年、多くは３ヶ月ぐらいで収まるから、私も「また来たよ」とうんざりしつつテキトーにあしらってやり過ごすのだが、稀にとんでもないのがいる。<br />　中でもとくにとんでもないのが、これから詳細に説明する「Ｆ」のケースである。なにしろこいつは、もうかれこれ10年以上、私に対する執拗なストーカー行為を繰り返しているのだ。被害も甚大で、さすがにこれ以上放置することは、時に「ホトケ」と呼ばれることさえある私にもできない相談だ。ホトケの顔も３万回までである。<br />　反撃を開始する。<br /><br />　　　　　　　　　　※　　　　　　　　　　※　　　　　　　　　　※<br /><br />　というわけでここからが本題である。<br /><br />　Ｆは1976年１月生まれで、だから現在34歳である。<br />　私がＦと初めて会ったのは、おそらく97年末のことで、Ｆは23歳だったことになる。<br />　当時、私は「だめ連・福岡」というグループを主宰しており、その影響圏を広げるべく、過激なものからヌルいものまで、地元のあらゆる大なり小なり“社会派”チックな集まりには顔を出すようにしており、その中のひとつ、「メンズリブ福岡」という要するに男性フェミニスト・グループの会合にＦが来ていたのである。もっともＦは同グループの常連ではなく、よく同じ公共施設の別の部屋を借りて会合をおこなっていた引きこもりの自助グループのメンバーで、「メンズリブ福岡」の会合にはその日たまたま紛れ込んできていただけらしい。<br />　ともかくそれをきっかけに、Ｆは「だめ連福岡」の本拠である私の自宅アパートへもちょくちょく顔を見せるようになり、ちょっと精神的に不安定な印象はあったものの、それほどヒドい壊れ方をしているようには見えず、むしろギャグ・センスの冴えた（地元のラジオへの云わゆる「ハガキ職人」であったようだ）、なかなかの逸材であるかに感じていた。<br />　もっとも本人が云うには、姉が重度の精神病をわずらっており、幼少時から地獄の家庭環境で、とくに高校時代にその姉に包丁で刺されるという経験をして以降はＦ自身も少しおかしくなり、佐賀県玄海町の実家を出て九州大学に進んだものの、すぐに引きこもり状態になって通えなくなり、現在（当時）は九大をやめて放送大学の学生であるとのことだった。あくまで本人の弁であり、真偽のほどは不明だ。<br />　で、99年３月の例の事件である。<br />　私が当時交際していた、「だめ連・福岡」の主要メンバーの１人でもあった女性を……これまで私は「別れ話がもつれて」みたいな説明をしていたような気がするが、よく考えたらこの時点ではまだ違うんだよな。彼女との交際はその時点で２年近く続いていたのだが、ある時、避妊に失敗して彼女が妊娠し、結局堕胎することになって実際に堕胎して、それから２ヶ月ぐらい経過していたという時期だ。その経緯に関して、本当に正確な経緯はよく知らないくせに東京の矢部史郎と山の手緑が「女性サベツだー」とか云って介入してきてますます話がややこしくなって、彼女とはほぼ毎日会っている（私が一方的に彼女のアパートを訪ねるのではなく、互いに行き来している）ものの関係はギクシャクしており、という状況の中で、私が彼女のちょっとした一言にキレて殴ってしまったのである（判決文では「拳や手刀で自らが殴り疲れるまで……」みたいな凶悪な感じになっているのだが、もちろんそれは私の裁判パフォーマンスにキレた裁判官どもの悪意を反映しているにすぎず、実際はつまり「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿」的な要は「ドラえもん殴り」である）。その後もしばらくお互いに別れるに別れられない状態が続き、当然「殴った」ということになればますます矢部・山の手の「糾弾」には拍車がかかり、事態はこじれていく一方だった。実際、後から思えばごくごく一面では矢部・山の手の主張にも百億分の一理ぐらいはあり、つまり私たちは確かに互いにマズい感じの依存関係には陥っていたのである。で、お互い「もう別れるしかないのかな」と思い始めてはおり、ただやはりうまく行かないもので、私がそう強く思う時期と彼女がそう強く思う時期が重ならず、結局どっちかが相手を引き止めて元のグジャグジャに引き戻されるようなことの繰り返しになる。<br />　こういう時はもう、どちらかに何かのきっかけで新しい交際相手もしくはその候補が事実として登場して、片方の気持ちが完全に相手から離れ、相手の引き止めについホダされてしまわなくならないと、終わらない。で、現実には彼女の方にそういう「新しい相手」が先にでき、つまりそれがＦなのであった。彼女の側はそのことをずっと隠していたので、彼女の態度がそれまでと変わってきたことは感じていたが、鈍感な私は、それが単に彼女に「新しい男ができたから」であるとは思わず、したがってＦのことは完全に視野の外だった。<br />　結局、私が彼女のことを思い切り、復縁を迫ることをやめたのは７月の終わりで、それまでの間は確かに私もかなりマズいことになって、彼女の新しいアパートの窓ガラスを投石して割るとか、言葉の間違った用法としての「ストーカー」行為めいたこともやったのだが、彼女の側にもさまざまのヒドい言動はあり、それらについては今でも「お互い様」だと思っている。正当化するわけではないが、つまり「みっともない」マネをたくさんやってしまったという反省や後悔はあるものの、それも「お互い様」で、よくある「別れ話のもつれ」でしかないと今でも思っている。<br />　ともかく、いろいろあったけれどももう全部おしまい、と私の側が完全にその泥沼から撤退したのが７月末のことで、彼女の側の気持ちもとっくに完全に私から離れているわけだし、本来なら話はこれで終了である。<br />　が、ほんとにややこしいことになるのは実はここからなのである。想像を絶する真の泥沼はここから始まる。<br /><br />　Ｆから、私のところに頻繁に電話がかかり始めたのである。<br />　最初は、前述のガラスを割った件などについて、「ふざけるな！」とか何とか、一方的に怒鳴り散らすというのが６件ぐらい留守電に残っていた。彼女がＦと交際していることは、６月半ばの時点で私の知るところとなってはいたが、私の特殊な恋愛観というか、「私と彼女の関係は私と彼女との関係。彼女とＦとの関係は彼女とＦとの関係。両者は互いにカンケーない」と思っていたので、それ以後の７月末までの間にも、私はＦとまったく接触がなかった。<br />　が、もともとＦを知らないわけではないし、残っていた留守電の様子があまりにも異常だった（まさに発狂してわめき散らしていた）ので、こちらからＦに電話をかけ直して、もう私としては終わっているからあとは勝手にそっちはそっちでやってくれと伝えて安心させようとしたのだが、Ｆは電話に出るなり「このキチガイ！」とか叫んで切る。<br />　それから私はもう毎日24時間、ひっきりなしにかかってくる無言電話に悩まされ、さらにＦは当時の私の実家や妹の家にまで電話して、それを受けた母や妹によれば「わけのわからないこと」をわめき散らし、それはこの後、１年以上にわたって続くのである。<br />　そのうちやむだろうと思って放っておいたら、やがておかしな話が頻繁に耳に入ってくるようになった。<br />　私と彼女が直接に会うことがなくなった99年７月以降も、「だめ連・福岡」のメンバーの中には、双方と関係が続いている者が何人かいて、彼らによれば、私がＦに対して執拗な「ストーカー」行為を続けている（と彼女が云っている）というのだ。<br />　事実は逆なのである。<br />　後になって判明した話も含めて書いていけば、まずそのＦによるとしか考えられない頻繁な無言電話は相変わらず続いていた。<br />　12月には、「若い女性を次々とアパートに連れ込んではクスリ漬けにしている」という通報が入ったと云って、半信半疑ながら（地元の警察は「政治犯罪」を起こしかねないタイプとして私をそもそも認知していたであろうし）事情を聴きにきたことがあった。これもどうやら、私がまだ彼女に復縁を迫り続けていた時期に、彼女にも実は少し精神的におかしな面があるのだが、彼女が興奮して話にならないと思った時に一度、とにかくこれを飲んで落ち着いてくれないかと私自身が処方されていた精神安定剤を勧めたことがあって、それをすでにその時点では私に不信感を抱いていた彼女が「何か変なものを飲まされる」とカン違いして拒否したという１件があり、そのことを針小棒大に（というよりまったく別の話の捏造だが）Ｆが警察にタレこんだようなのである。<br />　さらにやはり12月末、というかクリスマスだったが、クリスチャンでもあるらしいＦから、「悔い改めよ」みたいな文面の電波な手紙が私のところへ届きもした。<br />　当時あった「だめ連・福岡」の掲示板や、私と直接関係のあるところもないところも含めたさまざまの“運動”系のサイトの掲示板などに、発信元不明の（よく知らないが「プロクシ」だとかを経由しているという）頻繁な「荒らし」の書き込みがあり、後述するようにそれは現在に至るまで続いていて、またその内容、手口、その他の特徴からこれもＦの仕業であると私は確信している。<br />　また幾人かの友人知人から聞かされたとおり、Ｆは私による「ストーカー被害」をデッチ上げて、彼女や、その周囲に吹聴して回っていたのである。多くは、外出先で私に尾行された、といった作り話で、他にも自転車のカゴにビラを入れられていたとか、私がＦに「殺してやる」と脅迫電話をかけたとか、駅ビルのトイレに入ったら後から私が入ってきて殴られたとか。念の入った小細工も弄していて、おそらく半同棲という状態になっていたのだろう彼女のアパートに自らチューインガムか何かでイタズラをして、「外山がやった（に違いない）」と主張したという事実も後に判明した。<br />　一番重要なのは、彼女がそのＦの作り話や工作をすべてそのまま信じ込んでしまった点である。<br />　そして彼女は、「ストーカー被害」について、まず警察に駆け込む。つまり後で「傷害罪」として立件された99年３月の事件について警察に相談したのではないのである。「ストーカー」は完全な冤罪であるわけで、どうやら警察は一定捜査したらしいが、当然「証拠」などあるはずもなく、しかし私にとっては云わゆる「悪魔の証明」つまり「やっていないことの証明」も不可能で、もし本当に私がやっているとしてそれが後々さらなる重大事件に発展でもすれば警察としては大失態になってしまうという危惧が警察にはあり、そこで警察の方から、彼女にいろいろ経緯を聞いた上で、「では確実に外山のやった行為である99年３月の殴打事件について被害届を出してください」となったのである。つまり本件は冤罪の「ストーカー」事件で、（冤罪なんだから当然）証拠不十分でそれは立件できないから、「被害者」も当初は問題にしていなかった過去の「傷害」事件を警察が蒸し返したのである。私がこの事件について時々「ほぼ無実の罪で」と云うのにはそういう意味合いがある。<br />　で、殴打事件からちょうど１年ほど経った2000年３月に彼女は警察の指示に従い「傷害」について被害届を提出し、同日、Ｆも「ストーカー被害」について被害届を提出した（当然、Ｆのこの行為は刑法の「虚偽告訴」にあたるため、私はそのことを知った後に警察にこれを立件するよう求めたが、警察は被害届は結局受理していないとシラを切った）。<br />　５月23日、私は「傷害」事件について福岡中央署に任意出頭を求められ、応じた（すなわちこの瞬間まで、事態がここまで深刻なものになっているとは気づかなかったし、本当に全貌が分かったのはさらに後、実際に裁判になってからだ）。ちなみにこの日は稀代の悪法「ストーカー規制法」の公布前日であり、このあたりにも警察の、仮に後でさらに重大な事態に発展してしまった時の、「ストーカーの件を立件しなかったのはまだ法律がなかったからですよ」という予防線の工夫めいたものを感じる。<br />　ともかくその取り調べである。殴打事件について、型通りの訊問があり、私も当時は国家権力に対する認識が甘かったために黙秘はせず、事実経過を淡々と話して調書をとられたのであるが、それが終わるや、「ところで」という感じで刑事が私の目の前に１枚の紙切れを置いた。で、「これはおまえの仕業だろう」と。<br />　どこかのサイトからプリントアウトしたものらしい。それを見せられた時に感じたおぞましさを言葉で表現することは難しい。<br />　実は、当時とは部分的には違うようだが、ほぼ同じものが今でもネット上に（たくさん）ある。これにリンクを張るのはできれば避けたいのだが、仕方がない。その時の衝撃を少しでも理解してもらうには、実物を見てもらうしかない。<br />　<a href="http://plus-1.freehostia.com/readres-soc.cgi?bo=soc&vi=0001" target="_blank">http://plus-1.freehostia.com/readres-soc.cgi?bo=soc&vi=0001</a><br />　繰り返すように、こっちが本件だったのである。こんな濡れ衣を着せられたんじゃたまらない。私は断乎として否認した。刑事がそれをどう思ったか知らない。たぶん、「99％、シロ」とは思ったんじゃないかと思う。だが先述のとおり、「やってないことの証明」は不可能な「悪魔の証明」であり、万が一という時の警察の体面を考えれば、「やれることはやったんです」としておかなければならない。だから別件の「傷害」を立件する正式な手続きに入ったのだろう。まさか私が裁判官を徹底的にコケにするパフォーマンス戦術を採用して実刑判決を受けることになるとは刑事も予想していなかったはずだ。普通は百パーセント「執行猶予つき有罪判決」となるケースだし、そもそも逮捕もせず在宅扱いの立件だから、前科にはなるが、結局一度も拘束されずに形の上だけの不利益が私に生じるにすぎない。とにかくそういうことで丸く収まってくれれば、というのが警察の正直な立場だったろうと思う。<br />　でまあ、裁判になる。彼女は全国的に有名なフェミニスト弁護士事務所の弁護士をつけて、民事でも私を告訴してきた。むろんこの弁護士に正式な立件を強く迫られた結果として、そもそも警察は当初は重かったらしい腰を上げたのだという印象を私は持ったし、たぶん実際そうである。<br />　両方の裁判で、彼女の側の供述調書や陳述書、Ｆの供述調書などさまざまの「証拠」が出てきて、私はようやく本当に、ここに書いたような事件の「全貌」を知ることができたのである。<br />　おそらく彼女の側も、裁判にしてみて初めて、一連の行為が私ではなくＦの仕業であることに思い至ったと思われるが、もちろんそのことについて何の謝罪もなければ、その部分に限っての主張の撤回すらない。「人権派」であるはずのフェミニスト弁護士も同様だ。それどころかフェミ弁護士は、その裁判について詳細にレポートする私のサイトに、自らへの誹謗中傷があるとしてさらに「名誉毀損」の罪で私を刑事告訴し、私はすでにもう福岡地裁そのものをを敵に回していたし、「被害者」は単に全国的に有名な弁護士であるばかりか地元法曹界の重鎮（県弁護士会副会長）でもあるしということで、「名誉毀損」事件には珍しいほとんど求刑どおりの実刑判決を云い渡されて、私は「傷害」と「名誉毀損」で丸々２年間も不当な拘束を受けることになった。<br /><br />　読者の中には、なかなか信じられないという向きも多かろう。<br />　私と彼女との関係がすでに破綻局面に入っていた時期のこととはいえ、交際相手を「寝取られた」のは私であり、Ｆは「勝者」のはずである。私がＦを恨んでさまざまのイヤがらせをやる、という展開ならありそうな話だが、その逆はどうにも考えにくい、と。おそらく刑事もそう考えて、私への疑念を百パーセントはぬぐい切れなかったのではないかと思う。<br />　真性のキチガイが何を考えているのか私にも分からないが、「こういうことかな」という推測はある。<br />　つまり、彼女とＦの交際が始まったのは、おそらく私も彼女もどちらもお互いへの未練を断ち切れず、片方が「別れよう」と決意を告げると他方が引き止める、というのを繰り返していた時期のことである。引き止められる側に回った時には相手が今で云う間違った用法としての「ストーカー」にも感じられ、彼女が引き止められる立場に回った時には私を避けて友人・知人のアパートを転々とする局面もあり、その「避難先」の一つとしてＦの存在があり、それがやがて交際へ、という流れだったらしい。<br />　そういう「くっつき方」となると、Ｆの不安は、私が彼女をしつこく追いかけなくなってしまえば、自分は「用無し」になってしまう、というものだったのではないか。実際、そのとおりだったろうと私も思う。そこでＦが選んだのは、彼女に対する「ストーカー」行為は終わったが、今度は自分が標的になっている、つまり外山との闘いはまだ終わっていないと彼女に思い込ませることだった。時には前述のチューインガムの例のように、彼女自身もまた引き続き標的となっているという偽装工作もおこなった。<br />　にしてもさきほどリンクを張ったあのおぞましい文書は、いくらなんでもと思われるだろう。私でさえそう思う。現在進行形で付き合っている相手を、いくら「敵」を捏造して相手の気持ちを自分に引き止めるためとはいえ、あんなふうに書くか、と私でさえ思うのである。しかし、私がやっていない以上、犯人はＦ以外にありえないのである。むしろ例えば私だけが標的となっている中傷記事であれば、たまたま時期が一致しただけで、冒頭の方で述べたとおり私には時折ストーカーがつくから、私はそれについて、Ｆである可能性は高いがそうでない可能性も捨てきれないと考えただろう。しかしよく読まずとも（あんなものを平気で熟読できるような根性は不要である）、一目瞭然、あの文書には私に対してのみならず、彼女に対する強い執着がヒシヒシと感じられる。<br />　裁判で提出されたさまざまの「証拠」類を突き合わせると、件の文書がネット上に出回り始めたのは2000年４月中旬ごろであるらしい。それを「発見」して彼女に伝えたのは、Ｆではなく別の、私と彼女の共通の知人であるらしい。時系列を思い出してもらうと、すでにこの時点で彼女とＦは警察に相談に行き、「被害届」も提出済みである。が、私はまだ出頭の要請も受けておらず、おそらくこのかんにも彼女らは警察に何度も「どうなっているか」と問い合わせただろうが、表面的には何の動きもなく、警察も「捜査中である」としか答えなかっただろう。Ｆは焦ったのではなかろうか。さらに事態がエスカレートしなければ、警察は結局動かず、曖昧に決着してしまうのではないかと。そして裁判で出てきた彼女のメモによれば、まさにアレがネット上に出回り始めたとされる時期、「４月10日」から「５月12日」にかけて、Ｆは「大学の実習のため」福岡を離れ、つまり彼女のもとを離れて単身東京に滞在しているのである。<br />　当然、やがて彼女とＦは別れている。<br />　それがいつ頃のことなのかは私はよく知らないが、2001年２月にいよいよ裁判が始まった時点では、すでに別れていると共通の知人に聞いたような気がする。たしか刑事裁判の第一審が続いている最中のことだったと思うから、少なくとも2001年夏ぐらいまでのどこかの時点で、私の目の前で、最初に私を取り調べた刑事が、Ｆに電話をかけたことがある。自らにかけられた濡れ衣を晴らす一環として、ネット上に（その時点でもまだ。今でも増え続けているのだから当然か）出回っている例の悪質な文書についてちゃんと捜査しろ、しかも真犯人はＦ以外にありえないんだからＦを事情聴取せよと強く要求した結果である。その時、すでに彼女とは別れているらしいから、連絡先は変わっていると思うが、佐賀県玄海町の○○という店が実家らしいから、とりあえずそこに問い合わせてＦの居所をまず掴んでほしい、と私はそのＦの実家の店の電話番号を調べて持参していた。刑事も実際、やはりＦが真犯人であるとの心証を得たのだろう、私を誤って犯罪者に仕立て上げてしまったという負い目もあってか、私の目の前でその番号にかけてくれたのだ。すると、なんとＦ本人が出たようだ。刑事はかなり執拗にＦを追及したが（それを私の目の前でやってくれた）、Ｆは最後までシラを切り通したという。ともかく、その時点でＦはたしかにすでにとうに彼女とは別れ、佐賀の実家で今で云うニートをやっているらしいことが分かった。おそらく、34歳になる現在もそうである。<br /><br />　その後、2002年５月から04年５月まで、私は殺されていた（獄中にいた）わけだが、その間にも、件の文書はネット上に増殖し続け、またそこにリンクを張ったさまざまの掲示板への「荒らし」的な書き込みも続いていたようである。そのため少なくともこの件に関しては、私の無実は証明された形ではあるが、ちなみに福岡地裁民事法廷のバカ判事どもはこれらの書き込みやＦへの「ストーカー」行為について、私がやったという証拠がないことを認めつつ、「しかし原告（彼女）がそれを被告（私）の仕業だと確信した『遠因』は被告にある」だのという類のレトリックで、基本的には私の云いぶんをほとんど全て退けていたことも付け加えておこう。<br /><br />　で、さらにその後である。<br />　もしかしたらこれを読んでくれている読者の中も直接に経験した者がけっこういるのではないか。<br />　ブログなどで、一言「外山恒一」と記述すると、数日を経ずして悪質な書き込みがあり、たいていそれは件の文書やそれに類したサイトへのリンクが張ってある、という体験を。<br />　一時期まで、というか要は都知事選以前、「外山恒一」で検索をかけると、Ｆが作成したいくつかのおぞましいサイトが上位（少なくとも10位以内）にヒットして、それは私にとってかなり苦痛であった。初めて会った人が、その後、私の名前で検索して件のページを発見して、「あれは何ですか」と問いつめてきたことも何度かあるし、問いつめられれば釈明できるからまだよい方で、おそらくそのまま「外山ってこんなこと書くような奴だったんだ」と誤解したっきりの人間もいるだろう。まあアレを見て「これは外山が書いたのだろう」と思い込むようなアンポンタンとなど付き合わなくていいという気もするが、とにかくそういう実害はあったのだ。<br />　実害と云えば、これは投獄以前の、つまりまさにそうしたネット上での悪質な書き込みの数々が私の仕業であるかに彼女を「支援」するクソ左翼ども（従軍慰安婦裁判とかやってた連中ね）やクソフェミ弁護士どもがわめき散らしていた時期からのことなのだが、私と何らかの友好的、少なくとも非敵対的な関係にあると思われる人物について、要は例によってアレにリンクを張った上で、「こんな男と仲良くしているコイツも同罪だ」的なもちろん実名入りの「告発」がやはりあちこちに書き込まれて（その多くは今でも残っているはずだ）、これだけとっても私が犯人でないことは分かりそうなものなのだが、例えばその時に標的にされた１人である鹿児島市議の野口英一郎氏はどうもこの一件もあって（もちろん私を疑ってではなく、私と関わっているとメンドくさいことに巻き込まれると思って）、Ｆの思惑どおり私と距離をとり始めた印象がある。ま、だとしたら離れていってもらって結構、というやはりＦの所業は私にとってリトマス的なプラスの役目を果たしてくれているような気もするが、一般的にはこれは深刻な実害だろう。<br />　先述の、「外山恒一」と書くとほぼ必ず現れる「荒らし」書き込みについてだが、この１、２年、それはほとんどの場合、「ウェルダン穂積」の名前でおこなわれているはずだ。同名の芸人は実在しており、どころかウェルダン氏は都知事選以後、私のイベントに頻繁に来てくれたり、自らのブログで私に言及してくれたりしているまあ一種の「ファン」でもある。本人にも確かめたし、そもそも確かめるまでもないことだが、もちろんそれらはすべてウェルダン氏本人によるものではなく、Ｆがウェルダン氏の名前をカタって書き込んでいるのである。というのも、この手口も2000年頃からのものなのだ。私の周囲に存在がチラつくその時々の、まあウェルダン氏には悪いがぶっちゃけて云うとちょっと……いやぶっちゃけずにボカすとまあ要は「独特のキャラ」が感じられるタイプの人物をカタるのがＦの一貫した手口の一つなのだ。その選択が常に絶妙というか（例えば他にはこれも知ってる人は知ってる「葦原骸吉」君とか）、この点だけは私も心底感心してしまうぐらいもうとにかく絶妙なのだ。<br />　それはさておきＦは、最近ではウェルダン氏の名をカタって、そういう悪質なコメント欄「荒らし」を繰り返している。おそらく一日中パソコンに向かって、頻繁に「外山恒一」で検索しては、引っかかってきたブログのコメント欄を荒らし、また件のおぞましい文書をあちこちの掲示板の類に書き込み、ということをそれこそ「ライフワーク」のように続けているのだろう。<br />　Ｆの悪業は他にいくらでも挙げられて、例えばウィキペディアに初期、掲載されていた「外山恒一」の記事はＦが執筆したものである。ここにもちょっと感心するのだが、いかにもファン的な人物が書いたかに装った、一見好意的であるように読めてしかしその実かなり悪意がちりばめてあるような、やはり絶妙な書きっぷりなのである。どうしてそれをＦの仕業と断定できるかというと、私の活動経歴上、もはや覚えている人もほとんどいないようなどーでもいい些細なある出来事について、何か重大な出来事であるかに言及されていたのである。それは、1989年に私が地元のある若者向け人気ラジオ番組に小ネタを投稿して、それが読まれた（というかカセットテープの投稿なのでそれが流された）という、徹頭徹尾まったくどーでもいい「事件」である。実は先にも少しだけ触れたとおり、Ｆはもともとラジオへの投稿マニア、いわゆる「ハガキ職人」で、中でもＦの最大のお気に入り番組がその言及されている番組なのである。<br />　都知事線の直前でもそのＦの書いた悪意ある巧妙な記事が掲載されていたので、都知事選の告示と同時にそれを読む人が急速に増えるだろうから、こんなものを放置されていたんじゃたまらないと思って、私が急遽、自分で全面的に書き改めたという経緯がある。<br />　もっと悪質なものもある。某極右組織に実在する数人の活動家から、私宛に頻繁にメールが届いた時期があった。「連帯しましょう」的なものもあったし、「ウチの組織は根本的に腐っています」みたいな“内部告発”もあった。当初、私はメールの送信元を偽造できることを知らなかったし、それら発信元になっている人々は、少なくとも実際に存在する活動家であることは知っている範囲の名前だったので、あやうく信用しそうになった。信用して、私がそれにマジ対応し、混乱させるのがＦの狙いだったろう。しかしどうにも怪しい文面が多かったので、こういう文面のメールが届いたが、事実あなたが送信したものかと問い合わせて、偽メールだと判明した。発信元になっているアドレスは、彼らの活動上の必要から、すべてネット上で公開されているものだった。<br />　当然、私のメールアドレスも公開してあるので、私をカタった偽メールもたくさん発信されているのだろうが、それらについては問い合わせがないから分からない。ただ一点、気づいたのは、私自身の使っているメール・ソフトで「迷惑メール」に分類されている中に、ある時期（昨年の夏ぐらいだったか）、私のアドレスが発信元となっているスパム・メールが大量に入っていることに気づいた。<br />　すべてがＦによるものだという証拠はなく、とくに偽メール問題についてはもはや私が「この種のものはすべてＦの仕業である」と決めつけることにしている側面もあるのだが、少なくとも例のおぞましい文書や、そこにリンクしてある場合が多い最近ではたいてい「ウェルダン穂積」名義で書き込まれるコメント欄荒らしについては、手口が私が都知事線で一定有名になる以前からずっと一貫しているものであり、Ｆの仕業であるという判断には確信がある。ちなみに技術のある人はやってみると分かるが、それらの「コメント」のＩＰアドレスを特定しようとすると、必ず「プロクシ」なるものを経由しており、海外の大学のサーバなどにたどり着いてその先は特定できなくなるとのことだ。そしてこの手口も、都知事選以前、つまりネット上の一連の悪業の最初から一貫している。<br /><br />　で、先にも少し触れたように、さすがに反権力を看板に掲げる私といえども、この件に関してだけは過去に何度も警察に相談しているのだ。先述のとおり、刑事が一度だけＦをちょっと「脅かした」以外は、まったく相手にしてもらえない。<br />　理由はもう簡単で、私が前科者だからである。そもそも前科者になったのだって、元を辿ればＦの陰謀が原因なのだが、しかもややこしいことに、その前科と一連の現象は完全につながった出来事で、そして警察は一度は私を真犯人と疑ったのであって、その失態と私が前科持ちになった経緯とは密接な関連があり、仮にＦがどうやら確かに怪しいということまでは内心思ってくれたにしても、いざ立件するとなるとかつてまさにその件で私に濡れ衣を着せ、その結果として私は投獄されているという、そういう警察としてはあんまり蒸し返したくない話が全部関連して蒸し返されてしまう結果になるのである。おそらくそれもあって、警察はまったく相手にしてくれない。<br />　では民事で、と思っても、ここに書いてきたようにＦはかぎりなくクロなのだがしょせんはかぎりなく心証に近いせいぜい状況証拠なのであって、だからこそ捜査権限のある警察が動いて、Ｆのパソコンでも押収してくれないことにはどうにもしがたいのである。<br />　といって実力行使をするには相手が小物すぎて、大義のない「私怨」みたいになってしまう。私もこんなくだらない男を相手にまた刑務所入りを覚悟する気にはなれない。<br />　普通は（？）ヤクザにでも報復を依頼するしかないようなケースなのだが、仮にそうしてちょっとボコボコにしてもらった程度では気がすまないぐらいの怒りが積もり積もっている。<br /><br />　今回、今さらのようにこんな話を長々と書いたのは、また実害があったからだ。<br />　数日前、２月５日に熊本のＦＭラジオに出演予定、という告知をした。<br />　その番組のパーソナリティを務めている人物のブログにも、同様の告知があった。<br />　すると案の定、そのパーソナリティ氏のブログのコメント欄に、例によって例の文書へのリンクを張った「ウェルダン穂積」の書き込みがあり、またそのＦＭ局にも、おそらくメールでだろう、「こんな奴をラジオに出すな」という意見が大量に（発信元は偽装できるわけだ）届き、「こんな奴」というのはつまりおそらく「リンク先を見れば分かるように」ということであり、パーソナリティ氏もプロデューサー氏も私が出演することには何の問題もないと判断していたにも関わらず、「上層部」から「件の文書を見た」という理由でストップがかかったのである。<br /><br />　こんなことを書くとますますＦを増長させそうだ。<br />　それもあって、今回書いたように過去にもさまざまの実害を被ってもそのことに言及せずにきたし、「警察に相談しているのだが相手にしてもらえない」という事実も伏せてきた。<br />　だがもう許さない。<br />　Ｆは今後、徹底的に追い込む。<br />　もちろんそう書くからにはその具体的な方法についてすでにおおまかなプラン（ただし準備に１年ぐらいかかるかも）があるのだが、それはそれで実行に移していくとして、読者諸君からも何か知恵があれば借りたいと思う。<br />　どーすればいいですかね、私。<br /><br /><br />　追記．一連の経緯を読んで、このケースはたしかに「ストーカー」問題だろうが、私の云うような本来の意味の「ストーカー」ではなくて、私が非難する今ふうの定義での「ストーカー」、つまり態様は特異であるにしても、結局ありふれた恋愛がらみのそれではないかと思う読者も多かろう。しかしＦは、私がそもそもの発端の時点でも現在でも不特定多数に向けて自らをさらしていくしかない立場にあり、自らはまったくそんな必要のない（匿名性を保てる）単なるダメ・ニートであるという非対称性を最大限に活用して私への攻撃を続けているのであり、やはりこういうのを本来「ストーカー」と呼ぶのだと私は思う。<br />
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      <link>http://ameblo.jp/toyamakoichi/entry-10451040368.html</link>  
      <pubDate>Fri, 05 Feb 2010 23:05:48 +0900</pubDate> 
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      <title>ラジオ出演中止の裏事情</title>  
      <description> <![CDATA[ <font color="#FF0000">　※検索サイト等からいきなりこのブログにアクセスした方へ。ここには「我々団」もしくは「外山恒一」に関する詳しい情報はありません。<a href="http://www.warewaredan.com/" target="_blank">公式サイト</a>へ移動してください。<br />　カンパを広く募集しています。振込先は、「福岡銀行　春日原支店　普通　1167080　トヤマコウイチ」です。</font><br /><br />　すでに報告したように、本日予定されていた20:00からの「熊本シティエフエム」出演およびその「ニコニコ動画」生中継は、同エフエム局「上層部」の圧力で急遽中止となった。<br />　ややこしい話なので、まず概略を説明する。<br /><br />　思想的・政治的に極端に偏向してる人間を出演させるな!!<br /><br />　という話なら（腹は立つが）まだ理解できるじゃないか。しょせん“マスゴミ”なんてそんなもん、とこっちももともと思ってるところもあるし、「またかよ、ふんっ」で済む話だ。<br />　私も局側の説明を聞くまで、どうせそういう話だろうと思っていた。<br />　ところが全然違うのである。<br /><br />　もしかしたらこれを読んでくれている諸君の中にも、実際に経験した人があるかもしれない。<br />　ブログなどで一言「外山恒一」に言及すると、数日を経ずして、たいていは「ウェルダン穂積」という名前で、いわゆる「荒らし」のコメントが書き込まれるという経験を。<br />　早とちりしないでもらいたいのだが、確かに「ウェルダン穂積」という芸人さんは実在し、というか私のイベントなんかにもよく来てくれている私のかなり熱心なファンなのだが、それら「荒らし」の書き込みをおこなっているのは、もちろんその「ウェルダン穂積」本人ではない。<br />　いわゆる「カタリ」というやつである。<br />　で、それらの書き込みではたいてい、あるサイトにリンクが張ってあって、その内容がまた強烈なのだ。<br />　もちろん私だってこんなものにリンクなど張りたくないのだが、今回は事情が事情だから、あえて張ることにする。この「おぞましさ」は、実際に自分の目で見てもらわなくては、言葉では説明しようがない。<br />　ただしもうほとんど反射的に目をそむけたくなるようなシロモノなので（死体とかそういうのではないので、その意味ではご安心を）、熟読する必要はない。リンク先が開いたら、読まずにとにかく画面全体をダーッとスクロールしてくれればそれでいい。<br />　<a href="http://plus-1.freehostia.com/readres-soc.cgi?bo=soc&vi=0001" target="_blank">http://plus-1.freehostia.com/readres-soc.cgi?bo=soc&vi=0001</a><br />　ネット上には、これとほぼ同じ内容のページがかなりの数あって、偽「ウェルダン穂積」の書き込みでは、たいていそれらのうちのどれかにリンクが張ってある。<br />　もちろん、それらの醜悪なページはすべて、偽「ウェルダン穂積」自身が作成したものである。<br /><br />　今回、このブログで今日のラジオ出演のことを告知したところ、偽「ウェルダン穂積」はまず、その番組のパーソナリティのブログに現れた。「来週の放送に外山恒一さん出演」という情報を掲載したため、検索にかかったのだろう。<br />　もちろんパーソナリティ氏はそれを事務的に削除して、終わらせた。それで私に出演してもらうのはよそうとは考えなかった。当たり前である。こんなキチガイは黙って放置しておくのが「大人の判断」というものである。<br />　ところが、偽「ウェルダン穂積」は、ラジオ局自体にも「外山を出演させるな」というメールを大量に送り、またFAXも大量に送りつけた。もちろん、上記リンク先の内容込みのメールやFAXである。<br />　そしてそれを見た局「上層部」の人間が顔色を変えて、出演を中止させる命令を出したというのだ。<br /><br />　ふざけんな、である。<br />　こっちはこの件に関しては被害者なのである。「被害者」を気取るのはあまり好きではないが、今はそれは脇に措いておこう。<br />　こんなことが出演拒否の理由になるか。<br />　まだ「過激派を出演させるわけにはいかない」とでも云ってもらった方が納得できるというものだ。<br /><br />　実際に番組を制作している現場の人間、出演者やスタッフはまったく問題にしていなかったのに、中央だか県庁だかから天下ってきた経営陣が、よく事情も分からないくせに単なる事なかれ主義で潰したのである。<br />　エフエム多摩というのが最近、首都圏で初めて潰れたとニュースになっていたようだが、こういうクソみたいな経営陣の存在が原因なんじゃないのかね。<br /><br /><br />　なお、実は偽「ウェルダン穂積」の正体は分かっている。<br />　今回は本当にアタマにきている。<br />　そのあたりのことを全部、暴露してやろうと思う。<br />　さらに詳細な説明をこれから書くから、またまた引き続き続報を待て。<br />　たぶんものすごい長文になると思うから、まあ頑張って３時間後ぐらいかな。<br />
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      <link>http://ameblo.jp/toyamakoichi/entry-10451039107.html</link>  
      <pubDate>Fri, 05 Feb 2010 19:58:13 +0900</pubDate> 
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