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    <title>勝利まで永遠に</title>  
    <link>http://ameblo.jp/sarasa0625/</link>  
    <description>-HASTA　LA　VICTORIA　SIEMPRE- 　　</description>  
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    <item> 
      <title>植村 直己</title>  
      <description> <![CDATA[ うえむら なおみ<br /><br /><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120208/15/sarasa0625/07/e1/j/o0254019811781834999.jpg"><img src="http://stat.ameba.jp/user_images/20120208/15/sarasa0625/07/e1/j/t02200171_0254019811781834999.jpg"  alt="$勝利まで永遠に" border="0" /></a><br /><br />1941年（昭和16年）2月12日 - 1984年（昭和59年）2月13日頃（遺体が未発見のため詳細は不明））<br />日本の男性登山家・冒険家<br />兵庫県出身。明治大学農学部卒業<br />1984年に国民栄誉賞を受賞<br /><br />1941年2月12日、兵庫県城崎郡日高町（現在の豊岡市）で、植村藤治郎・梅夫妻の末っ子として生まれる<br />少年期より同郷の加藤文太郎（浜坂町（現在の新温泉町）出身）に憧れ、学校行事で登った蘇武岳を皮切りに但馬の嶺々への山行を始める<br />兵庫県立豊岡高等学校卒業後、豊岡市の新日本運輸（現在は廃業）に就職<br />翌1960年に明治大学農学部農産製造学科に入学、山岳部へ入部してからは登山に没頭<br />同じ明治大学山岳部の小林正尚のアラスカ旅行で氷河を見て来た話を聞いて、海外の山へ憧憬を抱くようになる<br /><br />1964年5月2日大学卒業後就職試験に失敗、ヨーロッパアルプスの氷河を見ようと考えたが資金が足りないため、まず生活水準が高いアメリカで資金を貯めてそれからヨーロッパに行こうと考え、周囲の反対を押し切ってとび職のアルバイトで貯めた金を元手に横浜港から移民船「あるぜんちな丸」に乗り込み、ロサンゼルスへ向かった<br />到着後苦労して職を得るが9月に不法就労で捕まり、登山の資金を貯めるために働いていることを日系人の通訳を通じて話して強制送還は免れたもののアメリカにはいられずフランスへ向かった<br />11月10日シャモニーでモンブラン単独登攀を目指すがクレバスに落ち失敗<br />モルジヌのスキー場で冬季オリンピック滑降金メダリストのジャン・ヴュアルネに雇われ、ここで資金を稼ぎながら登山活動の拠点とした<br /><br />1965年明治大学のゴジュンバ・カン（チョ・オユーII峰）登頂隊に途中参加、4月23日登頂を果たした<br />その後再びモルジヌに戻るが、黄疸で一ヶ月の闘病生活を余儀なくされた<br /><br />1966年7月モンブラン、続いて7月25日マッターホルン単独登頂に成功<br />10月24日アフリカ最高峰キリマンジャロの単独登頂に成功<br /><br />続いて1968年には南米最高峰のアコンカグア単独登頂に成功した<br />この後アマゾン川のいかだ下り6000kmの冒険を経て、北米最高峰のマッキンリー登頂を目指すが、単独登頂の許可が下りず断念<br />4年5ヶ月ぶりに日本に帰国する<br /><br />日本山岳会が創立65周年事業としてエベレスト登頂隊派遣を決定し、山岳部の先輩である大塚博美に誘われ植村も参加した<br />自己負担金を用意できなかったため荷揚げ、ルート工作要員としての参加であったが、抜群の体力等が認められ松浦輝夫とともに第1次アタック隊に選ばれ、1970年5月11日、エベレスト南東稜から登頂に成功する<br />しかしこの経験で、大量の隊員を荷物運びとして使いながらほんの一握りの者しか登頂できない極地法による高所登山に疑問を持った<br /><br />同年8月、エベレスト登頂の勢いを借りて再びマッキンリーに挑戦し単独登頂を成功させ、この時点で世界初の五大陸最高峰登頂者となった<br /><br />1971年初めには小西政継らの山学同志会隊に加わり、冬季のグランド・ジョラス北壁に挑み、他の隊員は凍傷に罹り手足の指を失うことになったが、植村と高久幸雄は五体満足で完登した。<br /><br />同年4月、イギリスBBCが主催し、アメリカ人のノーマン・ディレンファース隊長率いるエベレスト国際隊へ伊藤礼造と参加しネパール側南壁制覇を目指して再びエベレスト登頂を目論むが、インド人のハッシュ・バフグナ隊員の遭難以降各国からの代表を寄せ集めた国際隊は互いの利害関係が徐々に表面化し、失敗に終わった<br />以後登山・冒険とも「単独」での行動へと傾倒する<br /><br />この頃から植村は南極横断への夢を抱き始め、少しずつ実現のための準備を始めた<br />1971年8月南極横断距離3000kmを体感するため、同距離となる北海道稚内市から九州鹿児島までの国内縦断を徒歩51日間で実現した<br /><br />グリーンランド北部でのエスキモーとの共同生活を経たのち、1974年12月から1976年5月まで1年半かけての北極圏12000kmの犬ぞり探検に成功<br /><br />1978年、ナショナルジオグラフィック協会からも資金提供を受け、犬ぞりを操って人類史上初の北極点単独行に成功、日本人として初めてナショナル・ジオグラフィック誌の表紙を飾った<br />同年にはグリーンランド縦断にも成功し、これらの業績から1979年、イギリス王室から優れた冒険家に贈られるバラー・イン・スポーツ章を受賞するなど世界的な名声と評価を獲得した<br />一方でスポンサーの電通の意向でもあったが食料やそりから犬に至るまでヘリコプターや飛行機で補給をしたことなどに対して一部で疑問と批判も出た<br /><br />北極点・グリーンランドの犬ぞり探検成功後、植村の冒険は苦難に満ちたものとなっていく<br /><br />1980年、エベレストの厳冬期登頂を目指し植村を隊長とする日本隊が編成されるが、登攀隊員の竹中昇が事故に遭い死去<br />悪天候にもみまわれ、登頂は断念した<br /><br />1982年、アルゼンチン軍の協力が得られることとなり、積年の夢だった南極点単独犬ぞり探検を計画し、南極のアルゼンチン軍基地に待機し出発を待つが、フォークランド紛争勃発によりア軍が協力を撤回し断念<br /><br />2度の失敗に初心に戻る決心をした植村は野外学校設立を夢見、勉強を兼ねてアメリカのミネソタ州にある野外学校「アウトワード・バウンド・スクール（OBS）」に参加するため渡米<br />ついでにアラスカでマッキンリー登頂を目指した<br />このマッキンリー登頂計画は知人・友人への事前の連絡がほとんどなく、スポンサーも絡んでいなかったため、この時期に実行された明確な理由については不明となっている<br />植村の登頂開始は一部の記者のみによってインタビューされた<br /><br />1984年2月12日、43歳の誕生日にマッキンリー世界初の厳冬期単独登頂を果たしたが、翌2月13日に行われた交信以降は連絡が取れなくなり、消息不明となった<br />3日後の2月16日小型飛行機がマッキンリーに行ったところ植村と思われる人物が手を振っているのが確認されたが、天候が悪く、視界も悪かったので救出することができずに見失ってしまった<br />（最終キャンプに大量の装備が残されていたことから、誤認である可能性が高い）<br />その後明治大学山岳部によって2度の捜索が行なわれたが発見されることはなく、植村が登頂の証拠として山頂付近に立てた日の丸の旗竿と、最終キャンプ地の跡に残された植村の装備の一部が遺品として発見されるに留まった<br />やがて生存の確率は0%とされ、捜索は打ち切られた<br />現在に至るまで遺体は発見されていない<br />このため、最後に植村の消息が確認された1984年2月13日が植村の命日とされた<br />43歳没<br /><br />1984年4月19日、国民栄誉賞を受賞<br /><br />1984年6月19日、デンマーク政府により、1978年グリーンランド縦断の際の到達点であった「ヌナタック峰」を、植村の功績を称え新たに「ヌナタック・ウエムラ峰」と呼称することが決定した<br /><br />1994年、公子夫人と有志によって、記念館と「植村直己自然学校」が設立された<br /><br />1996年、植村直己冒険賞が設けられた<br />最初の受賞者はミャンマー最高峰・カカボラジ山に初登頂した尾崎隆（2011年5月12日高山病のためエベレスト頂上付近で死亡）<br /><br />■ 主な登山・冒険歴<br /><br />1965年4月23日-ゴジュンバ・カン登頂<br />1966年7月25日-モンブラン単独登頂<br />1966年10月24日-キリマンジャロ単独登頂<br />1968年2月5日-アコンカグア単独登頂<br />1968年4月20日-6月20日-アマゾン河6,000km単独筏下り<br />1970年5月11日-エベレスト登頂（松浦輝男とともに日本人初登頂）<br />1970年8月30日-マッキンリー（世界初の五大陸最高峰登頂成功）<br />1971年1月1日-グランド・ジョラス北壁完登<br />1971年8月30日-10月20日-日本列島3,000kmを徒歩で縦断<br />1972年9月4日-1973年2月4日-グリーンランド北端シオラパルク村のエスキモー宅に単身寄宿し共同生活<br />1973年2月4日-4月30日-グリーンランド3,000km犬ゾリ単独行<br />1974年12月29日-1976年5月8日-北極圏12,000km犬ゾリ単独行<br />1976年7月-エルブルスに登頂<br />1978年4月29日-犬ゾリ単独行で北極点到達（単独到達世界初）<br />1978年8月22日-犬ゾリ単独行でグリーンランド縦断成功<br />1982年8月13日-厳冬期アコンカグア第二登達成（共同）<br />1984年2月12日-マッキンリー厳冬期単独登頂（世界初）<br /><br />+ Wikipedia +<br /><br /><object width="320" height="265"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/ZidJr9kPn08?version=3&amp;hl=ja_JP"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/ZidJr9kPn08?version=3&amp;hl=ja_JP" type="application/x-shockwave-flash" width="320" height="265" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true"></embed></object><br /><br /><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18856607" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">青春を山に賭けて (文春文庫)/植村 直己<br /><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51OBx8ZZFKL._SL160_.jpg" border="0" /></a><br />￥580<br />Amazon.co.jp<br /><br /><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18856606" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">極北に駆ける (文春文庫)/植村 直己<br /><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41nZ86pc75L._SL160_.jpg" border="0" /></a><br />￥580<br />Amazon.co.jp<br /><br /><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18856605" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">エベレストを越えて (文春文庫 (178‐5))/植村 直己<br /><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51%2BscwIYbRL._SL160_.jpg" border="0" /></a><br />￥570<br />Amazon.co.jp<br /><br /><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18856604" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">植村直己 妻への手紙 (文春新書)/植村 直己<br /><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41CMXV14SEL._SL160_.jpg" border="0" /></a><br />￥788<br />Amazon.co.jp<br /><br /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/309.gif" alt="富士山" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/309.gif" alt="富士山" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/309.gif" alt="富士山" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/309.gif" alt="富士山" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/309.gif" alt="富士山" />
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      <link>http://ameblo.jp/sarasa0625/entry-11158879463.html</link>  
      <pubDate>Mon, 13 Feb 2012 00:00:00 +0900</pubDate> 
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      <title>山口 淑子</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 やまぐち よしこ<br /><br /><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120206/16/sarasa0625/68/ae/j/o0356047411778175347.jpg"><img src="http://stat.ameba.jp/user_images/20120206/16/sarasa0625/68/ae/j/t02200293_0356047411778175347.jpg"  alt="$勝利まで永遠に" border="0" /></a><br /><br />1920年2月12日 - <br />国際的歌手、女優、政治家<br />本名：大鷹淑子（旧姓：山口）<br /><br />戦前の中国（中華民國）と満州國、日本、そして戦後の香港で李香蘭（り・こうらん、リー・シャンラン）の名で映画、歌などで活躍した<br />終戦を上海で迎えた彼女は、漢奸（中国人として祖国を裏切った）容疑で中華民國の軍事裁判に掛けられたものの、日本人であることが証明され、漢奸罪は適用されず、国外追放処分となり、日本に帰国した<br />帰国後は、旧姓（当時の本名）・山口淑子の名前で芸能活動を再開し、日本はもとより、アメリカや香港の映画・ショービジネス界で活躍をしたが、1958年に結婚のため芸能界を退いた<br />そして1969年にフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会者としてマスメディア界に復帰、1974年3月まで務めた<br />後に1974年から1992年までの18年間は、参議院議員をも務めた<br />2006年に日本チャップリン協会（大野裕之会長）の名誉顧問に就いた<br /><br />■ 誕生からデビューまで<br /><br />1920年（大正9年）2月12日に、中華民國奉天省（現：中華人民共和国遼寧省）の炭坑の町、撫順で生まれた<br />満鉄（南満州鉄道株式会社）で中国語を教えていた佐賀県出身の父・山口文雄と福岡県出身の母・アイ（旧姓石橋）の間に生まれ、「淑子」と名付けられる<br />奉天（現：中華人民共和国遼寧省の省都・瀋陽市）と北平（現：北京市）で育った<br />本籍は、佐賀県北方町<br /><br />親中国的であった父親の方針から、幼い頃から中国語に親しんだ<br />小学生の頃に家族で奉天（現：瀋陽）市へ移住し、その頃に父親の友人であり家族ぐるみで交流のあった瀋陽銀行の頭取・李際春将軍（後に漢奸罪で処刑される）の、義理の娘分（乾女兒）となり、「李香蘭（リー・シャンラン）」という中国名を得た<br />その後、のちに天津市長になった潘毓桂とも義理の娘として縁を結んだ<br />中国の旧習では、元来縁を深める為にお互いの子供を義子とする習慣があった<br />これは実際に戸籍を移す法的な養子という関係ではなく、それぞれの姓でお互いの子女に名前を付け合うなどのものである<br /><br />その後、奉天に住む幼なじみのユダヤ系ロシア人であるリューバの母からの紹介を受け、白系ロシア人と結婚したイタリア人オペラ歌手のマダム・ポドレソフのもとに通い、ここで声楽を習うようになった<br />1934年、淑子は「潘淑華」（潘毓桂としての義子名）の名で北京のミッション・スクール（翊教女子中学）に入学し、1937年に卒業した<br /><br />■ 「中国人スター・李香蘭」として<br /><br />日本語も中国語も堪能だったことから、奉天放送局の新満洲歌曲の歌手に抜擢され、日中戦争開戦の翌1938年には満州国の国策映画会社・満洲映畫協會（満映）から中国人の専属映画女優「李香蘭」（リー・シャンラン）としてデビューした<br />映画の主題歌も歌って大ヒットさせ、女優として歌手として、日本や満洲国で大人気となった<br />そして、流暢な北京語とエキゾチックな容貌から、日本でも満洲でも多くの人々から中国人スターと信じられていた<br />また、この頃「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた川島芳子との親交があった<br /><br />川島芳子<br /><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120206/16/sarasa0625/50/23/j/o0200028111778175346.jpg"><img src="http://stat.ameba.jp/user_images/20120206/16/sarasa0625/50/23/j/t02000281_0200028111778175346.jpg"  alt="$勝利まで永遠に" border="0" /></a><br /><br />日中戦争中には満洲映畫協會の専属女優として日本映画に多く出演し人気を得た<br />人気俳優の長谷川一夫とも『白蘭の歌』『支那の夜』『熱砂の誓ひ』で共演した<br />1941年2月11日の紀元節には、日本劇場（日劇）での「歌ふ李香蘭」に出演し、大盛況となった<br />大勢のファンが大挙して押し寄せ、日劇の周囲を七周り半もの観客が取り巻いたため、消防車が出動・散水し、群衆を移動させる程の騒動であったと伝えられている（日劇七周り半事件）<br /><br />1943年には、阿片戦争で活躍した中国の英雄・林則徐の活躍を描いた長編時代劇映画『萬世流芳』（151分）に、林則徐の弟子・潘達年の恋人（後に妻）役で主演した<br />中華民國全土で映画が公開されると、劇中彼女が歌った主題歌「賣糖歌」と挿入歌「戒煙歌」と共に、中国映画史上初の大ヒットとなる<br />『萬世流芳』は中華電影股份有限公司、中華聯合製片股份有限公司、満洲映畫協會の3社による合作映画である<br />この映画は、阿片戦争敗北100周年記念に作られた映画で、内容は阿片戦争の相手国であるイギリスを日本に見立てて、中国民衆の抗日意識を鼓舞するものだった<br />李香蘭は、劇中「賣糖歌」と「戒煙歌」の2曲を歌い、妖艶かつ可憐な魅力を振り撒いている<br />この映画は1943年6月の上映開始後、観衆の心をつかみ、当時最大のヒット作となった<br /><br />『萬世流芳』の大ヒットにより、中華民國の民衆から人気を得た李香蘭は、上海から北京の両親のもとへ帰郷し、北京飯店で記者会見を開いた<br />当初、この記者会見で彼女は自分が日本人であることを告白しようとしていたが、父の知人であった李記者招待会長に相談したところ、<br /><br />「今この苦しい時に、あなたが日本人であることを告白したら、一般民衆が落胆してしまう。それだけはやめてくれ」<br /><br />と諭され、告白を取りやめた<br /><br />この記者会見が終わり掛けた時、一人の若い中国人新聞記者が立ち上がり、<br /><br />「李香蘭さん、あなたが『白蘭の歌』や『支那の夜』など一連の日本映画に出演した真意を伺いたいのです。あの映画は中国を理解していないどころか、侮辱してます。<br />それなのに、なぜあのような日本映画に出演したのですか? <br />あなたは中国人でしょう。中国人としての誇りをどこに捨てたのですか」<br /><br />と質問した。<br /><br />これに対し、彼女は<br /><br />「20歳前後の分別のない自分の過ちでした。今は後悔しています。<br />あの映画に出たことを後悔しています。<br />今後、こういうことは決して致しません。どうか許してください」<br /><br />と答えるや、記者会見会場内からは大きな拍手が沸いたという<br /><br />記者会見と前後して、上海の百代唱片公司で収録した「夜來香」「恨不相逢未嫁時」「海燕」「防空歌」等がヒットした<br />このうち「防空歌」は、中国人の祖国防衛意識をかきたてた<br />また、1945年の日本敗戦間際に、上海・静安寺路（現・南京西路）の大光明大戯院Grand Theatre（現・大光明電影院）で行われたリサイタルでは、ヒット曲「夜來香」を含む中・日・欧米の歌曲等が披露され、観客の喝采を浴びた<br />そして人気の勢いは留まる事を知らず、李香蘭は、周璇、白光、姚莉、呉鶯音らと共に、上海灘の「五大歌后」の1人に数えられた）<br />それまで、李香蘭は満洲国と日本のスターだったが、映画『萬世流芳』と、その主題歌「賣糖歌」、挿入歌「戒煙歌」、そして「夜來香」「海燕」「恨不相逢未嫁時」「防空歌」等のヒット曲により、中華民國でも人気スターとなった<br />『萬世流芳』の後、『香妃』という映画が企画されたものの、撮影開始前に終戦を迎え、上海での映画出演は1本になってしまった<br /> また歌に於いては、1945年にカップリングで吹き込み発売された「第二夢」と「忘憂草」とが、中国での最後の曲となってしまった<br /><br />■ 帰国<br /><br />李香蘭は映画『支那の夜』（中華民國では『上海之夜』）をはじめ、『白蘭の歌』『熱砂の誓ひ』の中で、「抗日から転向し日本人を慕う中国人女性」を演じていた<br />また、中国語で「夜來香」「恨不相逢未嫁時」「防空歌」「海燕」等のヒット曲を出したり、愛国映画「萬世流芳」に出演し、「賣糖歌」「戒煙歌」をヒットさせたりしていた関係上、中国人と思われていたため、日本の敗戦後、中華民國政府から売国奴（漢奸）の廉で軍事裁判にかけられた<br />李香蘭は来週、上海競馬場で銃殺刑に処せられるだろうなどという予測記事が新聞に書かれ、あわや死刑かと思われた<br /><br />しかし奉天時代の親友リューバの働きにより、北京の両親の元から日本の戸籍謄本が届けられ、日本国籍であるということが証明され、漢奸罪は適用されず、国外追放となった<br />無罪の判決を下す際、裁判官は<br /><br />「この裁判の目的は、中国人でありながら中国を裏切った漢奸を裁くことにあるのだから日本国籍を完全に立証したあなたは無罪だ。<br />しかし、一つだけ倫理上、道義上の問題が残っている。<br />それは、中国人の名前で 『支那の夜』 など一連の映画に出演したことだ。<br />法律上、漢奸裁判には関係ないが、遺憾なことだと本法廷は考える」<br /><br />と付言を加え、李香蘭は「若かったとはいえ、考えが愚かだったことを認めます」と頭を下げて謝罪した<br />1946年2月28日、李香蘭と似ても似つかぬように化粧を落とし、もんぺ姿で引揚船に乗船しようとしたが、中華民國側の女性出入国管理官に李香蘭と見破られ、再度収容所に連れ戻されてしまった<br />それから10日後に誤解は解け、1ヶ月後の3月末に今度こそ出国できることになった<br />李香蘭は乗船するや否や一旦はトイレに身を潜めたが、船が港を離れてからデッキで景色を眺めていると、ラジオから聞こえてきたのは、自分の歌う『夜來香』だった<br /><br />■ 女優「山口淑子」として<br /><br />帰国した後、翌年には旧姓（当時の本名）「山口淑子」に戻って銀幕に復帰、日本映画を中心に活躍した<br />主演作では、池部良と共演した1950年の『暁の脱走』などが名作として名高い<br />『わが生涯のかがやける日』では森雅之と、『醜聞』では三船敏郎と共演している<br /><br />また、アメリカに渡り、アクターズ・スタジオの講師から演技を学び、シャーリー山口（Shirley Yamaguchi）の名でハリウッド映画に主演したり、ブロードウェイでのミュージカルにも主役で出演した<br />その頃ニューヨークで彫刻家イサム・ノグチと知り合い、1951年に結婚<br />鎌倉の北大路魯山人の邸宅敷地内にアトリエと住まいを構えたが、1955年に離婚する<br /><br />1952年から1958年に掛けてはイギリス領香港のショウ・ブラザーズ社の映画『金瓶梅』、『神秘美人』、『一夜風流』に主演。中国語圏で「李香蘭」の名を復活させた<br />また同時に香港の百代唱片公司で10数曲の主演映画の主題歌を吹き込み、映画と共にリリースしヒットさせる<br />それらは今もスタンダード・ナンバーとして、世界の中国人・華人の間で歌い継がれている。「三年」「梅花」「小時候」「十里洋場」「分離」等々<br /><br />■ 女優引退～司会者として復帰<br /><br />1958年に日本人外交官で、駐ビルマ日本大使館の三等書記官（国連大使の加瀬俊一の秘書官も務めた）の大鷹弘（元駐ミャンマー特命全権大使、2001年4月に73歳で死去）と再婚し、20年にわたる女優業を引退する<br />引退直前には原節子の呼びかけにより、芸能生活20周年記念映画として『東京の休日』が製作された<br />それは三船敏郎、池部良、越路吹雪などの東宝オールスターが出演する豪華なものとなった<br />そしてこの映画が最後の出演映画となった<br /><br />その後はマスコミに一切姿を見せなかったものの、1969年に、「山口淑子」の名でフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会者になり、芸能界へのカムバックを果たす<br />番組ではベトナム戦争中の南ベトナムやカンボジア、中東などの海外取材も行う<br />朝日放送が製作した「こんにちわ北朝鮮」という番組ではリポーターを務め、北朝鮮を訪問<br />金日成国家主席と会談している。<br />973年には日本赤軍の重信房子とのインタビューに成功<br /><br />■ 参議院議員へ転身<br /><br />1974年に、時の総理・田中角栄の要請で自由民主党から第10回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し初当選<br />1980年、1986年と再選され、環境政務次官・参議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長・参議院外務委員長・自民党婦人局長などを1992年に引退するまで歴任した<br />1993年11月3日、勲二等宝冠章受章<br /><br />+ Wikipedia +<br /><br /><object width="320" height="265"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/nJfDEKD2rQ8?version=3&amp;hl=ja_JP"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/nJfDEKD2rQ8?version=3&amp;hl=ja_JP" type="application/x-shockwave-flash" width="320" height="265" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true"></embed></object><br /><br /><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18829072" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">李香蘭 私の半生/山口 淑子<br /><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41SGPIoPY6L._SL160_.jpg" border="0" /></a><br />￥1,890<br />Amazon.co.jp<br /><br /><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18829071" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">「李香蘭」を生きて (私の履歴書)/山口 淑子<br /><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51XSF3KGQXL._SL160_.jpg" border="0" /></a><br />￥1,680<br />Amazon.co.jp<br /><br /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/181.gif" alt="口紅" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/181.gif" alt="口紅" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/181.gif" alt="口紅" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/181.gif" alt="口紅" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/181.gif" alt="口紅" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/181.gif" alt="口紅" />
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/sarasa0625/entry-11157028095.html</link>  
      <pubDate>Sun, 12 Feb 2012 00:00:00 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>伊能 忠敬</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 いのう ただたか<br /><br /><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120206/15/sarasa0625/f5/9b/j/o0200026711778122242.jpg"><img src="http://stat.ameba.jp/user_images/20120206/15/sarasa0625/f5/9b/j/t02000267_0200026711778122242.jpg"  alt="$勝利まで永遠に" border="0" /></a><br /><br />1745年2月11日（延享2年1月11日） - 1818年5月17日（文化15年4月13日）<br />江戸時代の商人・測量家である<br />通称は、三郎右衛門、勘解由（かげゆ）<br /><br />1800年（寛政12年）から1816年（文化13年）まで、足かけ17年をかけて全国を測量し大日本沿海輿地全図を完成させ、日本国の歴史上はじめて国土の正確な姿を明らかにした<br />日本で初めて金星の子午線経過を観測した人物である<br /><br />1883年（明治16年）、贈正四位<br /><br />1745年（延享2年）1月11日、神保貞恒の次男として上総国山辺郡小関村（現・千葉県山武郡九十九里町小関）の名主・小関五郎左衛門家で生まれる<br />幼名は三治郎<br />6歳の時、母が亡くなり、婿養子だった父は兄と姉を連れ実家の武射郡小堤村（現・横芝光町小堤）の神保家に戻るが、三治郎は祖父母の元に残る<br />その後生家を叔父（母の弟）が継ぎ、三治郎が10歳の時に父の元に引き取られる<br /><br />1762年（宝暦12年）、18歳の時に、下総国香取郡佐原村（現・香取市佐原）の伊能家に婿養子に入り、以来しばらくは商人として活動する<br />伊能家は、酒､醤油の醸造､貸金業を営んでいた他、利根水運などにも関っていた<br />商人としてはかなりの才覚の持ち主であったようで、伊能家を再興したほか、佐原の役職をつとめたなどの記録が残されている<br />また、かなりの財産を築いた。現存するもっとも古い唐木仏壇の一つに、伊能忠敬家の仏壇（18世紀頃）がある<br /><br />香取市佐原には伊能忠敬旧宅をはじめ、伊能忠敬記念館、1919年（大正8年）建造の伊能忠敬銅像、その名をとった「忠敬橋（ちゅうけいばし）」などがある<br />また、旧宅近くの香取市立佐原小学校の校歌には忠敬翁が歌われており、命日の5月17日には忠敬祭（ちゅうけいさい）として墓参などの行事が行われている<br />上野源空寺にある伊能忠敬墓<br />左側に高橋至時・景保の墓が並んでいる<br /><br />1794年（寛政6年）12月、50歳の時に、家督を長男景敬に譲り隠居、翌年江戸に出る<br />江戸幕府の天文方・高橋至時に師事し、測量・天文観測などを修めた<br />寝る間を惜しみ天体観測や測量の勉強をしていたため「推歩先生」（推歩とは暦学のこと）というあだ名で呼ばれていた<br />その際、天体観測を利用し地球の大きさを仮定するが、師匠である高橋至時に、基準とする距離が短過ぎ不正確である、あるいは江戸と蝦夷地ほどの距離を元にすれば推測も可能であろうと一笑に付される<br />この事が、忠敬が後年測量の旅に出るきっかけの一つともなった<br />深川界隈に住居を構え、全国測量の旅に出かける際は、安全祈願のために、富岡八幡宮に必ずお参りに来ていた<br />2001年、境内に銅像が建てられている<br />晩年、旅先から「歯がなくなって好物の奈良漬も食えなくなって悲しい」と言った内容の手紙を故郷に送っている<br /><br />1800年（寛政12年）、56歳の時に、第1次測量を開始<br />これは、測量家としての腕を見込まれたことのほか、忠敬が私財を投じて測量事業を行おうとしたことが幕府にとっても有益だと判断されたということがあったようである<br />幕府は、忠敬に全国の測量をさせると共に、薩摩藩の偵察の意味合いも重きにおいて全国に派遣させていたとされる<br />最初の測量は蝦夷地（現在の北海道）およびその往復の北関東・東北地方において行われた。宗谷付近については、当時、伊能がその弟子であった間宮林蔵に依頼して行わせた測量結果を基に作図が行われた<br />ただし、忠敬の測量が極めて高度なものであったことから、その後徐々に幕府からの支援は増強され、国家的事業に育っていった<br />また、この際に地図投影に必要な地球の大きさを見積もるため、江戸深川から野辺地に至る路線の測量により、緯度1度に相当する子午線弧長がおよそ28里2分（110.7km程度）に相当すること、またそれを元に、地球全体の外周がおよそ4万km程度であると推測した<br />この値は、現在計測されている数値と0.1%程度の誤差であり、忠敬の測量の正確さの証左とも言える<br /><br />こうして作られたのが大日本沿海輿地全図であり、大変精度の高い日本地図として評価された<br />完成したのは忠敬没後の1821年（文政4年）であった（仕上げ作業を担当したのは高橋至時の子、高橋景保）<br />墓地は上野源空寺（源空寺には、高橋景保・高橋至時・伊能忠敬の大日本沿海輿地全図組三人頭の墓が並んでいる）<br />また佐原の観福寺にも遺髪をおさめた参り墓がある<br /><br />死後の1828年（文政11年）、シーボルトがこの日本地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚し、これに関係した日本の蘭学者（至時の息子高橋景保ら）などが処罰された（シーボルト事件）<br /><br />+ Wikipedia +<br /><br /><object width="320" height="265"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/81IBmfWDb8E?version=3&amp;hl=ja_JP"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/81IBmfWDb8E?version=3&amp;hl=ja_JP" type="application/x-shockwave-flash" width="320" height="265" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true"></embed></object><br /><br /><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18828530" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">図説　伊能忠敬の地図をよむ (ふくろうの本)/渡辺 一郎<br /><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51TgaBUoOQL._SL160_.jpg" border="0" /></a><br />￥1,890<br />Amazon.co.jp<br /><br /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/153.gif" alt="手裏剣" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/153.gif" alt="手裏剣" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/153.gif" alt="手裏剣" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/153.gif" alt="手裏剣" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/153.gif" alt="手裏剣" />
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/sarasa0625/entry-11157001362.html</link>  
      <pubDate>Sat, 11 Feb 2012 00:00:00 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item>
      <title><![CDATA[PR: 【フォード】選べる2つの特典キャンペーン実施中！]]></title>
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      <description><![CDATA[<table cellspacing="0" cellpadding="0"><tbody><tr><td align="left" valign="center"><a href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/Cduz8jKTNY5g/7AjWPXHVs2pQ?type=2" target="_blank"><img alt="" style="border: 0;" border="0" src="http://rss.rssad.jp/rss/img/Cduz8jKTNY5g/7AjWPXHVs2pQ?type=3&ent=5bc18d4ea4c9ebd1609ca540732de95d"/></a></td></tr><tr><td align="left" valign="top" > アクセサリー最大15万円分プレゼント！または特別低金利2.9%をご利用ください！ </td></tr></tbody></table><div style="font-size:10px;"><span style="padding-top:5px;"><br style="display:none"/><a href="http://www.rssad.jp/trendmatch/trendmatch.html">Ads by Trend Match</a></span><br/></div>]]></description>
      <pubDate>Sat, 11 Feb 2012 00:00:00 +0900</pubDate>
    </item>
    <item> 
      <title>平塚 らいてう</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 ひらつか らいちょう<br /><br /><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120203/13/sarasa0625/b7/8f/j/o0256018011771621319.jpg"><img src="http://stat.ameba.jp/user_images/20120203/13/sarasa0625/b7/8f/j/t02200155_0256018011771621319.jpg"  alt="$勝利まで永遠に" border="0" /></a><br /><br />1886年（明治19年）2月10日 - 1971年（昭和46年）5月24日<br />日本の思想家・評論家・作家・フェミニスト<br />戦前と戦後に亘る女性解放運動・婦人運動の指導者で、後年には平和運動にも関わった<br />表記は一定せず、漢字で雷鳥と書く場合や、塩原事件で有名になったために、本名の平塚 明（ひらつか はる）や平塚明子で評論の俎上に上がることもある<br /><br />■ 平塚明<br /><br />幼少時は、1887年（明治20年）から1年半欧米を視察巡遊した父の影響で、ハイカラで自由な環境で育った<br />しかし、1892年（明治25年）に富士見小学校に入学してまもなく、父は従来の欧米的な家風を一夜にして捨て去り、国粋主義的な家庭教育を施すようになった<br /><br />1898年（明治31年）父の意思で当時国粋主義教育のモデル校だった東京女子高等師範学校附属高等女学校に入学させられ、「苦痛」の5年間を過ごす<br /><br />1903年（明治36年）に「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針に憧れて日本女子大学校家政学部に「女子には女学校以上の学問は必要ない」という父を説得して入学<br />しかし、翌年に日露戦争が勃発すると、徐々に国家主義的教育の度合いが強くなり、その中にお茶の水時代と同じ思想を見出すと大学生活にひどく幻滅した<br />この頃から、自分の葛藤の理由を求めるために宗教書や哲学書などの読書に没頭する<br />1905年（明治38年）には禅の存在を知り、日暮里にある禅の道場「両忘庵」に通い始めるようになった<br />1906年（明治39年）に日本女子大学校を卒業<br />両忘庵で禅の修行をしながら、二松学舎、女子英学塾で漢文や英語を学び、1907年（明治40年）にはさらに成美女子英語学校に通う<br /><br />成美女子英語学校でテキストとして使われたゲーテの『若きウェルテルの悩み』で初めて文学に触れ、文学に目覚める<br />東京帝大出の新任教師生田長江に師事し、生田と森田草平が主催する課外文学講座「閨秀文学会」に参加するようになった<br />生田の勧めで処女小説「愛の末日」を書き上げ、それを読んだ森田が才能を高く評価する手紙を明に送ったことがきっかけで、二人は恋仲になった<br /><br />1908年（明治41年）2月1日に初めてのデートをするが、同年3月21日に塩原事件と呼ばれる心中未遂事件を起こす<br />新聞はある事ない事を面白く書き立て、明の顔写真まで掲載した<br />明は一夜にしてスキャンダラスな存在となり、日本女子大学校に至っては桜楓会の名簿から明の名を抹消している<br />その後、1992年（平成4年）に復活する<br /><br />■ らいてうの誕生<br /><br />明は、塩原事件を機に、性差別や男尊女卑の社会で抑圧された女性の自我の解放に興味を持つようになっていた<br />この頃、生田長江の強いすすめで、日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』の製作に入った<br />資金は母からの援助で「いつか来るであろう娘明の結婚資金」を切り崩したもの<br />その資金を元に青鞜社を立ち上げ、企画は明の同窓生や同年代の女性に拠り、明は主にプロデュースに回った<br /><br />表紙は長沼智恵が描き、与謝野晶子が「山の動く日来る」の一節で有名な「そぞろごと」という詩を寄せた<br />明は『元始女性は太陽であつた - 青鞜発刊に際して』という創刊の辞を書くことになり、その原稿を書き上げた際に、初めて「らいてう」という筆名を用いた<br /><br />『青鞜』創刊号は、1911年（明治44年）9月に創刊され、男女で両極端な反響を巻き起こした<br />女性の読者からは手紙が殺到し、時には平塚家に訪ねてくる読者もいたほどだったが、その一方、男性の読者あるいは新聞は冷たい視線で、青鞜社を揶揄する記事を書き、時には平塚家に石が投げ込まれるほどだった<br /><br />■ 新しい女<br /><br />『青鞜』創刊の翌1912年（明治45年）5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、第一回に与謝野晶子のパリ行きを取り上げた<br />翌6日には、晶子の出発の様子を<br /><br />「ソコへ足早に駆け付けたのは青鞜同人の平塚明子で（中略）列車の中へ入って叮嚀に挨拶を交換して居る。」<br /><br />などと報じた（総勢500余名が見送った）<br /><br />翌6月の『中央公論』（与謝野晶子特集号）では、鴎外によって<br /><br />「樋口一葉さんが亡くなってから、女流のすぐれた人を推すとなると、どうしても此人であらう。（中略）序だが、晶子さんと並べ称することが出来るかと思ふのは、平塚明子さんだ。（下略）」<br /><br />とまで評された<br /><br />もっとも、青鞜社に集まる女性が「五色の酒事件」や「吉原登楼事件」などの事件を起こすと、平塚家には投石が相次いだ<br />しかし、らいてうはそれをさほど意に介せず、「ビールを一番沢山呑むだのは矢張らいてうだった」と編集後記に書いて社会を挑発するだけの余裕があった<br />そのうちに「新しい女」というレッテルを貼られるようになった<br />すると、らいてうは『中央公論』の1913年（大正2年）1月号に「私は新しい女である」という文章を掲載すると同時に婦人論を系統立てて勉強し始め、同年の『青鞜』の全ての号には、付録として婦人問題の特集が組み込むようになった<br />しかし、『青鞜』の1913年2月号の付録で福田英子が「共産制が行われた暁には、恋愛も結婚も自然に自由になりましょう」と書き、「安寧秩序を害すもの」として発禁に処せられると、らいてうは父の怒りを買い、家を出て独立する準備を始めることになった<br /><br />青鞜社は『青鞜』の他にも1912年（大正元年）末に岡本かの子の詩集『かろきねたみ』を皮切りに、翌1913年3月に『青鞜小説集』などを出版している<br />同年5月にらいてうの処女評論集『円窓より』も出ているが、出版直後に「家族制度を破壊し、風俗を壊乱するもの」として発禁に処せられている<br /><br />また、時期を並行して、1912年夏に茅ヶ崎で5歳年下の画家志望の青年奥村博史と出会い、青鞜社自体を巻き込んだ騒動ののちに事実婚を始めている<br /><br />奥村との間には2児（長男、長女）をもうけたが、らいてうは従来の結婚制度や「家」制度をよしとせず、平塚家から分家して戸主となり、2人の子供を私生児として自らの戸籍に入れている<br />■ 母性保護論争<br /><br />婦人公論3月号で与謝野晶子が『女子の徹底した独立』（国家に母性の保護を要求するのは依頼主義にすぎない）という論文を発表すると、これに噛み付き、同誌5月号で『母性保護の主張は依頼主義か』（恋愛の自由と母性の確立があってこそ女性の自由と独立が意味を持つ）という反論を発表した<br />すると、山川菊栄がこの論争に加わり、同誌9月号で『与謝野、平塚2氏の論争』（真の母性保護は社会主義国でのみ可能）という論文を発表<br />その後、山田わかなどが論争に加わると一躍社会的な現象になった。（母性保護論争）<br /><br />この論争の中、1919年（大正8年）の同誌1月号で、らいてうは『現代家庭婦人の悩み』（家庭婦人にも労働の対価が払われてしかるべき、その権利はあるはず）を発表している<br />同年夏には愛知県の繊維工場を視察し、その際に女性労働者の現状に衝撃を受け、その帰途に新婦人協会設立の構想を固めている<br /><br />■ 新婦人協会<br /><br />新婦人協会は、1919年（大正8年）11月24日に、市川房枝、奥むめおらの協力のもと、らいてうにより協会設立が発表され、「婦人参政権運動」と「母性の保護」を要求し、女性の政治的・社会的自由を確立させるための日本初の婦人運動団体として設立された<br />協会の機関紙「女性同盟」では再びらいてうが創刊の辞を執筆<br />新婦人協会は「衆議院議員選挙法の改正」、「治安警察法第5条の修正」、「花柳病患者に対する結婚制限並に離婚請求」の請願書を提出。特に治安警察法第五条改正運動（女性の集会・結社の権利獲得）に力を入れた<br /><br />伊藤野枝、堺真柄、山川菊栄などの社会主義者は赤瀾会を結成し、『新婦人協会と赤爛瀾会』（『太陽』大正10年7月号）を皮切りに新婦人協会及びらいてうを攻撃する<br />らいてうが去り、市川も渡米した後、新婦人協会は坂本真琴と奥むめおらを中心に積極的な運動を継続し、1922年（大正11年）に治安警察法第5条2項の改正に成功<br />しかし、その後の活動は停滞し、翌1923年（大正12年）末に解散<br />らいてうは文筆生活に入った<br /><br />■ 戦後<br /><br />第二次世界大戦後は、日本共産党の同伴者として活動し、婦人運動と共に反戦･平和運動を推進した<br />1950年（昭和26年）6月、来日した米国のダレス特使へ、全面講和を求めた「日本女性の平和への要望書」を連名で提出<br />翌年12月には対日平和条約及び日米安全保障条約に反対して「再軍備反対婦人委員会」を結成<br />1953年（昭和28年）4月には日本婦人団体連合会を結成し初代会長に就任<br />同年12月、国際民主婦人連盟副会長就任<br />1955年（昭和30年）、世界平和アピール七人委員会の結成に参加、同会の委員となる<br />1960年（昭和35年）、連名で「完全軍縮支持、安保条約廃棄を訴える声明」発表<br />1962年（昭和37年）には、野上弥生子、いわさきちひろ、岸輝子らとともに「新日本婦人の会」を結成した<br />1970年（昭和45年）6月にも市川房枝らと共に安保廃棄のアピールを発表する<br />またベトナム戦争が勃発すると反戦運動を展開<br />1966年（昭和41年）「ベトナム話し合いの会」を結成、<br />1970年（昭和45年）7月には「ベトナム母と子保健センター」を設立する<br /><br />「女たちはみな一人ひとり天才である」と宣言する孤高の行動家として、終生婦人運動及び反戦・平和運動に献身した<br /><br />■ 最晩年<br /><br />自伝の作に取り掛かるが、1970年（昭和45年）に胆嚢・胆道癌を患い、東京都千駄ヶ谷の代々木病院に入院<br />入院後も口述筆記で執筆を続けていたが、1971年（昭和46年）5月24日に85歳で死去<br /><br />■ 若い「つばめ」の由来<br /><br />「相手の女性よりも年下の恋人」をつばめと呼ぶのは、奥村がらいてうと別れることを決意した際の手紙の一節、<br /><br />「静かな水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった。若いツバメは池の平和のために飛び去っていく」 <br /><br />を、らいてうが『青鞜』上で発表し、一種の流行語になったことに由来する<br /><br />+ Wikipedia +<br /><br /><a href="http://www.amazon.co.jp/%E5%B9%B3%E5%A1%9A%E3%82%89%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%86%E8%A9%95%E8%AB%96%E9%9B%86-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B9%B3%E5%A1%9A-%E3%82%89%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%86/dp/4003317211%3FSubscriptionId%3D175BC0N2BCT0X4DAZG82%26tag%3Damebablog-a485597-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4003317211" target="alt0='AmebaAffiliate' alt1='平塚らいてう評論集 (岩波文庫)/平塚 らいてう' alt2='Amazon.co.jp' alt3='http://ecx.images-amazon.com/images/I/51Is2XnYxiL._SL160_.jpg' alt4='1'">平塚らいてう評論集 (岩波文庫)/平塚 らいてう<br /><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51Is2XnYxiL._SL160_.jpg" border="0" /></a><br />￥840<br />Amazon.co.jp<br /><br /><a 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</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/sarasa0625/entry-11153999246.html</link>  
      <pubDate>Fri, 10 Feb 2012 00:00:00 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>手塚 治虫</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 てづか おさむ<br /><br /><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120202/16/sarasa0625/4d/fd/j/o0209024111769819066.jpg"><img src="http://stat.ameba.jp/user_images/20120202/16/sarasa0625/4d/fd/j/t02090241_0209024111769819066.jpg"  alt="$勝利まで永遠に" border="0" /></a><br /><br />本名：手塚 治<br />1928年（昭和3年）11月3日 - 1989年（平成元年）2月9日日本の漫画家、アニメーター、医学博士<br />戦後日本においてストーリー漫画の手法を確立、現代にまでにつながる日本の漫画表現の基礎を作った<br /><br />大阪府豊能郡豊中町（現在の豊中市）に出生、5歳から兵庫県宝塚に育つ<br />旧制中学で大戦期を過ごし、大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』（『少国民新聞』連載）で漫画家としてデビュー<br />1947年、酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新宝島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす<br />1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた<br /><br />1963年、自作をもとに日本初となるテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした<br />1960年代後半より一時低迷するも、『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などにより復活<br />また『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を生み出す<br />デビューから1989年の死去まで第一線で作品を発表し続け、存命中から「漫画の神様」と評された<br /><br />長男に手塚眞、長女に手塚るみ子、次女に手塚千以子がいる<br />また、姪に声優の松山薫<br /><br />■ デビュー、赤本の世界へ<br /><br />1946年、手塚は酒井七馬が後見役を務める同人誌『まんがマン』の例会を通じて酒井と知り合い、酒井から長編ストーリー漫画の合作の話を持ちかけられる<br />200ページの描き下ろし長編『新寶島』が制作され、1947年1月に出版されると、当時としては異例の40万部、一説に80万部を超すベストセラーとなった<br />映画的な構成とスピーディな物語展開を持つ『新寶島』は、一般に戦後ストーリー漫画の原点として捉えられている<br /><br />1947年に発表された『火星博士』『怪人コロンコ博士』『キングコング』などは子供向けを意識したB級映画的な作品であったが、1948年の『地底国の怪人』からは悲劇的な展開も取り入れるようになり、SF、冒険などを題材に作品中でさまざまな試みが行なわれた<br /><br />同年末に描かれた『ロストワールド』では様々な立場の人物が絡み合う地球規模の壮大な物語が描かれ、続く『メトロポリス』（1949年）『来るべき世界』（1951年）とともに手塚の初期を代表するSF三部作をなしている<br />1950年にはゲーテの『ファウスト』を漫画化したほか、「映画制作の舞台裏をお見せします」という導入で始まる『ふしぎ旅行記』、自身の漫画手法を体系化して示した漫画入門書の先駆的作品『漫画大学』などを発表している<br /><br />漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなった<br />教授からも医者よりも漫画家になるようにと忠告され、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決める<br /><br />■ 雑誌連載開始<br /><br />新創刊された雑誌『少年少女漫画と読み物』に1950年4月より『タイガー博士の珍旅行』を連載、これが手塚の最初の雑誌連載作品となった<br />同年11月より漫画マニア誌『漫画少年』（学童社）にて『ジャングル大帝』の連載を開始<br />1951年には『鉄腕アトム』（1952年 - ）の前身となる『アトム大使』を『少年』（光文社）に連載するなど多数の雑誌で連載を始め<br />この年には目ぼしい少年漫画誌のほとんどで手塚の漫画が開始されることになった<br />1953年には『少女クラブ』（講談社）にて『リボンの騎士』の連載を開始<br />宝塚歌劇やディズニーからの影響を受けたこの作品は、以後の少女雑誌における物語漫画の先駆けとなった<br />1954年には『ジャングル大帝』の後を受けて『漫画少年』に『火の鳥』の連載を開始、『火の鳥』はその後幾度も中断しながら長年描き継がれた手塚のライフワークとなった<br /><br />私生活の面では、1952年に上京しており、1953年に『漫画少年』からの紹介で豊島区のトキワ荘に入居、その後手塚に続いて寺田ヒロオ、藤子不二雄、石森章太郎（後に石ノ森章太郎に改名）、赤塚不二夫らが続々と入居し、漫画家の一大メッカとなった。<br /><br />この1953年に手塚は長者番付の画家の部でトップとなっているが、住居が木造2階建て建築のトキワ荘であったため取材に来た記者に驚かれ、以後手塚は意識して高級品を買い込むようにしたと語っている<br />この時、トキワ荘の漫画家には映画をたくさん観るように薦めており、手塚自身も十数年間は年に365本を必ず観ていたという<br /><br />■ 劇画との闘い<br /><br />『鉄腕アトム』『ぼくのそんごくう』など児童漫画の人気作を連載をする一方で、手塚は1955年に大人向けの漫画雑誌『漫画読本』（文藝春秋新社）に『第三帝国の崩壊』『昆虫少女の放浪記』を発表しており、ここでは子供向けの丸っこい絵柄とは違った大人向けのタッチを試みている<br />1955年から1958年にかけての手塚は知的興味を全面に出した作品を多く出しており、1956年にSF短編シリーズ『ライオンブックス』を始めたほか、学習誌に『漫画生物学』『漫画天文学』などの学習漫画を発表<br />後者は第3回小学館漫画賞（1957年）の対象作品となった<br /><br />しかし1958年頃より、各漫画誌で桑田次郎、武内つなよし、横山光輝といった売れっ子漫画家が多数出現しており、この時期の手塚は人気の面ではそうした漫画家たちの一人に過ぎなくなっていた<br />さらに手塚を脅かしたのは、この時期に新たに登場した劇画の存在であった<br />社会の闇をストレートに描く劇画の人気は当時手塚を大いに悩ませ、階段から転げ落ちたり、大阪の劇画作家の拠点に押しかけ、集会に参加したりした<br />さらに手塚のアシスタントまでが貸本劇画を何十冊も借りてくるようになると、手塚はノイローゼに陥り、精神鑑定も受けたという<br /><br />1959年、週刊誌ブームを受けて週刊漫画雑誌『少年マガジン』（講談社）および『少年サンデー』（小学館）が創刊され、以後月刊少年誌は次第に姿を消していくことになった<br />この時、手塚は誘いを受けて小学館の専属作家となったが、講談社からも誘いを受けて困惑し、結局『少年サンデー』創刊号には自身の手による『スリル博士』を連載、『少年マガジン』の方には連載13回分の下描きだけして石森章太郎に『快傑ハリマオ』の連載をさせている<br />同年、血の繋がらない親戚で幼馴染であった岡田悦子と宝塚ホテルにて華燭の典を挙げる<br />多忙な手塚は結婚前に2回しかデートができず、結婚披露宴では1時間前まで閉じ込められて原稿を描き遅刻してしまったという<br /><br />■ アニメーションへの情熱 <br /><br />少年期からディズニー映画を愛好していた手塚はもともとアニメーションに強い情熱を持っており、アニメーション制作は念願の仕事であった<br />漫画家になる前の1945年の敗戦の年、手塚は焼け残った松竹座で大作アニメーション『桃太郎 海の神兵』を観て感涙し、このときに自分の手でアニメーション映画を作ることを決意したという<br />手塚にとって漫画はアニメ制作の資金を得るための手段だった<br />自らを「ディズニー狂い」と称した<br /><br />1961年、手塚は自身のプロダクションに動画部を設立する<br />手塚プロダクション動画部は当初6人のスタッフから始まった<br />スタッフの給料から制作費まですべて手塚の原稿料で賄い、1年かけて40分のアニメーション『ある街角の物語』を制作、この作品でブルーリボン賞や文部省芸術祭奨励賞など数々の賞を受賞する<br />動画部は1962年より「虫プロダクション」に改名し、続いて日本初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』の制作に取り掛かった<br />しかし10名に満たないスタッフではディズニーのようなフルアニメーションを毎週行なうのは不可能であり、必然的に絵の枚数を最低限にするリミテッドアニメの手法を取ることとなった<br />後にこのリミテッドアニメの手法が日本アニメに大きな影響を与えることとなる<br /><br />1967年には自身の原作『ジャングル大帝』が第28回ヴェネツィア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞している<br /><br />『鉄腕アトム』のヒットを受けて低予算のテレビアニメが次々と作られていくことになったのである<br />さらに、当初経営の苦しかった虫プロは『鉄腕アトム』の版権収入などで利益を上げるようになると巨大化し、次第に手塚自身でも制御できない状態になっていた<br />『鉄腕アトム』の4年間の放映のうち手塚の原作があったのは最初の1年半だけで、スタッフが担当したその後のストーリーは人気を得るために戦いばかり描かれるようになり、手塚が好むアニメーションらしいユーモアが失われていった<br /><br />■ 低迷と復活<br /><br />アニメ制作に乗り出して以降も、手塚は漫画作品を精力的に発表していた<br />虫プロの成立時期は漫画作品もアニメと関連した企画が多くなっており、アニメーションと平行して『鉄腕アトム』原作版の連載や、日本初のカラーテレビアニメ『ジャングル大帝』に連動しての同作品リメイク版の連載、当初アニメ化の企画もあった『マグマ大使』の連載などが1963年 - 1965年にかけて行なわれている<br />他のアニメ作品と関連して『W3』連載雑誌でのいざこざが起こったW3事件も1965年の出来事である<br /><br />1966年、手塚は実験漫画雑誌『COM』を創刊する<br />白土三平の劇画作品『カムイ伝』を看板作品とする『ガロ』に対抗したもので、手塚の『火の鳥』を目玉として、石森章太郎や永島慎二などの意欲的な作品が掲載された<br />1967年には怪奇漫画『バンパイヤ』に続いて『どろろ』を『少年サンデー』に連載<br />これらは当時水木しげるによって引き起こされていた妖怪ブームを意識した作品であった<br />1968年には青年誌『ビッグコミック』（小学館）、『プレイコミック』（秋田書店）などが相次いで創刊し、青年漫画が本格的にスタートしており、手塚も『ビッグコミック』に『地球を呑む』『奇子』『きりひと讃歌』、『プレイコミック』に『空気の底』シリーズなど青年向けの作品を手がけている<br />この時期の手塚の青年向け作品は安保闘争などの社会的な背景もあり、暗く陰惨な内容のものが多かった<br /><br />一方少年誌では『ファウスト』を日本を舞台に翻案した『百物語』、永井豪『ハレンチ学園』のヒットを受け、「性教育マンガ」と銘打たれた『やけっぱちのマリア』（週刊少年チャンピオン）、『アポロの歌』（週刊少年キング）などを発表しているが、しかしこの時期には少年誌において手塚はすでに古いタイプの漫画家とみなされるようになっており、人気も思うように取れなくなってきていた<br /><br />さらにアニメーションの事業も経営不振が続いており、1973年に自らが経営者となっていた虫プロ商事、それに続いて虫プロダクション（が倒産し、手塚も個人的に1億5000万円と推定される巨額の借金を背負うことになった<br /><br />1973年に『週刊少年チャンピオン』（秋田書店）で連載開始された『ブラック・ジャック』も、少年誌・幼年誌で人気が低迷していた手塚の最期を看取ってやろうという、編集長の厚意で始まったものであった<br />しかし、連綿と続く戦いで読み手を惹き付けようとするような作品ばかりであった当時の少年漫画誌にあって、『ブラック・ジャック』の短編連作の形は逆に新鮮であり、後期の手塚を代表するヒット作へと成長していくことになった<br />さらに1974年、『週刊少年マガジン』（講談社）連載の『三つ目がとおる』も続き、手塚は本格的復活を遂げることになる<br /><br />1976年、中断されたままであった『火の鳥』が『マンガ少年』（朝日ソノラマ）の創刊によって再開<br />1977年時点で、手塚は『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』『火の鳥』『ユニコ』『MW』と6つの連載を抱えていた<br />文庫本ブームに伴い手塚の過去の作品も続々と再刊されており、さらに同年6月からの講談社『手塚治虫漫画全集』刊行によって、手塚は「漫画の第一人者」、「漫画の神様」という評価を確かなものにしていった<br /><br />■ 晩年<br /><br />1980年代になると、幕末から明治までの時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』（ビッグコミック）や、アドルフ・ヒトラーを題材に一般週刊誌で連載された『アドルフに告ぐ』（週刊文春）など、青年漫画の新たな代表作を手がけることになる<br /><br />100歳まで描き続けたいと言っていたが、1988年11月、中国上海でのアニメーションフェスティバルからの帰国と同時に体調の悪化により半蔵門病院に入院し、胃癌と判明する<br />病床でも仕事を続け、昏睡状態に陥るようになってからも意識が回復すると「鉛筆をくれ」と言っていたという<br />このため最期の言葉のようなものは残さなかった<br />翌1989年1月21日に手塚プロ社長がお見舞いに来た時には、「僕の病状は何なんだ、君聞いてきてくれ」と頼んでいたという<br />胃癌ということは伏せて聞いた事を話すと「そうか…」と一言言ったという<br />1月25日以降、昏睡状態に陥る<br />そして、1989年（平成元年）2月9日午前10時50分死去<br />その死によって『グリンゴ』『ルードウィヒ・B』『ネオ・ファウスト』、そして『火の鳥』などの作品が未完のまま遺された<br /><br />+ Wikipedia +<br /><br /><object width="320" height="265"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/jKyK0W7vL-o?version=3&amp;hl=ja_JP"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/jKyK0W7vL-o?version=3&amp;hl=ja_JP" type="application/x-shockwave-flash" width="320" height="265" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true"></embed></object><br /><br /><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18774429" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">ブッダ全12巻漫画文庫/手塚 治虫<br /><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51QDB1Q447L._SL160_.jpg" border="0" /></a><br />￥6,108<br />Amazon.co.jp<br /><br /><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18774428" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">ブラック・ジャック (1) (少年チャンピオン・コミックス)/手塚 治虫<br /><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51WZ3KZQ2DL._SL160_.jpg" border="0" /></a><br />￥420<br />Amazon.co.jp<br /><br /><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18774427" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">火の鳥 全13巻セット (角川文庫)/手塚 治虫<br /><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51GVS0Z076L._SL160_.jpg" border="0" /></a><br />￥7,815<br />Amazon.co.jp<br /><br /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/120.gif" alt="王冠１" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/120.gif" alt="王冠１" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/120.gif" alt="王冠１" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/120.gif" alt="王冠１" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/120.gif" alt="王冠１" /><br />
 
</p>]]></description>  
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      <pubDate>Thu, 09 Feb 2012 00:00:00 +0900</pubDate> 
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      <title>ジュール・ヴェルヌ</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 Jules Verne<br /><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120202/15/sarasa0625/1d/d4/j/o0181027111769754857.jpg"><img src="http://stat.ameba.jp/user_images/20120202/15/sarasa0625/1d/d4/j/t01810271_0181027111769754857.jpg"  alt="$勝利まで永遠に" border="0" /></a><br />1828年2月8日 - 1905年3月24日<br />フランスの小説家<br />H・G・ウェルズとともにSFの開祖として知られ、SFの父とも呼ばれる<br /><br />■ 生涯<br /><br />フランス西部ペイ・ド・ラ・ロワール地方のナントで生まれる<br />家はロワール川の中州の一つであるフェイド島にあり、子供時代はほとんどこの家庭で過ごした<br />そして、この人里離れた孤立が彼の想像力と兄弟との絆を強くした<br />また、この当時のナントは交易が盛んで、異国情緒豊かな港町であった<br />そのようなナントに訪れてくる船乗りたちの冒険話もヴェルヌの冒険心と想像力をかきたて、彼は海の英雄になることを夢見たという<br /><br />父のピエールは地元の弁護士であり、論理的な人であったという<br />その性格を示す逸話として、自宅から事務所までにかかる歩数を知っていたことや、望遠鏡で教会の時計を見て、常に正しい時間を確認して行動していたなどといったものが残されている<br />このような父の性格はヴェルヌ作品の登場人物にも受け継がれることになる<br />（例：『月世界旅行』のインピー・バービケイン）<br />母のソフィーは船乗りの家系の出で、父とは対照的で、ヴェルヌに「まるで竜巻のよう」とたとえられるほどの想像力の持ち主であった<br />ヴェルヌは5人兄弟の長男であるが、特にヴェルヌと同じく海に憧れを持つ弟のポールと仲が良かった<br />弟はのちに海軍に入隊したが、長男のヴェルヌは父の後を継ぐために法律を勉強した<br />学校はナントのリセに行った<br />成績は普通であったが、特にラテン語をよくし、数学好きであった<br />また、運動も得意だったため、学校の外では「広場の王様」とあだ名されたという<br /><br />11歳のときに、初恋の相手であるいとこのカロリーヌにサンゴの首飾りを買ってあげようと、密かに水夫見習いとしてインド行きの帆船に乗船した<br />しかし途中で父に見つかってしまい、「もうこれからは、夢の中でしか旅行はしない」と言ったという逸話は有名である<br /><br />1848年、ヴェルヌは父の勧めによりパリの法律学校へ進んだ<br />そこでヴェルヌは多くの芸術家たちと交流した<br />これは、ヴェルヌの才能を見た母が、パリにいた親戚に取り計らったことによるものであった<br />パリでの生活は充実したものではあったが、金銭面においてはあまり余裕のない生活であったらしい<br />そのうちアレクサンドル・デュマ父子と出逢い、劇作家を志すようになった<br />大デュマがプロデュースした、ヴェルヌの処女作『折れた麦わら』は好評で、2週間上演された<br /><br />その一方でヴェルヌは、自然科学の論文も読んでいた<br />そのような中1840年代に、彼のお気に入りの作家であったエドガー・アラン・ポーが、小説に科学的事実を取り入れることによって、物語に真実味を持たせるという技法を示し、これに興味を持つようになっていった<br /><br />友人フェリックス・ナダールが製作した気球に触発されて、1863年に書いた冒険小説『気球に乗って五週間』が大評判となり、流行作家となる<br />そして彼は編集者のジュール・エッツェルと契約を結んで､生涯にわたって科学・冒険小説の傑作を生み出してきた<br /><br />1883年にはアミアン市会議員に当選し死ぬまで在職した<br />晩年には甥に襲撃されたこともあり､悲観主義的傾向が強くなったと言われるが､近年偶然に発見された初期の作品『二十世紀のパリ』（作中で文明批判を展開）に見るように、悲観主義的な一面は当初から持ち合わせていたようである<br /><br />+ Wikipedia +<br /><br /><object width="320" height="265"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/0CUSNXeJMIo?version=3&amp;hl=ja_JP"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/0CUSNXeJMIo?version=3&amp;hl=ja_JP" type="application/x-shockwave-flash" width="320" height="265" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true"></embed></object><br /><br /><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18773866" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">地底旅行 (岩波文庫)/ジュール・ヴェルヌ<br /><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51TMZNTDHFL._SL160_.jpg" border="0" /></a><br />￥945<br />Amazon.co.jp<br /><br /><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18773865" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">海底二万里 (創元SF文庫)/ジュール・ヴェルヌ<br /><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/21X0WYCGEQL._SL160_.jpg" border="0" /></a><br />￥987<br />Amazon.co.jp<br /><br /><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18773864" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">八十日間世界一周 (創元SF文庫)/ジュール・ヴェルヌ<br /><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/61yyIzmEtEL._SL160_.jpg" border="0" /></a><br />￥714<br />Amazon.co.jp<br /><br /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/162.gif" alt="台風" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/162.gif" alt="台風" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/162.gif" alt="台風" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/162.gif" alt="台風" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/162.gif" alt="台風" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/162.gif" alt="台風" />
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/sarasa0625/entry-11153100570.html</link>  
      <pubDate>Wed, 08 Feb 2012 00:00:00 +0900</pubDate> 
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      <title>聖徳太子</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 しょうとくたいし<br /><br /><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120201/11/sarasa0625/55/80/j/o0215023511767576084.jpg"><img src="http://stat.ameba.jp/user_images/20120201/11/sarasa0625/55/80/j/t02150235_0215023511767576084.jpg"  alt="$勝利まで永遠に" border="0" /></a><br /><br />敏達天皇3年1月1日（574年2月7日） - 推古天皇30年2月22日（622年4月8日）<br />飛鳥時代の皇族。政治家<br />用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女<br /><br />推古天皇のもと、摂政として蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った<br />また、仏教を厚く信仰し興隆につとめた<br /><br />敏達天皇3年（574年）、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた<br />橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・小姉君であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった<br />厩戸皇子の父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹であり、厩戸皇子は異母のキョウダイ婚によって生まれた子供とされている<br /><br />幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている<br /><br />用明天皇元年（585年）、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した（用明天皇）<br />この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた<br />用明天皇2年（587年）、用明天皇は崩御（死去）した<br />皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫（敏達天皇の皇后）の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした<br />厩戸皇子もこの軍に加わった<br />討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した<br />討伐軍は三度撃退された<br />これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った<br />討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された<br />軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した<br /><br />戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた（崇峻天皇）<br />しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した<br />崇峻天皇5年（592年）、馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた<br />その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた（推古天皇）<br />天皇家史上初の女帝である<br />厩戸皇子は皇太子となり、推古天皇元年（593年）4月10日に、摂政となり、馬子と共に天皇を補佐した<br /><br />同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した<br />推古天皇2年（594年）、仏教興隆の詔を発した<br />推古天皇3年（595年）、高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた<br /><br />推古天皇8年（600年）新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる<br /><br />推古天皇9年（601年）、斑鳩宮を造営した<br /><br />推古天皇10年（602年）、再び新羅征討の軍を起こした<br />同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した（新羅の刺客に暗殺されたという説がある）<br />後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった<br />この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある<br /><br />推古天皇11年（603年）12月5日、いわゆる冠位十二階を定めた<br />氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる<br /><br />推古天皇12年（604年）4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」（『日本書紀』）いわゆる十七条憲法を制定した<br />豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している<br /><br />推古天皇13年（605年）、斑鳩宮へ移り住んだ<br /><br />推古天皇15年（607年）、小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書[9]を送った<br />翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた<br />日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」（「皇帝　倭皇に問ふ」）とある<br />これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」（「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す）とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」としている<br /><br />厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年（615年）までに三経義疏を著した<br /><br />推古天皇28年（620年）、厩戸皇子は馬子と議して『国記』、『天皇記』などを選んだ<br /><br />推古天皇30年（622年）、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった（日本書紀では、同29年2月5日（621年））<br /><br />+ Wikipedia +<br /><br /><object width="320" height="265"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/KrxTeL1tEr8?version=3&amp;hl=ja_JP"></param><param name="allowFullScreen" value="true"></param><param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/KrxTeL1tEr8?version=3&amp;hl=ja_JP" type="application/x-shockwave-flash" width="320" height="265" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true"></embed></object><br /><br /><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18757500" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">日本書紀（上）全現代語訳 (講談社学術文庫)/著者不明<br /><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/21AW4CRQZDL._SL160_.jpg" border="0" /></a><br />￥1,208<br />Amazon.co.jp<br /><br /><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18757499" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">日本書紀（下）全現代語訳 (講談社学術文庫)/著者不明<br /><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/21HZAR77B4L._SL160_.jpg" border="0" /></a><br />￥1,208<br />Amazon.co.jp<br /><br /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/211.gif" alt="霧" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/211.gif" alt="霧" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/211.gif" alt="霧" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/211.gif" alt="霧" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/211.gif" alt="霧" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/211.gif" alt="霧" /><br /><br />
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/sarasa0625/entry-11152006524.html</link>  
      <pubDate>Tue, 07 Feb 2012 00:00:00 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>山崎 烝</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 やまざき すすむ<br /><br /><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120201/11/sarasa0625/7c/05/j/o0228022111767554001.jpg"><img src="http://stat.ameba.jp/user_images/20120201/11/sarasa0625/7c/05/j/t02200213_0228022111767554001.jpg"  alt="$勝利まで永遠に" border="0" /></a><br /><br />天保4年（1833年）頃? - 慶応4年1月13日（1868年2月6日）<br />新選組諸士調役兼監察<br />摂津国大坂出身（山城国出身という説もある）、生家は医家または薬種問屋とされる<br /><br />■ 新選組<br /><br />文久3年末頃、新撰組に入隊、元治元年頃から隊士の動向調査や情報探索の任についている<br />非常に有能であり、入隊後数ヶ月で上役を任され、後に隊内では異例の諸士調役・監察を掛け持ちするようになる<br />京・大阪に土地勘があり、道案内としてたびたび幹部達を大坂にひきつれていったという<br />また、大阪の金持ちの商人の事情にも通じていたため、新選組の中では重宝されたようだ<br />香取流の棒術にすぐれていたというが、実際に使用していたものは長巻であるとの説もある<br />性格は温順にして無口<br />背高く、色黒（色白という説も）な美男子だったという。<br />京都で隊士の診療を行っていた松本良順から医学を学び、「我は新選組の医者なり」と言って周囲を笑わせたという記録が良順の書に残っている<br />またそこには、「（近藤）勇の最も愛する者なりし」と記述されている<br /><br />元治元年6月の池田屋事件の時は諸士調役兼監察として島田魁らと長州藩士や尊攘過激派の探索にあたり、見事、尊攘過激派の一人、古高俊太郎宅・枡屋を突き止めている<br />枡屋は宮部鼎蔵ら大物志士の密会所となっていた<br />宮部の下僕・忠蔵を尾行し枡屋を突き止めたようだ<br />その結果、新選組は尊攘派の御所焼き討ち・天皇長州連れ去りの計画を未然に防ぐ事に成功した<br />しかし、この武功に対して、各隊士たちが報酬を受けているにも関わらず、山崎の名前が書かれていないため、子母沢寛や司馬遼太郎の創作との説もある<br />（ただし、報酬を受けている島田魁の日記には探索したメンバーに山崎の名前が入っている）<br />司馬の小説などでは、事件の際、山崎が薬屋に変装し事前に池田屋に潜入して探索し、浪士の刀を隠して、突入前には戸の錠を開けたことになっている<br />しかし、山崎からの確報があったならば最初から主力が池田屋に向かったはずであり、山崎の名は報奨者名簿にも無いことから、実際は屯所残留組だったと推定される<br />しかし創作における彼の活躍は、それだけ彼の監察･探索能力が高かったことが証明されている<br /><br />その後、禁門の変や第一次長州征討、第二次長州征討などの重要な戦いでも戦況の推移や状況報告に能力を発揮し、近藤勇や会津藩に正確な情報をもたらした<br /><br />慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いの最中、重傷を負う<br />1月13日江戸へ撤退の際、富士山丸の船上で死亡、紀州沖で水葬されたとされている<br />その際、近藤勇は自身も肩の鉄砲傷がひどく寝込んでいたが、別れを告げるべく正装し代表として追悼の言葉を読んだという<br />近藤は山崎を上述の通り、信用し可愛がっていたようで、涙を流し、土方歳三に「山崎は良い奴だった あいつはァこんなに大勢の人に見送られて幸せだ」ともらし、船長に深く頭を下げて礼を言ったという<br />ただ船に同乗していたであろう永倉新八や島田魁らが残した手記では、船上での山崎の死や水葬に関して何故か一切触れていない<br /> 一説には、鳥羽・伏見の戦いで銃で撃たれ死亡したともいわれ、陸上で埋葬された可能性もあるなど、その死ははっきりとせず謎に包まれている<br /><br />新選組隊士の山崎林五郎（林新次郎）の従兄弟（義兄弟）で、林五郎の実家の家系図により、妻が居たとの話もあるが、そもそも林五郎と本当に血縁関係があったのかどうかも証明されておらず定かではない<br />子母澤寛の書物では林信太郎の従兄弟とされているが、おそらく林新次郎との混同と思われる<br />(山崎烝水葬説を明治のずっと後になって林信太郎が語ったと記されているが、その頃彼は既に亡くなっていた)　<br />また、山崎林五郎と山崎烝の父の名が同名にすぎず、他人との見解もある<br /><br />司馬遼太郎の小説『新選組血風録』では赤穂浪士から脱落した奥野将監の子孫として描かれているが、これは創作である<br /><br />■ 日記<br /><br />2004年に『山崎烝 取調日記』が見つかった<br />中身は隊士名簿や慶応年間の出来事を書いたメモ帳らしいが、詳しくは現在解読中である<br />同年末、日野市ふるさと博物館にて初めて公開された<br /><br />+ Wikipedia +<br /><br /><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18757234" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">新選組密偵 山崎烝 (広済堂文庫)/島津 隆子<br /><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51G1hVqiw0L._SL160_.jpg" border="0" /></a><br />￥660<br />Amazon.co.jp<br /><br /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/025.gif" alt="波" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/025.gif" alt="波" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/025.gif" alt="波" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/025.gif" alt="波" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/025.gif" alt="波" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/025.gif" alt="波" />
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/sarasa0625/entry-11151993631.html</link>  
      <pubDate>Mon, 06 Feb 2012 00:00:00 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>フランク・ポドモア</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 FrankPodmore<br /><br /><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120127/13/sarasa0625/a3/51/j/o0200029511758120359.jpg"><img src="http://stat.ameba.jp/user_images/20120127/13/sarasa0625/a3/51/j/t02000295_0200029511758120359.jpg"  alt="$勝利まで永遠に" border="0" /></a><br /><br />1856年2月5日-1910年8月14日<br />イギリスの著述家　社会主義運動で有名　<br /><br />超常現象の信憑性には個人的に確信を抱き、終生関心を持っていた　<br />しかし思想としてのスピリチュアリズムには疑問を抱き、社会主義者ロバート・オーエンに傾倒　<br />現在の英国の労働党の基礎となった「ファビアン・ソサエティ」創立に協力し、「スピリチュアリズムのよきライバル」と言われた　<br /><br />なおSPRには創立時から長期間関わり続け、科学的厳正さと文才で、行過ぎた超常現象賞賛に対してブレーキの役割を果たしたという<br /><br />■　年譜[編集]<br /><br />1856年2月：ハーフォードシア州エルストリー生まれ　イーストボーン・カレッジの校長トンプソン・ポドモア師の息子オクスフォード在学中からスピリチュアリズムに興味を持ち、心霊現象の研究を開始　<br />1875年から76年の間に、霊的な問題における人間性に関しての論文を多数発表　<br />1876年：心霊現象を体験し、最終的にスピリチュアリズムの現実性についての疑いを解く　<br />1877年：オクスフォードの自然科学科を首席で卒業　<br />1880年：NASでの講演中、「もはや自分はスピリチュアリストと呼ばれることはできない」と宣言　<br />1882年：SPR創立時に評議員に選ばれ、その後27年間続けた　またマイヤースと共同で名誉幹事をつとめる　<br />1883年：社会主義の討論グループに加わる　グループは翌年「FabianSociety」となり、ポドモアは自宅を本部として提供　「FabianSociety」は各地に労働組合を組織するなどの活動を開始した　<br />1886年：マイヤース、ガーニーと共同執筆で「PhantasmsoftheLiving」出版　<br />1892年：「ApparitionsandThought-Transference」発表　<br />1897年：「StudiesinPsychicalResearch」発表　<br />1900年：労働組合代表と「FabianSociety」や「独立労働党」メンバーによる「労働代表委員会」が結成される　<br />1902年：「ModernSpiritualism」発表　<br />1903年：「Spiritualism(ProandConSeries,againstWakeCook)」発表　<br />1906年：文筆活動に専念するため、25年間つとめた郵政官僚を退職　「BiographyofRobertOwen」発表　理想的社会主義者のロバート・オーエンに傾倒し、「社会主義とスピリチュアリズム双方の父」と賞賛　<br />1906年：労働代表委員会が総選挙で29名の議員を当選させ、「労働党」と改称される　<br />1908年：「TheNaturalisationoftheSupernatural」発表　<br />1909年：「TelepathicHallucination;TheNewViewofGhosts」発表<br />1910年：「TheNewerSpiritualism」発表　8月、モルヴァン丘陵（有名な保養地）の泉で溺死、54歳　同性愛スキャンダルに巻き込まれたことによる自殺説も流れた　<br /><br />+ Wikipedia +<br /><br /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/023.gif" alt="雪" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/023.gif" alt="雪" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/023.gif" alt="雪" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/023.gif" alt="雪" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/023.gif" alt="雪" />
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/sarasa0625/entry-11147404546.html</link>  
      <pubDate>Sun, 05 Feb 2012 00:00:00 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>アンドレウ・ニン・イ・ペレス</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 Andrés Nin Pérez<br /><br /><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120127/11/sarasa0625/7b/5d/j/o0224022511758023426.jpg"><img src="http://stat.ameba.jp/user_images/20120127/11/sarasa0625/7b/5d/j/t02200221_0224022511758023426.jpg"  alt="$勝利まで永遠に" border="0" /></a><br /><br />1892年2月4日生 - 1937年6月20日没<br />スペインの共産主義者、革命家<br /><br />■ 青年期<br /><br />タラゴナ県のエル・ベンドレルにて、貧しい家庭に生まれた<br />彼の父は靴職人、母は農民であった<br />ニンは第一次世界大戦の少し前にバルセロナに移った<br />彼はいっとき世俗主義的無政府主義者の学校で教師をしたが、すぐにジャーナリスト、そして活動家となった<br />1917年、彼はスペイン社会労働党（PSOE）に参加した<br /><br />ニンはスペイン人労働運動のリーダーとなり、スペイン共産党（PCE）の創設者の一人となった<br />その結果、彼はソビエト連邦でコミンテルンとプロフィンテルンのために働き、一時期レフ・トロツキーのスタッフを務めた<br />ロシアで彼は、ソ連共産党内で地位を高めるヨシフ・スターリン一派に対抗した左翼反対派に加入した<br /><br />スペインに戻ったニンは、国際左翼反対派（ILO）の支部でレーニン主義者と自己規定するグループスペイン共産主義左翼（ICE）が結成されるのを手助けした<br />しかしながら、ICEは小さなグループでほとんど孤立していた<br />この時期のニンには、トロツキーとの間で多くの意見の不一致があった<br />スペイン社会主義青年に加入して勢力を拡大することをトロツキーがICEの指導者に助言したとき、ニンは労農ブロック（BOC）と合同することを主張した<br />BOCは共産主義運動が起源のグループだが、右翼反対派のように見えた<br /><br />■ POUM <br /><br />結局、ニンはこの件でトロツキーやILOとの関係を絶ち、ニンの主張通りに合同は進められた<br />1935年、彼はBOCの指導者ホアキン・マウリンとともに、コミンテルンに忠実なPCEに代わる共産主義党派、マルクス主義統一労働者党（POUM）を結成した<br /><br />スペイン内戦の初期の段階で、スペイン第二共和国によってカタルーニャ地域の地方政府ジャナラリターが復活されると、ニンはリュイス・クンパニィスを首長として権力移譲されたジャナラリターに司法評議員として参加した<br />スペイン共産党が共和国政府で権力を掌握するに従って、彼らは元共産党員やモスクワに従わない人々を政府から排除しようとした<br />1936年12月16日、ニンは政府を離脱し、論議を呼んだ在職にけりをつけた<br /><br />バルセロナで起きた5月事件（バルセロナ・メーデー）に続き、1937年6月16日、共産党がさらに力を持った政府は、POUMを非合法と宣言した<br />ニンやPOUM指導者のほとんどが逮捕され、マドリード近くの収容所に送られた<br />ニンはNKVDの管理下で拷問を受け、殺害された<br />ニンの殺害には「コマンダンテ・コントレラス」ことヴィットリオ・ヴィダリやヨシフ・グリグレヴィチが関わり、共和国政府の秘密警察によって6月20日に行われた、と主張する者もいる<br /><br />ある説は共産党系の国際旅団のドイツ人メンバーがナチの「解放」と偽ってニンを殺害したと示唆するが、他説ではニンは処刑のためにロシアに移されたともいう<br />とにかく、ニンの運命は関係者によって秘匿され、フアン・ネグリンの新政府に対して「ネグリン政府よ、ニンはどこだ？」（スペイン語：Gobierno Negrín: ¿dónde está Nin?）と問い詰めるPOUMの秘密キャンペーンも引き起こされた<br /><br />それに答えて共産党もプロパガンダを始め、「サラマンカか、ベルリンに」（スペイン語：En Salamanca o en Berlín）という、ニンをファシストと決め付ける中傷キャンペーンが行われた<br />サラマンカはフランコの反乱軍が支配する都市であり、ベルリンはナチス・ドイツの首都である<br /><br />+ Wikipedia +<br /><br /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/065.gif" alt="キャンディー" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/065.gif" alt="キャンディー" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/065.gif" alt="キャンディー" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/065.gif" alt="キャンディー" /><img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/065.gif" alt="キャンディー" />
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/sarasa0625/entry-11147352242.html</link>  
      <pubDate>Sat, 04 Feb 2012 00:00:00 +0900</pubDate> 
    </item> 
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