<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>
<?xml-stylesheet href="../../../../../css/rss/feedRss2.xsl" media="screen" type="text/xsl"?>

<rss version="2.0"> 
  <channel> 
    <title>学びをつくる会世話人リレーブログ</title>  
    <link>http://ameblo.jp/manabi2002/</link>  
    <description>学びをつくる会世話人リレーブログです！！</description>  
    <language>ja</language>  
    <atom:link xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom" rel="self" href="http://feedblog.ameba.jp/rss/ameblo/manabi2002/rss20.xml" type="application/rss+xml"/>  
    <item> 
      <title>北九州の旅で</title>  
      <description> <![CDATA[ <p><font size="1">　年末年始の旅でいくつも考えたことがある。つまりいい旅だった。風物などを除き、学ぶ・考えるに触れることをま</font><font size="1">とめてみた。長すぎるのが気になるのだが分けるのも気に入らない。頭部分だけで、続きボタンがあった以前の形をや</font><font size="1">れるといいのだが、どうすればいいかわからない。それで、我慢してもらって、とばしたい人にはスライドする面倒を</font><font size="1">かけるが、１度に載せる。</font></p>
<p><font size="1"><br />
</font></p>
<p><font size="1">　あづち<br />
　この年末には雪はないだろうと、旅に出ることにした。年越しをどこにするかが、この時期の旅の勘所だ。大まかに</font><font size="1">九州、長い期間ではないから北部、中心は西と決めて、往復をどうするか迷った。車で通すのは、もうくたびれそうだ</font><font size="1">。年末は高速千円もない。料金計算をして、フェリーにした。それが、予約しようとしたら、休航が入ってしまうこと</font><font size="1">がわかって、あわただしい出発を余儀なくされることになった。追い立てられながら、地図をにらんで、人が少なく宿</font><font size="1">はあるという難問と取り組んだ。平戸そのものも一部しか回っていないし、生月島もどうしても行ってみたい島だが、</font><font size="1">このあたりの島は次々に橋で結ばれているから開けてしまったかも知れない。前の九州行きの時に外して気になってい</font><font size="1">て、残っているうちでは大きいということもあり、平戸の北の大島に決めた。この島が大いに気になり出したのは、名</font><font size="1">前からだった。この大島は、的場（あるいは的山）という名が上についている。これが、何を見ていたときかアヅチと</font><font size="1">読むのだと知った。あづちは、まさに的場だから、そう読めなかったのは浅学のそしりを免れない。気になったのは、</font><font size="1">なぜあづちかということだ。もちろん姿形といった答えで満足はできない。弓の上手だといわれている信長が、安土城</font><font size="1">をなぜそう名付けたのかも気になっているのだが、岐山にちなんで岐阜と名付け天下布武を標榜した者としては、俺を</font><font size="1">標的にしろと全国を挑発したのかも知れないなどと思っている。そんな名がここにもあって、結果としては何もわから</font><font size="1">なかったが、今も気になっている。ついでに、あずちでは変換できずあづちで安土が出たから、的場の仮名遣いが今も</font><font size="1">づであると推測したというお粗末だった。<br />
　この大島の元村営今市営のフェリーが正月は欠航とまたまたわかって、民宿に連泊することになった。後でわかった</font><font size="1">のだが、もう一軒ある方に電話しなかったのは僥倖だったようで実質唯一だった。ネットで調べても、全国民宿案内の</font><font size="1">本を買っても、たいしたことはわからない。行き当たりばったりの旅のいいところでもあり、はずれると情けないこと</font><font size="1">にもなる。築１４０年のこの宿は、食いきれないほどの種々の刺身も地元の料理も、大当たりだった。<br />
　大晦日の夜、どうせ明日はゆっくりと思ってのんびりした多くの時間を、ＴＶにつかった。村、つまり島だけの放送</font><font size="1">チャンネルがある。時間で区切りながら、島の祭りを各集落ごとにかなりの時間を当てて集録してあったり、学校の運</font><font size="1">動会学芸会、総合学習の発表会など、村人ぐるみで、子どもの姿青年の姿大人の姿、膨大な量を流す。全ての中のどこ</font><font size="1">にも自分はいないという村人がいるのだろうかと思ったほどだった。正月三日に成人式だそうで、島に帰って来ている</font><font size="1">若者たちに向けてということもあるのだということだった。この中では、悪くは育ちようがないと思った。村のほとん</font><font size="1">どが見ている学習発表会で手抜きをやる生徒はいないだろう。村の中で見ていると、子どもはのびのび辺り構わずにほ</font><font size="1">って置かれているようだ。放任しながら見守るといった暖かさを感じた。教育という点からは、理想というか原型が見</font><font size="1">える。だが、ここの高校（分校）は間もなく廃校なのだそうだ。地元の子は本島へ行ってしまって、不登校などの都会</font><font size="1">の子を里親制度で受け入れて保ってきていたのだそうだ。いい成果を上げているのだが、どうしても自治体に金がない</font><font size="1">のだという。この宿も二人預かっているそうだ。<br />
　２泊となったことで、間の１日島中をくまなく回った。ガイド付きでだ。大晦日にほかに客もいないからと、家族の</font><font size="1">中に入ってしゃべっているうちに、先代当主の年寄りからかつての軍事施設の話が出て、見に行くと言ったら案内して</font><font size="1">やるということになったのだった。遠慮したのだが、どうもこの年寄りの位置が家族内でも不安定らしいことが感じら</font><font size="1">れたので、一緒に行くことにした。電動車椅子が家の前にあったので足元を心配していたのだが、かなり達者で気にす</font><font size="1">ることもなかった。むしろ、滅多に来ないところまで久しぶりに見て回れて喜んだようだ。強引に車で乗り入れたあた</font><font size="1">りは、始めて来たといっていた。用もなくなった年寄りは要するにほって置かれて暇をもてあましていて、気遣っても</font><font size="1">らえる地位を確保するために電動車椅子を使っていると見えた。その夜おかみさんに見てきた感想と一緒にこの宿が大</font><font size="1">賑わいだった頃のことを聞いたと話したら、この先代が宿を潰しそうなことをやらかして、今もその尻ぬぐいに苦労し</font><font size="1">ているという愚痴をあっけらかんと聞かされた。<br />
　老人部隊で若いのは将校だけという陸海３中隊が数だけ揃えて在島したという。三笠の艦砲もあったという砲台跡と</font></p>
<p><font size="1">か、巨大望遠鏡の掩蔽壕とか、壱岐・対馬を見通すいくつかの台地を中心に藪に半ば隠れて今でも使えそうな頑丈なコ</font><font size="1">ンクリートが残っていた。飛行場を作るはずだったという平たい場所も見た。こんな名も知られない島にも戦争の傷跡</font><font size="1">が残っている。そして意外なほど規模が大きい。地理的にだろうが、秘密性で選ばれたのかとも思った。広くはもちろ</font><font size="1">ん、島の人もほとんど知らないというし、この宿の人もこの大正１４年生まれの年寄りしか知らないと聞いた。案内板</font><font size="1">もなく、整備もされていないので、もう数年か後には、誰もわからなくなってしまいそうだ。長崎に関わっては、最近</font><font size="1">旧炭鉱の軍艦島が話題になるが、戦跡についてはあまり聞かない。長崎・佐世保という軍都・軍港を持ち、本州の西北</font><font size="1">という大陸に最も近い地理からも、もっともっと探られなければならないだろう。</font></p>
<p><font size="1"><br />
</font></p>
<p><font size="1">　猪<br />
　キャンプ場になっている岬の小屋前にタクシーがいて、どことやらの個人タクシー運転手のハンターが、十何年も通</font><font size="1">ってきているのだという。高麗雉を撃ちに来るのだが最近は猪が主になったらしい。近づくと芝生に妙な黒っぽい物が</font><font size="1">並んでいる。さらに近づくと、猪だ。小型のが４頭並べられていた。血抜きのためらしく、のど元に傷があって、斜面</font><font size="1">の下向きに頭を揃えている。押してみるとすでに固く、昨日かそれ以前の獲物らしい。戸口に鴨が１羽ぶら下でられて</font><font size="1">いる小屋の中にそのハンターが寝ていて、永い馴染みの年寄りが起こして話し始めた。それを脇で聞いているのも楽し</font><font size="1">い。呉れてやるから持ってけという。捌くのを嫌って、誰も受け取らないのだという。捨てていくと笑っていた。<br />
　島の至る所に猪出没とか、猪注意と立て札がある。泊まりを予約するときに、自転車で行くといったら、猪が出るか</font><font size="1">ら車で来いという。なんでそんな島に猪がいるのかと聞いたら、以前はいなかったが、海を渡ってきて、最近はしょっ</font><font size="1">ちゅう出てくるのだといっていたのが、どうやらほんとにほんとのことだった。その後の島でも猪に出会って、もちろ</font><font size="1">ん撃たれた奴だが、大橋を渡ってくるのかと聞いたら、海を渡ってくるといっていた。泳いでいるのを見たという人が</font><font size="1">いるそうだ。<br />
　それは３日後の生月島だが、ここも島中に立て札があって、神社への山歩きも薄気味悪かった。ここは宿取りに手こ</font><font size="1">ずってやむなく泊まった宿だったが、泊まりはもういないと言った夜中に騒がしいと思った朝、外に出てみると汚れた</font><font size="1">ピックアップが目の前に止まっていて、なにやら動く物がいて、のぞくと狭い檻に犬が数頭押し込まれていた。猟の車</font><font size="1">かと見回すと、荷台の上に黒っぽい棒が数本突き立っていて、よくよく見ると猪の脚だった。２頭のかなりの大物で、</font><font size="1">後で聞くと１００キロは軽く超えているということだった。横の駐車場の方にもう１台のピックアップが止めてあって</font><font size="1">、藪の近くで何人かがごたごたやっているので、近づいてみると、犬を押さえ込んで何かしている。のぞき込むと、猪</font><font size="1">にやられた犬の傷を縫い合わせているのだという。<br />
　口はガムテープで巻いて脚は２人ほどで押さえてはいたが、時々脚を震わせるほかは、針を立てられても騒がない。</font><font size="1">消毒薬を塗り込まれて解放されると、普通に歩いておとなしく檻に押し込まれた。檻には、よくよくすかしてみると、</font><font size="1">多くの犬が静かに押し込まれていた。三十数頭を積んでいるのだそうだ。もう１頭が出されて、こっちはもっと大怪我</font><font size="1">だという。肩２ヶ所と腋の下が大きく裂けていた。前の犬も似たところに傷を負っていた。腋の下が一番大きく２０ｃ</font><font size="1">ｍほどもあった。縫っている人は手慣れたもので、しゃべりながら、さっさと縫う。人間とは違って傷跡の見てくれな</font><font size="1">どかまわないにしても、縫合用の曲がった針を刺し羊の腸で作られているという糸を繋ぎ、実に手早い。やり方や道具</font><font size="1">は人間の場合とまったく同じだ。上側の前脚を押さえている女性が縫った結び目の上で糸を切る役をしている。手術用</font><font size="1">の薄いゴム手袋をして、針を挟む鉗子挟みを使って針を渡したり、これも手慣れている。もう一人の女性は、私は傷口</font><font size="1">見るのも怖いといって、近寄らない。２組の夫婦と男２人の一行らしい。聞くと、人間ならまず死ぬほどの怪我だとい</font><font size="1">う。また、犬は大怪我をしても、死ぬまでかかって行くともいう。そう訓練してあると、人ごとのようにあっさりして</font><font size="1">いる。麻酔は、治りが確実に遅れるから使わないともいう。多く話してくれたのは、私は慣れていないのだといったや</font><font size="1">や若い男で、玄人らしい年のいった方は口数が少なかった。手術が終わると、道具を仕舞って、獣医かと思っていた男</font><font size="1">もさっさと乗り込んで、すぐに出発していった。あんな手術道具から化膿止めの抗生物質や消毒薬までを用意している</font><font size="1">ことにも驚いた。彼らは都会の遊びのハンターではないのだ。ほんとのプロの猟師なのだ。</font></p>
<p><font size="1"><br />
</font></p>
<p><font size="1">　宗教・風俗<br />
　かくれきりしたんという言い方には注意しなければいけない、ということは知っていた。一般的には今も、そんなこ</font><font size="1">とは考えられもしていないのだが、ことは宗教であり、長い被差別のいわば怨念の歴史を背負った事柄である。生月島</font><font size="1">はかくれきりしたんの最も古い形が今に残るほぼ唯一の島といわれている。そのこともあってぜひ訪ねたいと思ってい</font><font size="1">たのだ。明治以後のいわば復活キリシタンに対して、先祖そのままを大切にするいわば正統派隠れキリシタンの人たち</font><font size="1">がいるのだと理解していた。<br />
　殉教の跡が聖地として、今は観光地として残る場所は九州西半部に多い。それらのうちやそれらには入っていない、</font><font size="1">余り大きくない有名でもない寂れたというようなところを尋ねると、沖縄先島（八重山諸島）で見たおたき・うたきと</font><font size="1">の共通性を感じてしまう。八重山ではうたきとして観光地化した標示のあるところどころか、有名観光スポットの真新</font><font size="1">しい何かのすぐ横の数ｍの藪蔭にもそれはあったし、何もない道の横の茂みの中にもあって、至る所と言えるほどだっ</font><font size="1">た。足で歩いていたから見つけたのだった。それは、岩陰や木陰藪に囲まれた暗くひっそりとしたところにあった。そ</font><font size="1">れといっても、ちゃんとした祠を置いてあるのは少なく、石がいくつか置いてあったり、何もないただ空間であったり</font><font size="1">した。墓とは関わりなく別で、人の世界ではなく、神の世界であるらしかった。八百万の神ということはこういうこと</font><font size="1">でもあるのかと思ったのだった。<br />
　そのうたき的な何かがずっと前からあって、それに殉教の事実か言い伝えが重なっているのではなかろうか、などと</font><font size="1">今回のいくつもの島では考えた。生月などではそれが残り、ほかでは信仰の薄れとともに消えていったのではないか。</font><font size="1">殉教ということが、よく言われるように見せしめの嬲り殺しだったとすれば、場所としては村に近く人の集まる所とな</font><font size="1">りそうだ。公開では残酷すぎて上の者の評判もむしろ落ちるだろうからひっそりと人知れずという場合もあったかも知</font><font size="1">れない。どちらにしろ、当時の村落がどこに開けていたものやら、人口の多少も旅人にわからない。今開けているから</font><font size="1">当時も開けていたのか、今寂しいから当時も寂しい所だったか。生月で見た一つは、海辺の崖下のどう考えても人家と</font><font size="1">は近くなさそうだった。生月にしろ八重山にしろ見た限りのそういう所は、必ず、人の参った跡が認められた。まだ萎</font><font size="1">れきってない花を見た所もあったし、花器が貧弱だが置かれていた所もあった。花よりも榊（さかき）か樒（しきみ</font><font size="1">）と思える枯れた枝が多かった。土の様子からしばらく人が来たように見えなかった所は、数年のうちには藪に飲まれ</font><font size="1">るのかも知れない。かくれきりしたんと呼ばれたかどうかは別として、そういう存在は、一島全員一地域全員、あるい</font><font size="1">は混在して紛れて、九州の特に西部では全人口の過半というほどであったともいう。それほどの広がりが、今は年寄り</font><font size="1">の一部がたまにそっと花や枝を供えるだけ、たぶんそのときには意味もわからない唱え言をいくつか口にする、という</font><font size="1">ことになっているのだろう。<br />
　生月のラストに、博物館でおらしょを聞き、納戸神やその祈りの場の復元展示も見た。その伝承が形も意味も消えか</font><font size="1">かっている解説も読んだ。隠れるためには、宗門帳に載らねばならない。表面だけの仏教信者となる。そのために、経</font><font size="1">と似たことば・調子で祈り、像も仏像に似せなければならない。つまり外から見て仏教に見えることを代々続けて、そ</font><font size="1">の解説も密にとなると、信仰というよりも伝習としか言い様のないものになるのはやむを得ない。明治になってカトリ</font><font size="1">ック本山から勧誘されたときに同じ宗教と納得しなかったということは十分にわかる。だから、カトリックになること</font><font size="1">を新たな転びと拒否したこともわかる。転んだ者と一緒の名としてかくれきりしたんと名付けられる、つまりかくれき</font><font size="1">りしたんという名を転んだ者が名乗ることを認めないということもわかる。今も教科書には区別なしに使われているの</font><font size="1">だろうが、歴史用語としてと、現在のことばとしてと、何とかしなければならのではなかろうか。少数で、消えかかっ</font><font size="1">ているとはいっても、被害被抑圧の歴史を背負った人たちが今細々ながらでも言うことに、我々は何ができるだろうか</font><font size="1">。少数民族、少数言語、消えかかる風習・伝承、多くのことを考えさせられる。歴史遺産や絶滅危惧生物などともつな</font><font size="1">がって、課題は多い。<br />
　生月（いきつき）島に関心を持ったのも、名からだった。壱岐・対馬に行くのが先になったが、計画はもっと古くか</font><font size="1">らだった。いきつきを壱岐付きとしたらどうだろうという思いつきだった。長く、コンチキ号漂流記あたりの影響だっ</font><font size="1">たのかもしれないが、船・航海術と潮流・風向とが、どうなっているのだろうという疑問を持っている。特に日本海で</font><font size="1">どうなのか、例えば、船で壱岐に行く、遣唐使船が出たという西の五島や長崎の側から行くには、どこに寄るのか、天</font><font size="1">気待ちをするのか。的場大島も地理・距離的にいいが、潮流や航海術的にとか、湾や風向きとかはどうなのか。今の速</font><font size="1">い漁船なら、壱岐までどちらからも一時間とかからないといわれる距離だが、昔はそうではなかったはずだ。ついでに</font><font size="1">いうと、日本の古代での大陸との交流の道筋を、海と船の面から納得したいと、強く思っている。例えば、遣隋使遣唐</font><font size="1">使船は、行ったきりで帰らない。往復の力・時に耐えられる造船はできなかったろう。帰って来た遣隋使遣唐使の乗っ</font><font size="1">てきた船はどうなったのか。同じく、遣倭船も帰らないとすると、その造船法は当然伝わったはずだ。長期の航海だか</font><font size="1">ら、造船・修理技術者も乗ってきているはずで、帰化しなかったにせよ技術を伝える暇は十分にあった。その交流から</font><font size="1">、何が生まれていたのだろう。実に興味津々だ。</font></p>
<p><font size="1"><br />
</font></p>
<p><font size="1">　風車<br />
　あちこちに風車があった。風力発電だ。ある所にはまとまって何基も十何基もある。北海道も東北もそうだが、人の</font><font size="1">少ない丘の上は、至る所というほどだ。どこでも、かなりの風が吹いていても、動いていないのが必ず何基もあること</font><font size="1">が不思議だった。ところで、例えば大島で聞いた所では、建てたのは何とかいう本土の会社で、九州電力に売っている</font><font size="1">のだという。そして、建てることを、地元のほとんどの人が知らなかったという。この風力発電のある所で話を聞ける</font><font size="1">ときは、必ず聞くことにしていることがある。ぼくは、一度懲りたことがあるのだ。東北の山にスキーで登ろうとした</font><font size="1">とき、この風車の近くで寝て、降雪中で、風を避けて離れた尾根の裏側であったにもかかわらず、夜中に移動せざるを</font><font size="1">得なかった。今回も音などの被害を聞いてわからなかったが、近くには牛舎もあることだし、やがては問題が顕在化す</font><font size="1">るのではなかろうか。地元のことは地元でという地方自治がある。所有権者など利害関係者で決めるという民事の法が</font><font size="1">ある。ダムや干拓やで現在は利害関係者というものの範囲が問題になるようになってきていることだが、景観などは法</font><font size="1">的に問題になる前に白砂青松はほとんど消えてしまった。国や自治体がやるには、公示などの手続きが必要だが、会社</font><font size="1">だと、通る人もいない建設地に立て札すればおしまいとなっているのだろうか。民営化路線とはそういうことも計算さ</font><font size="1">れているのだろうか。</font></p>
<br />
<p><font size="1">　太宰府と大野城<br />
　地理勘が働かないために最終日は時間の余りができたので、太宰府に寄った。天神様はどうでもいいから、かつての</font><font size="1">記憶でとてもよかったと思う観世音寺を探した。適当に入り込んだら磨崖仏への道標があった。それをたどって山道に</font><font size="1">入り、車を置いて歩いて探したが、山の上まで行っても見つからない。諦めて観音寺を見た。鐘は新しくできたと聞い</font><font size="1">た国立博物館に出張していて空だったが、寺はいい雰囲気だった。戒壇院は記憶になかったが、さすがに落ち着いたい</font></p>
<p><font size="1">い建物だ。機嫌を直して府庁跡を見て、展示館に寄って聞いた。ルートが違っていた上に標示もなく整備されていない</font><font size="1">から見つからないだろうという。なんで道標なんかあるのだと言いたくなった。この次の宿題にするしかない。<br />
　かつて来たときには、府庁跡などは整備されていなかったが、ずいぶん遺構が復元されていた。礎石の列をつくずく</font><font size="1">と見て疑問が湧いた。藤原純友が焼いた後の再建だということだが、礎石の表面というのか、柱を受ける面がきれいに</font></p>
<p><font size="1">磨かれているものが多い。凸凹になっているのは、後に荒れたのだろうと考えながら、あちこちで見た礎石で、面がき</font><font size="1">れいなのがあっただろうかと思った。時代はあれこれだが、皆建物が失われた後に礎石も痛んだのだろうか。国分寺な</font></p>
<p><font size="1">どは数百年古いはずだが、どこの跡もきれいな面を見たように記憶していない。高さがまちまちなのを疑問に思った記</font><font size="1">憶もある。巨大な礎石をいくつかだけ掘り起こしたのか、低い石の方が削られたのか。柱の底面の方を凸凹に合わせた</font><font size="1">と考えると、細工は簡単かもしれないがやはり不安定だろうし、石の加工ということは石器時代から手がけて来たこと</font><font size="1">なのだし、となる。柱と礎石がどうなっていたのか、また謎が増えた。<br />
　展示館で資料をもらってずいぶん知らないことを教えられた。さっき行った山は大野城の一角だった。その大野城と</font><font size="1">太宰府とキイ城との防御のトライアングルがあって、土塁でつながれていたなどということはまったく知らなかった。</font><font size="1">しかも、大野城の規模の大きさにも驚いた。また、朝鮮式築城が各地にあること、それが日本の築城の始まりだったこ</font><font size="1">と、改めて日本と大陸とのつながりの深さを知った。<br />
　任那とか白村江の戦いとか、あったとかなかったとかよくわからないが、当然それとの関わりで水城や防人と同時期</font><font size="1">、壬申の乱の直前ごろ、ということは斉明女帝や中大兄の命令でなのだろう。守ろうとした相手は新羅なのか百済なの</font><font size="1">か、このときの日本の仏教勢力はどちら系だったのだろう。さっぱり納得いかない。今度なるべく早くこのあたりを探</font><font size="1">りに来てみよう。水城も復元されているらしいことだし。</font></p>
<p><font size="1"><br />
</font></p>
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/manabi2002/entry-10435439325.html</link>  
      <pubDate>Sat, 16 Jan 2010 10:43:07 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>私の０９映画ベスト１０作品！</title>  
      <description> <![CDATA[ <p>日本映画ベスト１０作品…①沈まぬ太陽、②サイドウェイズ、③ディアドクター、④いのちの山河～日本の青空Ⅱ、⑤ゼロの焦点、⑥大阪ハムレット、⑦おとなり、⑧のんちゃんのり弁、⑨南極料理人、⑩重力ピエロ、佳作;ヴィヨンの妻、ニセ札、蟹工船、</p>
<br />
<p>外国映画ベスト１０作品…①セントアンナの奇跡、②扉をたたく人、③グラン・トリノ、④カティンの森、⑤ミルク、⑥ウェイブ、⑦母なる証明、⑧ポー川のひかり、⑨クリーン、⑩人生に乾杯、佳作;英国王給仕に乾杯、愛を読む人、縞模様のバジャマ、正義のゆくえ</p>
<br />
<p>ベスト・ドキュメンタリー…①泣きながら生きて、②子供の情景、③キングコーン、佳作;こまどり姉妹がやって来る</p>
<br />
<p>懐かしの名画…①祇園祭、②忍びの者、③三たびの海峡、佳作;ちいさこべ、真空地帯、赤と黒</p>
<br />
<p>そのうち今年Ｎｏ．１の映画は４１年ぶりに観た『祇園祭』[中村プロ～日本映画復興会議編]の感想を書いておきます。</p>
<br />
<p>…製作は'６８年。私は大学３年の秋に新宿[ミラノ座]で観たことを思いだした。…大学祭で講演に呼ぶ松尾章一氏[法大]との打ち合わせの後に新宿に出た！</p>
<br />
<p>内容は、祇園祭復活に賭ける京町衆の闘いを描いていくもの。主人公の染め物職人の&quot;手&quot;には感動したことを思いだした。その頃観た&quot;祇園祭&quot;[劇]も初めて大がかりの舞台装置で感動的だったが、土一揆の村の惨状・祇園祭を準備する町衆・京都の町を行く山車、それを新吉[町衆]とあやめ[河原者]の心情を背景に描くのは&quot;やはり映画で&quot;なければダメだと思った。&quot;暮らしを大火、災害から守り戦のない世を作りだそうという民衆の闘いがその&quot;手&quot;と&quot;水の流れ&quot;を[青]で、&quot;火と血を燃える熱情&quot;を[赤]として、&quot;差別を許さない清新な思い&quot;を[白]の祭衣装に仕立て…フランス三色旗に見立てられていて感激したことを思いだした！</p>
<br />
<p>時に、京都府庁舎に&quot;憲法を暮らしの中に&quot;と垂れ幕が降ろされ蜷川革新府政・美濃部革新都政の第一期という革新の上げ潮の中で上映され、京都府知事選と絡んで妨害の中、日本映画復興会議が&quot;映画人の良心&quot;にかけて上映し、私も特別鑑賞券を売り歩いたことまで思いだした！</p>
<p><br />
中村(萬屋)錦之助が映画化をを考えたのが６０年代初め。日本映画界はヌーベルバーグ、やくざ路線と変わる中で斜陽の一途だった。数年かかって、映画人の良心と文化を守る取り組みが花開く。観ていると、あんな役で渥美清が、佐藤オリエ、高倉健、美空ひばりが出演していて、みんなでこの映画成功のために駆けつけていることに驚く。</p>
<p><br />
原作[西口克巳作]は大学４年の卒論完成後の就職直前[春休み]か就職してすぐに読んだような気がする。</p>
<p>とにかく４０年以上たって、再び観られて良かった！…ＶＴＲやＤＶＤになっていないのが惜しまれる作品！</p>
<br />
<p>※フィルムセンター[京橋]で名画が１本５００円で観られます。<br />
他、新文芸坐[池袋]などでも名画２本が１０００円で観ることができます。地域のいい映画を観る会なども探せばあります！<br />
</p>
<br />
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/manabi2002/entry-10420872268.html</link>  
      <pubDate>Sun, 27 Dec 2009 21:50:05 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>たまには映画鑑賞でもしよう！…私のオススメ作品</title>  
      <description> <![CDATA[ <p> 今年も余すところ１ヶ月。学校現場では秋の行事(新型インフルエンザの流行の中で大変だったことだろう。先生方の苦労が見える気がする…)も終わり、学期末を迎える時期だろう。今、世の中は&quot;必殺仕分け人&quot;による事業仕分けが終わったところで、それについての議論が起こっている。私は勿論&quot;教育・文化・科学&quot;関係の仕分けを注目していた。岩辺さんとアニマシオン活動を進めているので、とりわけ「子どもの読書活動」についての議論の方向が気になっていた。仕分け人が&quot;効果があるのか&quot;と斬り出した。この切り口はドリル訓練で学力テストの点数をあげる&quot;学力観さながら。それに対して文科省の役人が&quot;教育とはもともと即効果が出るものではない…&quot;と応したが、このやりとりには驚くばかりか怒りが沸いた！…しかし、・捻出のパフォーマンスという面はあるとしても、大勢の前で議論が展開されることは自民党時代にはなかったことで民主主義としての一定の前進だと思う。…現場で悪戦苦闘する教師たちには、この議論はどう映ったのだろう？…学力テスト縮小、教員免許更新を止めて新たな制度を作ると打ち出されているが…。その一方で満足に休暇すら取れない日々の忙しさの中、教員の時間休暇を止め一日単位とする[東京都]などの提起もされている。今こそ&quot;くらしと命を守る&quot;労働組合の提起する番だと思う。</p>
<p>  ここに&quot;いのちとくらし&quot;を守り、その懍とした生き方を問うた映画を紹介したい。一つは&quot;沈まぬ太陽&quot;[山崎豊子原作]…この映画上映の初日の舞台挨拶に立った渡辺謙は涙を流して公開までの干渉・妨害[ＡＥＲＡ参照]を語ったという。映画人の良心をみた想いだ！（原作者の山崎豊子さんは、最新刊の外務省機密漏洩事件を題材にした『運命の人』で毎日出版文化賞特別賞を受けた）。物語の終末で再びアフリカに向かう恩地[主人公]に希望を見出だす。<br />
 …恩地の思いはかってのアフリカでの日々の視点から権力争いに翻弄され不遇な待遇を怒るというより、一瞬にして生命[家族など]を亡くした遺族の視点から、ともに今後を見守ることを指命として生きようとする。…原作は全編恩地の視点から描かれている。会長室篇でも国見が新たな改革者＝支援者として登場するが、政治的策謀と権力争いに恩地・国見が巻き込まれていく…。…映画と原作の視点はぶれることなく、恩地が軸に描かれていく。少し映画の方に脚色もあるが主人公の思いと本質はかわらない！…会長室編[原作]では、政治的策謀や権力争いが克明に描かれ、恩地と国見の姿勢や動揺、怒りを良く伝えている…。やはり小説はいくらでも書けるので、それがよく書き込まれる。&gt;<br />
 しかし、映画ならではのシーン[場面]が靖国神社前でシーン。…国見・恩地の視点は国家[国益]ではなく民衆に向いていたことが圧巻！あの場面に凝縮した映画づくりは上手い…と思い、思わず涙した！<br />
 国見役の石坂浩二は原作[脚本]をよく読み込んでいるなと感心した。それと香川照之の演技もいい。香川を一枚の写真(組合活動をしたために一日中姿勢を崩さず座っているだけの仕事に追いやられ…)を励みに閑職というよりイジメに耐える役どころが出色。それと対をなすのが西村雅彦の役どころかな…。<br />
 映画のラストの渡辺謙のナレーションだけは観客に委ねてほしいと感じた。</p>
<p> もう一作は、&quot;いのちの山河～日本の青空Ⅱ&quot;。 この作品は日本で初めて高齢者医療費無料と乳幼児死亡ゼロを成し遂げた旧沢内村[岩手県]の故・深沢村長の下で&quot;いのちの行政&quot;に取り組んだ姿を描く。<br />
 以前、教科書[小学社会６年/教育出版]にも掲載された。陸の孤島と呼ばれた無医村・沢内村の雪との闘いから&quot;いのちとくらし&quot;を守る闘いが描かれていく。映画づくり的には注文もあるが、事実の記録として大勢に観てもらいたい作品の一つだ。</p>
<p> これから上映される「戦場でワルツを」[シネスイッチ銀座など]・「カティンの森」[岩波ホール]などの作品や「キャピタリズム～マネーは踊る」が良い作品のようだ。<br />
 また、変わったところでは、①&quot;気になる日本映画たち&quot;～５日まで[池袋新文芸坐]。なかでも１日に上映される「青い鳥」(重松清原作)がいい！②&quot;つながり映画祭～それでも明日は…&quot;(障害者週間に合わせた映画とトーク・セッション)[渋谷アップリンク １２月３日～１１日]③&quot;映像の中の炭鉱&quot;～１１日まで。オススメ作品は３０日上映の「三たびの海峡」(帚木蓬生原作)。[ポレポレ東中野]<br />
</p>
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/manabi2002/entry-10399785074.html</link>  
      <pubDate>Sun, 29 Nov 2009 21:32:44 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>９月例会「いま、教師はどっちに向かって成長していったらよいのだろうか？」</title>  
      <description> <![CDATA[ <p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt; VERTICAL-ALIGN: baseline; mso-layout-grid-align: none; punctuation-wrap: simple" class="MsoNormal"><font size="3"><font face="ＭＳ 明朝"><span style="mso-ascii-font-family: 'Times New Roman'; mso-hansi-font-family: 'Times New Roman'; mso-bidi-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-ansi-language: EN-US; mso-fareast-language: JA">学びをつくる会の例会のことです。９月例会は「いま、教師はどっちに向かって成長していったらよいのだろうか？」というテーマで佐藤隆さんからお話があり、このことでたくさんの人からの発言がありました。佐藤さんは若い教師の自死が続いている現状から、学校と教師の現状と打開の方向について提起しました。その中で全国各地の若い教師たちのサークル活動の紹介があり、そこでは、研究の水準ということより、集まれば「丸ごと自分を受け止めてくれるという安心感」があることだと言われました。これを学校の中にくみこんでいくことが学校の再生につながるとされました。</span><span style="LETTER-SPACING: 0.1pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-ansi-language: EN-US; mso-fareast-language: JA" lang="EN-US"><br />
</span></font></font></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt; VERTICAL-ALIGN: baseline; mso-layout-grid-align: none; punctuation-wrap: simple" class="MsoNormal"><font size="3"><font face="ＭＳ 明朝"><span style="mso-ascii-font-family: &quot;Times New Roman&quot;; mso-hansi-font-family: &quot;Times New Roman&quot;; mso-bidi-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ansi-language: EN-US; mso-fareast-language: JA">　これをうらづけるように参加した若い教師たちからは「学校全体が評価にさらされている」「自分の学級ビシッと度がチェックされる」「学校にはなかなか聞いてくれる人がいいない」などという学校の現状の声がだされました。また「いい教師にめぐまれている」という方もいました。いろいろです。</span><span style="LETTER-SPACING: 0.1pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-ansi-language: EN-US; mso-fareast-language: JA" lang="EN-US"><br />
</span></font></font></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt; VERTICAL-ALIGN: baseline; mso-layout-grid-align: none; punctuation-wrap: simple" class="MsoNormal"><font size="3"><font face="ＭＳ 明朝"><span style="mso-ascii-font-family: &quot;Times New Roman&quot;; mso-hansi-font-family: &quot;Times New Roman&quot;; mso-bidi-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ansi-language: EN-US; mso-fareast-language: JA">　そして、「学びのわ」にくれば「聞いてくれる人がいる」「ベテランの先生の話を聞くことで大きな力になる」などという声があり、経験が多い教師からは、それぞれの「教育観」「教師観」が語られていました。私は司会をしていたのですが、これからの「学びをつくる会」の方向性をさぐる上でたくさん考えることがありました。</span><span style="LETTER-SPACING: 0.1pt; mso-hansi-font-family: Century; mso-ansi-language: EN-US; mso-fareast-language: JA" lang="EN-US"><br />
</span></font></font></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="mso-ascii-font-family: &quot;Times New Roman&quot;; mso-hansi-font-family: &quot;Times New Roman&quot;; mso-bidi-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;; mso-ansi-language: EN-US; mso-fareast-language: JA"><font size="3" face="ＭＳ 明朝">　１０月は、「小学校英語」について考えます。</font></span></p>
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/manabi2002/entry-10356425603.html</link>  
      <pubDate>Sat, 03 Oct 2009 21:00:31 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>教科書採択のこと</title>  
      <description> <![CDATA[ <p>  先月の続き。３日に足立区議会文教委員会が開かれました。これを傍聴しました。８月の教科書採択のことが話される、ということで行きました。共産党の区議から教育長に「９教科１６種類、それぞれ数社ある教科書を全部読んだのか」という質問がありました。教育長は「全部はとても読めません。現場の先生方からの調査委員会報告、選定委員会の報告などを参考にしながら読みました」という答弁を引き出しました。ところが、そのあと自民党の区議から「私は教師の意見を聞くことに反対だ。教育委員の責任で決めてもらいたい」と発言があり、これに対して教育長は「２年後には本採択があります。その時には、今の議員の意見をくみいれた採択制度を検討したい」と答えてしまったのです。２年後にむけて教科書をどう決めたらよいか、子どもたちにどんな教科書を渡すか、などを議論していかなければならないと思います。 </p>
<br />
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/manabi2002/entry-10335599530.html</link>  
      <pubDate>Fri, 04 Sep 2009 21:11:39 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>教育委員会は茶番劇</title>  
      <description> <![CDATA[ <p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt; VERTICAL-ALIGN: baseline; mso-layout-grid-align: none; punctuation-wrap: simple" class="MsoNormal"><font size="3"><font face="ＭＳ 明朝"><span style="mso-ansi-language: EN-US; mso-fareast-language: JA; mso-ascii-font-family: &quot;Times New Roman&quot;; mso-hansi-font-family: &quot;Times New Roman&quot;; mso-bidi-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;"> 教科書採択が問題になり、８月１１日、地元足立の教育委員会を傍聴しました。足立では、区議会自民党が「教員の意見を聞く調査委員会、選定委員会は無駄。そんな予算は削れ」などと主張していました。形の上では、調査委員会も選定委員会も開かれ、報告書も教育委員会にあげられましたが、実際の本番の会議では、この報告書はまったくの“無視”。委員が勝手に発言していました。そして各委員の発言も「レイアウトがいい」「写真が多くてわかりやすい」「音符が大きくて見やすい」など小学生が言うような「理由」をつけて、だからこの社の教科書がいい、というばかりです。しかもテーブルの上に置かれたメモを棒読みするばかりです。明らかにつくられたシナリオの上におこなわれている田舎芝居のようです。教育委員長は「何回も教科書を読んだ」と言いましたが、それは無理です。９教科１６種目、７０冊以上の本をこんな短時間で「何回」も読めるはずがありません。</span><span style="LETTER-SPACING: 0.1pt; mso-ansi-language: EN-US; mso-fareast-language: JA; mso-hansi-font-family: Century" lang="EN-US"><br />
</span></font></font></p>
<p style="MARGIN: 0mm 0mm 0pt" class="MsoNormal"><span style="mso-ansi-language: EN-US; mso-fareast-language: JA; mso-ascii-font-family: &quot;Times New Roman&quot;; mso-hansi-font-family: &quot;Times New Roman&quot;; mso-bidi-font-family: &quot;ＭＳ 明朝&quot;"><font size="3" face="ＭＳ 明朝">　結局、今回は、歴史教科書は「つくる会」教科書は採択されませんでしたが、教員や区民の意見は聞かないぞ、という強い意思表示のように思いました。二年後の採択にむけての運動が必要だと思いました。各地ではどうでしょうか。</font></span></p>
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/manabi2002/entry-10318816573.html</link>  
      <pubDate>Tue, 11 Aug 2009 20:57:59 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>　このところのこと</title>  
      <description> <![CDATA[ <p>　しばらくご無沙汰してしまった。<br />
　時には開けてみるのだが、大谷さんが１度はいったきり、誰も書かない。これは困ったことだ。<br />
　ご無沙汰の間何をしていたかというと、１つは国語平和サークルでの「少年Ｈ」の教材分析を新しい形でやったのを直しに直した。おおげさに言えば、教材分析とは作品観と子供観とをどう結びつけるかの具体案作りだということを、それらの言葉を使わず気取られもしないで、言う中身をわかってもらおうとしたのだ。術語、慣用句、決まり文句というものは、簡単に通じ、意味不明なものだ。<br />
　１つは板橋の退教の「私たちの時代」という年刊文集に載せる文を、これもずいぶん手をかけて書いた。１０回を超すこの文集は、かつて寄稿者が少なかったのだが、身の回りの小さいことをこそ断片でいいから書こうと呼びかけたのがよかったのか（そう勝手に自負しているのだが）、ここ数年書き手が増えた。それでしばらく送らなかったら今年は少ないということを聞いて、急いで送ることにした。そう決めたら、今までとは違う形でという思いが強くなって、ずいぶん苦しむことになったが、これもぼけ防止と楽しむことにして苦労した。前に載せた文章をほめてくれた人がいたのが、木に登る豚ほどでなくともやはりかなりのいいプレッシャーになった。同人誌的なこういう文章、つまり知った書き手のその人自身に関わる文章は、広くヘ向けたものとまた違う深い読み取りがなされる。それだけ書くのには悩む。このブログも</p>
<p>、ある程度そういう面を持っている。<br />
　１つは今年の学テの分析だが、分析までまだいけずにいる。学テの問題は去年からコピー防止のためか、ストレートには取り込めなくしてある。それをあれこれ工夫して取り込むのにずいぶん時間がかかった。問題は複写コピーの切り貼りのほうがよほど簡単なのだが、初めのときに取り込んでからパソコンで操作できるようにしておく良さを捨てられずに、馬鹿らしいと思いつつ時間をかけてしまう。<br />
　１つは、１つと仕事風に数えるようなことではないが、化膿に苦労した。そもそもは２月のスキーで久しぶりの緊張から締めすぎた靴で３時間もいたのが原因だ。鬱血した左足先が３月に化膿してしまった。膿み切るのを待って破って膿の出口を作って、軽く済んだ。だが安心してそれを放って置いたのがまずく、４月に深い化膿を始めてしまった。最高潮がちょうどゴールデンウィークの畑仕事の最中だったが、ついには立っていられず仕事を諦めるまでになった。熱が出ているようだったが、体温計は電池切れだった。医者は休みだし、探して行ったところでどうせ打つ手は特にない。化膿は待つしかないのだ。化膿とは、実に長い苦しいつきあいをしてきている。それでも色が変わってから数日待って、カッターナイフと木綿針を焼いて消毒して出口を切り込んでみたが時期尚早、さらに数日我慢してやっと膿が噴き出した。一気に楽になったところで帰京になった。切断したぼくの足先の断面は組織が再構成されて複雑なのだろうか、普通の筋肉組織での化膿よりずいぶん厄介だ。今もまだ足を出して風呂に入っている。<br />
　最後の１つは、そのし残した畑仕事だ。５月末に４日だけの暇に行って、中２日猛烈働いた。１日は６時から６時、間に２時間の食事作りと休み。次の日は、６時からかかって気付いたら２時になっていて、朝昼兼帯の飯を食って３時には畑に出たが、もう体が動かなかった。それでも、かなりよく手を入れられた。ほとんどの苗の植え付けと種まきを終え、一応の除草も、これまた一応の木の刈り込みも、毛虫退治も済ませた。数日置いて６月初めの少し長い暇で、梅の実が大きくなるか毎日見ながら、今度はややのんびりと、だがよく働いて、梅雨までのことは梅の収穫だけになった。今採った方が確実なのだが、少し色づくのを待ちたいのだ。その数日で全落果の恐れがあるのだが、今年もまた賭ける。</p>
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/manabi2002/entry-10278330743.html</link>  
      <pubDate>Thu, 11 Jun 2009 10:46:53 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>老化とつきあうパソコン</title>  
      <description> <![CDATA[ <p>　目がかすんで仕方がない。パソコンどころか本でも、おぼろで、痛いし、あけていられない感じにさえなってきた。眼科に行ったら、眼底血圧までとった上で、老化での疲れ目ですねと、あっさり言われてしまった。かわいい女医さんが、静かに軽く言うのだ。１０分でもなのだと、縋りついても、そうですと言う。目薬さして休み休みにしろと駄目を押された。<br />
　文庫本は見にくいので、単行本にしてから何年か経つが、それもつらいとなるとこの先どうなるのか。パソコンでなくペンと紙で書くことはもう考えられない。メモから下書きぐらいはできるかもしれないが、下書きを見ながらそれなりの細かさの文字で清書するということは到底できない。<br />
　目がもっとも疲れるのはパソコンだが、疲れることはやめるという選択と、使わなければもっと弱くなるだろうからやった方がいいという選択と、答えのあるはずはたぶんないだろうと勝手に判断して、使う方にした。見易い大きさと濃さの字でやることは、パソコンを始めたときから気をつけてはいたのだった。こんどは画面の枠や背景の色、選択したときの色、文字の色、といったものの組み合わせを、徹底してやり直してみた。特に文字は、ポイントを３０ぐらいまで上げるか、３００％ぐらいに拡大するか、思い切ってでかくした。<br />
　縦書きのＡ４ページ全面を１画面で見て見易い、つまり編集し易い、というのが夢だ。これができると、２段組にした１段分で書き綴ればストレスは生じない。<br />
　どうやら、１ｍ以内に近づかなければ楽なのだということが決め手になりそうで、そこを基準に組み合わせを仮に決めてみた。当然のことだが、１５インチのノートはもちろん、１９インチのディスプレイでも、見える範囲が狭くなり過ぎた。これを根本的に解決するには、大画面にするしかない。幸いにも、今液晶ディスプレイは安くなっている。ネットで見たり、近くの店に見に行ったりして、何なら中古でもいいかと、秋葉原に行っても見た。迷っているうちに値段の方が急激に下がっていく。中古よりずっと安い新品も出てくる。ますます迷う。<br />
　さらに迷わせられることも入ってきた。今売られている大きいディスプレイはワイドばかりで、縦幅はほとんど変わらない。縦書きを使いたいぼくとしては、３０インチといったよほどの大画面でないと、うまくいかない。だがそれは買う気も起きない値段だ。画面全体を枠ごと縦長にできるのがあるということを知った。早速探したら、実際うまくやれるのが、あることはある。割高だ。おまけに画面の中身が横向きでは、何の意味もない。Ｖｉｓｔａなら画面を縦に回転できると息子に教えられた。早速店頭で試してみても、できない。やっとビデオカードだとかグラフィックボードだとかいうもので操作できるらしいことがわかった。それを組み込んであるパソコンならできるということなのだ。ところが、そのものがかなり高い。ディスプレイ自体の半分ぐらいもする。もちろんノートに組み込むことはできない。あれこれ探していたら、縦長に置き換えられるソフトがあるということを知った。ソフトの特許を持ってがんばっているというところの試用版を入れて使ってみたら、いい調子に縦画面ができた。<br />
　さらに探し回っているうちに、回転させられる脚なら、パソコン自体はどれでもいいのだということがわかってきて、安い脚も見つけた。おまけのようにパソコンには、たいてい背中に取り付け用の統一的な規格のねじ穴があけてあることも知った。脚を買ってきて、まるで違う位置で取り付けられているぼくのディスプレイの脚を外してみたら、ちゃんと別のねじ穴が現れて、ちゃんと取り付けられて、すんなり回転してくれた。試用ソフトで中身も回転して、じつに、いい。<br />
　だが、１９インチのワイドではない画面では、縦にしても、それほど、感激するほど、縦に長くはいるわけでもないのだった。２２か２４インチのが欲しい。だが、それは１９インチに比べると、ずっと高い。さらにソフトの方がもっと問題だった。試用期間が終わると、次に繰り返しての試用はできないようなのだ。何度やり直しても、動かなくなってしまった。<br />
　とりあえず広い画面だけを手に入れよう、中身の縦はそのうちと考えて、また秋葉原に見に行った。すると新品で価格コムの半額に近い２２インチの緊急値下げを見つけてしまった。１０％のポイントがつく。その横にビデオカードが安売りされていて、ポイント分に少し足すだけで買えてしまう。画面回転可能を確かめたときには、もう、二つそろえて手に入れるしかなかった。これで、ノートのほうはあきらめるとしても、デスクのほうはなんとかなるはずだ。<br />
　配送料をケチりたいのと、早くセットしてみたいのとで、意気揚々というにはくたびれながら持って帰った。映り具合を確かめ、脚を取り替えて回転させ、パソコン本体に組み込まれていたカードを抜いて新カードを入れ換えるという初めての作業をこわごわやって、さあどうだ。すべて英語の表示に悩みながら、画面は見事に回転した。３６ポイントで１行２０字の１０行がはいる。これなら２ｍ離れていても大丈夫だ。机の向こう端ぎりぎりにディスプレイを置いて、机の前に楽に座って、測ってみると、ちょうど１ｍ。実に見易い。さて今度は画面の調整などが必要なとき、身を乗り出さなくて済むようにするにはリモートコントロールが必要になるのだろうか。<br />
　１つしかしかない座卓の９０ｃｍ平方にディスプレイ２台とノートパソコンを載せるのが大変だ。この机は親父が結婚する前から持っていたという、戦災を免れた唯２つの家具の１つなのだ。はみ出させたり、三面鏡のように斜めにしたりと工夫したが、作業スペースが足りなくなる。デスク用のキーボードが大きなやつでテンキーというぼくには要らない部分までついている。これを小型に換えれば何とかなりそうだ。翌日２つの用事の間の時間を使って、また秋葉に行って、ノート用のキーボードと同じような幅で薄い新品を探して１０００円で買った。ついでに、コードが邪魔なので無線に換えたマウスの調子が悪いから、古いタイプのを中古５０円で買った。無線マウスは、我が家の周囲だけなのか、わけのわからない電波が飛び回っているようで、変な動きをして気になる。帰って面積の譲り合いをしてみると、相変わらずはみ出したり一部重なったりはしているが、何とか納まった。作業するにもかなり余裕が出て楽になった。これで環境整備は、（今のところ）万全だ。このところ半月ばかり飲むことを忘れていたが、夜は祝杯を挙げるぞ。</p>
<p>　</p>
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/manabi2002/entry-10223930940.html</link>  
      <pubDate>Sat, 14 Mar 2009 11:00:49 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>スキーは新調したが</title>  
      <description> <![CDATA[ <p><font size="1">　何年かぶりに、新しいスキーを買った。今使っているものが壊れたわけでもなく、大きな不満があるわけでも</font><font size="1">ないから、無駄遣いになる。多少、いや大いに気が咎めるのだが、この先どれだけ滑るかも気になって、買い込</font><font size="1">んだ。カービングスキーというタイプ、鱗ソールというものに、どうしても乗ってみたくなったのだ。もちろん</font><font size="1">、靴を変えられない以上、そんなに変わるという期待は持てないのだが、雪のない天気を眺めてぼんやりしてい</font><font size="1">るうちに、今のうちにという気になった。<br />
　締具がまた問題で、ぼくの靴に合うものが今も出てこない。何年も使っていない別のやつから外して付け替え</font><font size="1">るしかない。そんな腐ったような締具を付け替えるなどということを、店でやってくれるだろうか。仕方がなけ</font><font size="1">れば久しぶりに自分で苦労することになるかもしれないが、ずいぶん面倒なことだ。<br />
　馴染みの店員がいるいくつかの店ももう今はないから、いっそ別の店でと思って、松本で目を付けていた店に</font><font size="1">行った。案の定、望み通りのスキーも締具もなく、条件順位を順次に下げて、いっそやめるかという思いと戦っ</font><font size="1">て、次次善のものを買った。持っていった締具と靴を見てもらって、付け替えることも納得してもらった。<br />
　さて、雪が降らないのだ。積もっていれば、家の前からでも試しにはけるのに、うらめしい。早速行ってみた</font><font size="1">ゲレンデのこちこち斜面は、思った通りで、抑えが効かず苦しいばかり。天よ、頼むから、３０ｃｍでいいから</font><font size="1">、積もらせてくれ。３・４日の暇ができたら、どこか雪のあるところに行けるだろうか。</font></p>
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/manabi2002/entry-10207265696.html</link>  
      <pubDate>Thu, 12 Feb 2009 19:32:07 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>野火止用水</title>  
      <description> <![CDATA[ <p><font size="1">　雪がなくてスキーにも行けずという暇になると始まるいつもの乱読の途中で、驚き慌てた。玉川上水について</font><font size="1">設計図の段階で「取水口を羽村とし」「武蔵野台地の尾根筋を、ほぼ最短距離で東へ進んで」と述べられている</font><font size="1">のだ。すぐに発行年と初出年とを見た。０２．９と、０２．２で、ほっとした。ぼくの秘かな発見よりかなり後</font><font size="1">なのだ。いや、考えていたのは同じ頃か。特にどうこう驚くほどのことでもないのはもちろんだが、やはり気に</font><font size="1">なるものだ。どこにどんな文献があろうが、あることを知っていようが、どうせ読みはしなかっただろうから、</font><font size="1">何を気にすることがあるのかと思うが、気になってしまうのだから仕方ない。自分なりの新発見と思っていても</font><font size="1">、当たり前のことなのだったら、単なるもの知らずという惨めなことになってしまう。尾根筋という語が決定的</font><font size="1">な発想なのだ。<br />
　新人物往来社０２．９刊の松浦節著「伊奈半十郎上水記」という本だ。同題の編を書き下ろしの２編で囲んだ</font><font size="1">３編仕立てで、この編は「歴史読本」に発表され、歴史文学賞を受けているという。奥付を見たついでに参考文</font><font size="1">献を見ると、かなりの資料に当たっている。<br />
　さらに先を読むと、拝島の段丘に水路が乗った後真っ直ぐ東の田無に向かわず北東の砂川に向かうのは野火止</font><font size="1">用水のためだということが、あの智恵伊豆といわれた松平信綱との伊奈半十郎の攻防の中で、証拠立てられて述</font><font size="1">べている。この水路のゆがみは、地図を見れば一目瞭然というようなことで、ぼくもずいぶん迷ったことだった</font><font size="1">。拝島から野火止への方が直線的で、本流と見えるのだ。思い出してみると、このことの検証だけのために走り</font><font size="1">回りはしなかったのは確かだ。だが、ぼくが武蔵野台地の尾根ということに思い至ったのは、両側の水流を谷頭</font><font size="1">まで詰めて、一番高いところが東西に並んでいるということからだった。そしてそこには玉川上水があったのだ</font><font size="1">った。残堀川以外にこのラインを横切る窪みはない。ぼくは自分の脚で、目で、考えてきたのだ。そこから思う</font><font size="1">と、著者は地図上での考えを進めたのではなかろうか。南側の野川水系がどこまで浸食しているかを実地に見て</font><font size="1">いないのかと思った。あとがきを読むと、国分寺あたりに住んでいるようなことがわかった。すると、地理勘は</font><font size="1">あるはずと思えるのだが・・・・。<br />
　この作では、優れた測量技師を手に入れ、開発もできない原野を売名含みで拝領し、自領への上水の設計がで</font><font size="1">きるとそれを延ばした形の江戸への上水を公費で作らせる、と描く。となると、さすがは智恵伊豆、一挙両得か</font><font size="1">一石二鳥かすごいものだと言いたくもなる。特に誰にも害は与えず、江戸にとっては喫緊の水不足も解決し、し</font><font size="1">かも自分は大儲け。すべて内密に、裏取引もして、といったところで、それはどこにもあることともいえる。息</font><font size="1">子の代に伊奈郡代家が潰されたことが、次の作には書かれているが、それはまた別だ。<br />
　玉川上水を描いた小説は「玉川兄弟」といったか、取水口を府中・福生と失敗して羽村まで上がっていく筋が</font><font size="1">あったが、あれはどういう資料によったものだろうか。今も、このことはかなり信じられているようだが。当時</font><font size="1">の測量術というものがどれだけのものだったかわからないのがはがゆいが、府中からの取水で上げられると考え</font><font size="1">て失敗し次に福生と試行錯誤を繰り返すという経過には、かなりのリアリティーを感じる。信綱が確保した測量</font><font size="1">技術者が、時間をかけたにしろ、どうして設計できたのだろう。１ｋｍで１ｍといったわずかな勾配を、どうや</font><font size="1">って測量したかの実際を知りたい。江戸と多摩川水流の高低差を、気圧計・高度計もなくて、何十キロもを三角</font><font size="1">測量的に測れるのだろうか。どこに立ってどこまで見通せたのか、平らとしか思えない森林に覆われていたであ</font><font size="1">ろうこの台地でどんな作業をしたのだろう。よく見た航空三角測量の標識を思い浮かべながら、不思議でたまら</font><font size="1">ない。著者松浦氏によると、信綱は一切の書類などを隠滅したということだが、それはなぜだろう。隠滅という</font><font size="1">こと自体の信憑性はどうなのだろう。玉川上水の設計施工にはまだまだ謎がありそうだ。どんな人がこれを解く</font></p>
<p><font size="1">のだろうか。解かれた真相はどんな様子なのだろうか。</font></p>
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/manabi2002/entry-10206685843.html</link>  
      <pubDate>Wed, 11 Feb 2009 19:02:44 +0900</pubDate> 
    </item> 
  </channel> 
</rss>
