<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>
<?xml-stylesheet href="../../../../../css/rss/feedRss2.xsl" media="screen" type="text/xsl"?>

<rss version="2.0"> 
  <channel> 
    <title>コラム『自分学』　～公認会計士試験合格者の物理学的コラム～</title>  
    <link>http://ameblo.jp/haruomi-watashi-jibun/</link>  
    <description>すべての人に共通してワタシほど分からないものはないでしょう。 経済学・物理学・心理学・哲学などを通して私・浅路の発信したいことを綴っています。過去のコラムは予告なく修正・更新されることがあります。その上でご意見・ご感想をお待ちしております。</description>  
    <language>ja</language>  
    <atom:link xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom" rel="self" href="http://feedblog.ameba.jp/rss/ameblo/haruomi-watashi-jibun/rss20.xml" type="application/rss+xml"/>  
    <item> 
      <title>＃３４３　死後はあるのかないのか、冥福は祈れるのか祈れないのか</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 　<strong>死後はあるのか、それともないのか</strong>。<br />
<br />
　確かに私たちの<strong>肉体は</strong>、死ねばたいてい荼毘（だび）に付しますので、<strong>灰とひとつまみの白骨だけ</strong>になってしまいます。といってもこれはあくまでも日本古来からの風習です。<br />
　では、<strong><font color="#ff0000">ワタシ</font>というものも死ねば無くなってしまうのでしょうか</strong>。<br />
<br />
　実際にアンケート調査結果があるそうです。聞いた話ですが、面白い集計結果とのことです。<br />
<br />
　アメリカ人への調査結果は、「死後はある」という回答が多数だったそうです。<br />
　次に中国人への調査結果は、「死後はない」という回答が多数だったそうです。<br />
　では、<strong>日本人に同じ質問</strong>をしたらどんな結果が出たかと言えば、<strong>「死後は無い」</strong>という回答が多数だったそうです。<br />
<br />
　ところで、<strong>著名人が亡くなると</strong>報道関係者は口を揃えて<strong>「ご冥福をお祈りいたします」</strong>と言います。皆さんも通夜や葬式に訪れては「ご冥福をお祈りいたします」と言うのではないでしょうか。<br />
　少し心を落ち着かせて、「冥福」という言葉についてじっくり考えていただきたいのです。<br />
<br />
　「冥福」とは、<strong>「冥土の幸福」</strong>を略した言葉です。<br />
　そして、「幸福」の意味はよく分かっていらっしゃるでしょう。<strong>「冥土」の意味</strong>はズバリ申し上げれば、<strong>「死後の世界」</strong>のことを言います。ただ、なぜ「冥土」と言うのか、ご説明するとかえって混乱を招きかねませんので、今回は割愛させていただきます。<br />
<br />
　お気づきいただきたいことは、<strong>アンケートでは「死後は無い」と回答</strong>していながら、<strong>死後の世界があることを前提としている言葉</strong>である「冥福」という言葉を<strong>故人に向かって言っている矛盾</strong>が起こっている、しかもほとんどの方がこの<strong>自己矛盾に気づいておられない</strong>、ということです。<br />
<br />
　それ以外にも、<strong>「<font color="#ff0000">ワタシ</font><font color="#009900">が死んだら、灰や遺骨を海にばら撒いてくれ</font>」と遺言</strong>する人があります。まるで、死んだ後もなお灰や遺骨と一緒に<font color="#ff0000">ワタシ</font>が行動している、<strong><font color="#ff0000">ワタシ</font>に死後があると心の底では思っている</strong>というようにしか考えられません。<br />
<br />
　こんなにも世間中が「冥福を祈る」と言う中で、<strong>ある報道キャスター</strong>の口からは、<font color="#0000ff">私・浅路</font>は「冥福を祈る」という言葉を<strong>聞いたことがありません</strong>。あまりにも聞けないため、検索エンジンで検索したほどです。そうしてヒットしたブログには、次のような内容の意見が書かれていました。<blockquote>
＞　<em>ＺＡＲＤの坂井泉水さんが亡くなった時には、「冥福を祈る」みたいなことを言っていたが、松岡農水大臣が自殺した時に「冥福を祈る」と言わずに追悼の意を示さないのは、屍に鞭を打つようなものだ。</em></blockquote>
　実は、<font color="#0000ff">私・浅路</font>の記憶では、坂井泉水さんが亡くなった時にも「冥福を祈る」など聞きませんでした。<br />
<br />
　このキャスターは、<strong>なぜ「冥福を祈る」と言わない</strong>のでしょうか。実は、２通りの理由が考えられます。<br />
<br />
　１つが、<strong>「死後は無い」という信念</strong>があり、かつ「冥福」という言葉の意味からすれば「冥福を祈る」と言うことは<strong>自分の信念に反する</strong>ため、という理由です。<br />
　もう１つが、<strong>「死後はある」とは考えているものの</strong>、私たちがどれだけ「冥福」を祈ろうとしも<strong>どうすることもできない</strong>と考えているため、という理由です。
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/haruomi-watashi-jibun/entry-10586294018.html</link>  
      <pubDate>Mon, 05 Apr 2010 21:52:16 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>＃３４２　はるか昔から「囚人のジレンマ」ゲームをプレイしている</title>  
      <description> <![CDATA[ 　<strong>論より証拠</strong>、という言葉があります。<br />
<br />
　<strong>「前世なんかがあるものか。だったら証拠を出してみろ」</strong>と、前世や過去世の存在を<strong>とうてい信じられない</strong>人は多いでしょう。<br />
　あるいは、「自分は人の前世が見える」と豪語し、自分以外の人の前世をリアルに語る人もいるようです。インチキくさいですが、それらを<strong>聞いたから前世があると信じている</strong>、という人もあるでしょう。<br />
<br />
　いずれも、<strong>証拠を通して前世や過去世のあるなしを判断</strong>していると言えます。<br />
<br />
　一方、私たちはこの世に生を受けましたが、出生地もバラバラ、両親もバラバラ、容姿もバラバラ。これらを結果と見たときに、<strong>よりによってこんな生まれ方になった原因は何なのか</strong>、どうすれば分かるでしょうか。<br />
<br />
　ここで大事になるのが、<strong>生命観</strong>であります。<br />
　私たちの肉体は有限であり、生命もまた肉体の誕生と共に始まって終わるのだから有限、と世間中が思っています。しかし、先ほどの問いに答えようとすれば、とうとうと流れる大河のような<strong>生命が過去世から存在</strong>し、その生命が<strong>過去世でやってきたアクション</strong>（行為）がこの世になって結果を引き起こしている、としか考えようがないのです。<br />
<br />
　こちらは、<strong>論を通して前世や過去世のあるなしを検討</strong>しています。<br />
　じゃあ両親はどういう位置づけになるというのかといえば、私たちがこの世に生まれるという結果を引き起こすのに<strong>手助けした存在（縁）</strong>に該当するのです。<br />
<br />
　ところで、私たちは過去世とか前世と聞いても連想するものは、過去世はエジプトの女王だったとか、戦国武将の足軽だったとか、その程度でしょう。<br />
　ところが、<strong>日本の思想界から絶大な支持を得ている『歎異抄』</strong>には、私たちの連想と<strong>桁違いの生命観</strong>が書き残されています。（弟９章） 
<blockquote>＞　<em>久遠劫（くおんごう）より今まで流転（るてん）せる苦悩の旧里（きゅうり）はすてがたく、</em></blockquote>
　さすがは思想書。難解な言葉がたくさん使われています。とてもすべてを説明することはできませんが、<strong>「久遠劫」</strong>だけは説明させてください。<br />
<br />
　「劫」とは、時間の単位です。<strong>一劫は４億３千２百万年</strong>を言います。<br />
　とすると<strong>「久遠劫」</strong>となると、<strong>気の遠くなるような遠い昔</strong>、<strong>何億年×何億年</strong>。これほどの期間を『歎異抄』は問題にしていることが分かります。<br />
　確かに、結果には必ず原因があり、その原因を結果と見てさらに原因を追究する、ということを繰り返していけば、私たちの<strong>生命は始まりのない始まりからこの世まで続いている</strong>と考えてこそ自然です。<br />
<br />
　そう申し上げても、<strong>「前世があるとは思えない。だいたい、記憶がないではないか」と反論</strong>される方が非常に多いでしょう。<br />
　それでは、私たちの幼少時代の記憶はありますか。なければ、私たちには幼少期はなかったというのでしょうか。<strong>記憶がないことをもって存在しないことの証拠とすることはできない</strong>のです。<br />
<br />
　結局、何が言いたいのか。そして、何が目的で過去世や前世の話をしたのか。<br />
　過去世があるということより、私たちは<strong>はるか昔から「囚人のジレンマ」ゲームを気づかぬうちにプレイ</strong>し、今もその真っ最中にいると知らされます。はるか昔から続いているという生命観に立ち、<strong>正直に生きる大切さ</strong>を知っていただきたいのです。
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/haruomi-watashi-jibun/entry-10584498175.html</link>  
      <pubDate>Fri, 02 Apr 2010 22:40:24 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>＃３４１　私たちの誕生の時は肉体の誕生の時なのか、それとも</title>  
      <description> <![CDATA[ 　どうして<font color="#ff0000">ワタシ</font>は、日本に生まれたのだろう。<br />
　どうして<font color="#ff0000">ワタシ</font>は、昭和や平成の時代に生まれたのだろう。<br />
　どうして<font color="#ff0000">ワタシ</font>は、このような体を持って生まれたのだろう。<br />
<br />
　この<strong>疑問を科学的思考に立って「原因」を追究しよう</strong>として真っ先に思いつくのが、<strong>両親が「原因」だとする考え方</strong>です。<br />
<br />
　ここで忘れてはならないのが、<strong>原因が同じ</strong>ならば<strong>結果も同じ</strong>、<strong>原因が異なれば結果も異なる</strong>、ということです。<a href="http://http//ameblo.jp/haruomi-watashi-jibun/day-20100329.html" target="_blank">もし両親が「原因」だとすると、<strong>同じ両親</strong>（すなわち同じ「原因」）<strong>から生まれてくる子ども</strong>（すなわち「結果」）は<strong>同じでなければなりません</strong></a>
。<br />
　現実はどうかと言えば、私たちもよくよく思い知らされているように全く違います。<br />
<br />
　そこでこんな反論が出てきそうな気がいたします。あくまでも両親は「原因」ではあるが、<strong>その時その時の両親の状態が違ったため</strong>に、<strong>きょうだいに違いが現れる</strong>のではないか。<br />
<br />
　その時その時の両親の状態とは例えば、年齢や、体調や、仲の良し悪しであります。<br />
　母親が、初産の後になってタバコの味を覚えて喫煙するようになった。妊婦になってもなおタバコはやめられず、その中で子どもが育っていった。きょうだいの間で違いがあってもおかしくありません。<br />
　経験則で、第１子と第２子以降とを比べると、第２子以降のほうが成長が早いと言われます。理由と考えられている説を語るのは割愛させていただきます。<br />
<br />
　なるほど、きょうだいの間に違いが現れても別に不思議なことはありません。しかし、<strong>それでも拭い去れない疑問が残る</strong>のです。しかも<strong>その疑問こそが最も不可解</strong>なのであります。<br />
<br />
　どうして<font color="#ff0000">ワタシ</font>は、よりによってあんな優秀な兄の次に生まれたのか。<br />
　どうして<font color="#ff0000">ワタシ</font>は、よりによってあんな美人の妹の前に生まれたのか。<br />
<br />
　この疑問を言い出すと、今まで腹底に閉じ込めてきた疑問まで<strong>次々と噴き上がってくる</strong>に違いありません。<br />
<br />
　どうして<font color="#ff0000">ワタシ</font>は、金持ちの家の１つ隣の貧乏な家に生まれたのか。<br />
　どうして<font color="#ff0000">ワタシ</font>は、この度の就職氷河期の再来と重なる昭和末期に生まれたのか。<br />
　どうして<font color="#ff0000">ワタシ</font>は、日本という窮屈な国に生まれたのか。<br />
<br />
　もう一度立ち止まって考えてみましょう。<br />
　両親が「原因」という考え方は、<strong>「<font color="#ff0000">ワタシ</font>とはこの肉体のことだ」とする考え方</strong>と強く結びつく気がします。<br />
<br />
　そういえば、<strong>医学の進歩</strong>により、皮膚の移植・臓器の移植が可能となりました。このままの進歩が続けば、<strong>肉体の各部位をそっくり丸ごと別人のそれと取り替える</strong>ことができるのではないでしょうか。あるいは<strong>人工臓器などが製造され販売される</strong>時代が来るかもしれません。<br />
　心臓はトヨタ社製品、脚はミズノ社製品、大事な顔は近年の成長が著しいサムスン電子社製品。<br />
　こんなふうに選ぶのならば、それらの<strong>製品を選ぶ<font color="#ff0000">ワタシ</font>がいる</strong>のです。つまり、<strong>肉体とは別に<font color="#ff0000">ワタシ</font>がいる</strong>のです。ここから言えることは、<font color="#ff0000">ワタシ</font>は肉体ではありません。<br />
<br />
　ということは、どういうこと？　そういうことです。
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/haruomi-watashi-jibun/entry-10579891519.html</link>  
      <pubDate>Wed, 31 Mar 2010 23:53:11 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>＃３４０　ワタシが生まれたという結果、その原因は両親じゃないの？</title>  
      <description> <![CDATA[ 　どうして<font color="#ff0000">ワタシ</font>は、日本に生まれたのだろう。<br />
　どうして<font color="#ff0000">ワタシ</font>は、昭和や平成の時代に生まれたのだろう。<br />
　どうして<font color="#ff0000">ワタシ</font>は、このような体を持って生まれたのだろう。<br />
<br />
　私たちがこの世に生を受けたことについて、なぜ、どうして、と疑問に思うことはないでしょうか。<br />
<br />
　思えば、世間の様々な科学的学問が、なぜ、どうして、という疑問を出発点として、「結果と原因の関係」を徹底的に追究して発展しています。<br />
　このことを考えると、<strong>私たちがこの世に生を受けた</strong>ことについても同じように<strong>「結果と原因の関係」</strong>をとことん突き詰めて考える、これこそ科学的な考え方と言うべきでしょう。<br />
<br />
　そこで大事な思考は、両親がいて私たちがいるということです。<br />
<br />
　<strong>私たちが誕生</strong>したのは<strong>両親がいた</strong>からにほかなりません。どちらか一方だけでも欠けていれば、私たちはこの世に生を受けることはなかったのです。当然至極のことと思われる方もあるでしょうが、<strong>とても重要な視点</strong>ではありませんか。<br />
　<font color="#ff0000">ワタシ</font>がこの世に生を受けた、というのも１つの結果です。この<strong>「<font color="#ff0000">ワタシ</font>がこの世に生を受けた」という「結果」</strong>に対する<strong>「原因」は、両親ということになりそう</strong>です。<br />
<br />
　ここにさらに、しいて付け加えることがあるとすれば、「原因」だけがあっても「結果」は現れず、<strong>結果として現れるような</strong>環境や条件<strong>（「縁」といわれるもの）も揃って初めて「結果」が現れる</strong>、ということです。<br />
　とすれば、世界のほとんどが男尊女卑もしくはそれに近い考えを持っていますので、<strong>「原因」は父親、「縁」は母親、</strong>そして「結果」として私が生まれた、と考えるのが無難なようです。<br />
　もちろん、「男女平等」、「母親の血肉を頂いて生まれてきた」という点を重視して、「原因」は母親、「縁」は父親、そして「結果」として私が生まれた、と考えても悪くはありません。<br />
<br />
　ところがせっかくこのように考えたにもかかわらず、<strong>納得の行かないこと</strong>、<strong>説明がつかないことがあること</strong>に気づきます。<br />
<br />
　<strong>「原因」が同じならば「結果」は必ず同じ</strong>になる。<strong>「原因」が異なれば「結果」も必ず異なる</strong>。<br />
　例は極端かもしれませんが、炭素を高温高圧の環境に置けば人工ダイヤモンドができます。ダイヤモンド１つ１つにつき原子配列が異なることがあるでしょうか。<br />
<br />
　つまり、同じ両親から生まれた子どもは、この考え方によると<strong>「原因」が同じ</strong>なのですから同じ「結果」すなわち同じ子どもになる、ということになります。それはもう、<strong>性別</strong>も、<strong>身長</strong>も、<strong>好き嫌い</strong>も、<strong>賢さ</strong>も、<strong>ルックス</strong>も、何もかも同じでなければ話が合いません。<br />
　ところが現実は、きょうだいがいる場合はよぉ～く分かっていらっしゃると思いますが、性別が違うこともある、五体満足で生まれてくる子もいれば障害を持って生まれてくる子もいる、器量のいいように育つ子もいれば悪い子もいる、学力優秀に育つ子もいればとんとだめな子もいる。<br />
　いくつか同じところもあるでしょうが、<strong>何もかも同じになったためしがあるでしょうか</strong>。ＤＮＡの違いは決定的と言えるでしょう。<br />
<br />
　ということは、「原因」は父親で「縁」は母親、あるいは、「原因」は母親で「縁」は父親、という考え方は間違いのようです。つまり、別のところに「原因」を探しに行かなければならなくなってしまいました。 <br />
<br />
　え？<strong>別のところに探しに行くのはまだ早い、という反論がある</strong>みたいですので、次回聞いてみましょう。
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/haruomi-watashi-jibun/entry-10577227313.html</link>  
      <pubDate>Mon, 29 Mar 2010 23:36:17 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>＃３３９　私たちの肉体は有限なのに、「無限繰り返しゲーム」って</title>  
      <description> <![CDATA[ 　私たちは、「ウソつきは泥棒の始まり」と言い聞かされて育ったはず。ところが、「正直者はバカを見る」とたしなめる者もあります。いったい私たちはどう行動すればいいのでしょう。<br />
<br />
　そこで、<a href="http://http//ameblo.jp/haruomi-watashi-jibun/day-20100324.html" target="_blank">「囚人のジレンマ」を参考にして</a>
、<strong>「ウソつきは泥棒の始まり」が正しいのか、「正直者はバカを見る」が正しいのか</strong>、それともどちらも１つの考えでしかないのか、何らかの信頼できる結論を導き出そうではありませんか。<br />
　今回は、利得にクロースアップします。そうして仮設したマトリックスは次のとおりです。<br />
<br />
<table cellspacing="0" cols="3" rules="groups" border="1" frame="box"><colgroup><col width="181" /></colgroup><colgroup><col width="106" /></colgroup><colgroup><col width="106" /></colgroup><tbody><tr><td align="center" width="181" height="17">（Ａ社の利得、Ｂ社の利得）</td>
<td align="center" width="106">Ａは協調戦略</td>
<td align="center" width="106">Ａは裏切り戦略</td>
</tr>
</tbody>
<tbody><tr><td align="center" height="17">Ｂは協調戦略</td>
<td align="center">（＋７、＋７）</td>
<td align="center">（０、＋１２）</td>
</tr>
</tbody>
<tbody><tr><td align="center" height="17">Ｂは裏切り戦略</td>
<td align="center">（０、＋１２）</td>
<td align="center">（＋６、＋６）</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<br />
　例えるならば、大手牛丼チェーン２社が協議して「価格は足並み揃えて４００円にしましょう」と決めた、その約束を守るのを<strong>「協調」</strong>と呼び、約束を破って値下げをするのを<strong>「裏切り」</strong>と呼んでいます。<br />
　<strong>とりあえず３回ぐらい</strong>、このゲームをプレイしてもらいましょう。ただし大事なことは、相手が裏切ってもなお「協調」を選び続けるのはそれこそ愚の骨頂・「正直者はバカを見る」であります。もっとも、もう一度協議して約束しなおして、それでもなおも相手が裏切ったならば話は別ですが。<br />
<br />
　そこで理論上、次のような戦略が現実的にありえます。<br />
　１つが<strong>『オウム返し戦略』</strong>と言われるもの。相手が裏切ったら次は自分も裏切る、相手が協調に戻ったら次は自分も協調に戻る、という戦略です。<br />
　ほかに<strong>『トリガー戦略』</strong>と言われるもの。相手が一度裏切ったら自分は今後もずっと裏切り続ける、という戦略です。<br />
<br />
<table cellspacing="0" cols="4" rules="groups" border="1" frame="rhs"><colgroup><col width="28" /></colgroup><colgroup><col width="227" /></colgroup><colgroup><col width="30" /></colgroup><colgroup><col width="273" /></colgroup><tbody><tr><td align="left" width="28" height="17">①</td>
<td align="left" width="227">Ａ社：「協調」→「協調」→「協調」</td>
<td align="left" width="30">→</td>
<td align="left" width="273">Ａ社の利得：　＋７＋７＋７　＝　＋２１</td>
</tr>
<tr><td align="left" height="17"><br />
</td>
<td align="left">Ｂ社：「協調」→「協調」→「協調」</td>
<td align="left">→</td>
<td align="left">Ｂ社の利得：　＋７＋７＋７　＝　＋２１</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<br />
<table cellspacing="0" cols="4" rules="groups" border="1" frame="rhs"><colgroup><col width="28" /></colgroup><colgroup><col width="227" /></colgroup><colgroup><col width="30" /></colgroup><colgroup><col width="273" /></colgroup><tbody><tr><td align="left" width="28" height="17">②</td>
<td align="left" width="227">Ａ社：「協調」→「協調」→「裏切り」</td>
<td align="left" width="30">→</td>
<td align="left" width="273">Ａ社の利得：　＋７＋０＋６　＝　＋１３</td>
</tr>
<tr><td align="left" height="17"><br />
</td>
<td align="left">Ｂ社：「協調」→「裏切り」→「裏切り」</td>
<td align="left">→</td>
<td align="left">Ｂ社の利得：　＋７＋１２＋６　＝　＋２５</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<br />
<table cellspacing="0" cols="4" rules="groups" border="1" frame="rhs"><colgroup><col width="28" /></colgroup><colgroup><col width="227" /></colgroup><colgroup><col width="30" /></colgroup><colgroup><col width="273" /></colgroup><tbody><tr><td align="left" width="28" height="17">③</td>
<td align="left" width="227">Ａ社：「協調」→「裏切り」→「裏切り」</td>
<td align="left" width="30">→</td>
<td align="left" width="273">Ａ社の利得：　０＋６＋６　＝　＋１２</td>
</tr>
<tr><td align="left" height="17"><br />
</td>
<td align="left">Ｂ社：「裏切り」→「裏切り」→「裏切り」</td>
<td align="left">→</td>
<td align="left">Ｂ社の利得：　＋１２＋６＋６　＝　＋２４</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<br />
<table cellspacing="0" cols="4" rules="groups" border="1" frame="rhs"><colgroup><col width="28" /></colgroup><colgroup><col width="227" /></colgroup><colgroup><col width="30" /></colgroup><colgroup><col width="273" /></colgroup><tbody><tr><td align="left" width="28" height="17">④</td>
<td align="left" width="227">Ａ社：「協調」→「裏切り」→「協調」</td>
<td align="left" width="30">→</td>
<td align="left" width="273">Ａ社の利得：　０＋１２＋７　＝　＋１９</td>
</tr>
<tr><td align="left" height="17"><br />
</td>
<td align="left">Ｂ社：「裏切り」→「協調」→「協調」</td>
<td align="left">→</td>
<td align="left">Ｂ社の利得：　＋１２＋０＋７　＝　＋１９</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<br />
　結論は、<strong>時機を見て裏切った者が一番得をする</strong>場合もある、<strong>「正直者はバカを見る」</strong>、になるのです。<br />
　しかしこれはたった３回しかゲームを繰り返していません。このようにプレイ回数が有限回数のものを「有限繰り返しゲーム」と言います。ならば、無限でプレイできたら・・・。「無限繰り返しゲーム」をするのです。<br />
<br />
　実は、証明するまでもなく遠い昔にすでに結論は出ていたのです、<strong>共に協調</strong>すること、<strong>「ウソつきは泥棒の始まり」</strong>であると。証明されず、語り継がれていたものですから、これをフォーク定理と言われています。<br />
　ところが、<strong>私たちの肉体は有限</strong>です。<strong>無限繰り返しゲームができるでしょうか</strong>。<br />
<br />
　もちろん、私たちの「命」が子々孫々へ続いていくと考えるのならば、無限繰り返しゲームができるとも言えるでしょう。しかし、私たちの一族が途絶えてしまうことだってありえます。<br />
　永続させるつもりの「企業」も、潰してしまう・清算してしまう、そんな経営者が現れれば、最後ぐらいはガッポリ稼いでやろうと「裏切り」戦略を選ぶかもしれません。<br />
<br />
　「ウソつきは泥棒の始まり」であると子どもに伝えるには、まず大人が理解していなければなりません。大人が自信を持って伝えるには、<strong>有限の肉体しか持たないのに私たちは無限繰り返しゲームをプレイしていることを証明</strong>しなければならないのではないでしょうか。<br />
　そして、この<strong>疑問に真っ正面から答える理論</strong>は、<strong>「結果と原因の関係」</strong>以外にないと考えています。
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/haruomi-watashi-jibun/entry-10575402213.html</link>  
      <pubDate>Fri, 26 Mar 2010 21:19:43 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>＃３３８　「無限繰り返しゲーム」の前におさらい、「囚人のジレンマ」</title>  
      <description> <![CDATA[ 　<a href="http://http//ameblo.jp/haruomi-watashi-jibun/day-20100326.html" target="_blank">無限繰り返しゲームと言われるものをお話したいのです</a>
 が、その前にどうしてもお話しておかなければならないことがあります。<strong>「囚人のジレンマ」</strong>です。「もう知っています」という方も、おさらいと思って読んでいただきたいです。<br />
<br />
　協力して悪さをしたという容疑で取調べを受けている人（<strong>囚人</strong>）がＡとＢの２人います。<br />
　ただし、証拠がそろって十分に<strong>起訴できる事案Ｘ</strong>がある一方、起訴するには<strong>証拠不十分な事案Ｙ</strong>もあります。<br />
　黙秘権も与えられていますが、取調官からこんな提案を受けるのです。<br />
<br />
　<strong>「証拠不十分な事案について、もし相手が黙秘を続け、お前が自白すれば、お前は捜査に貢献したとして、罪は軽くする。逆にお前が黙り続け、相手が自白すれば、黙っていた罪は重いぞ」</strong><br />
<br />
　このときＡとＢは、<strong>黙秘を続けるでしょうか、それとも自白してしまうでしょうか</strong>。<br />
　刑期はあくまで例ですが、このまま<strong>黙秘</strong>を続ければ、<strong>事案Ｘだけの刑期４年</strong>を受けます。<br />
　しかし、<strong>一方が自白</strong>し、<strong>他方が黙秘</strong>を続ければ、<strong>自白したほうの刑期は２年</strong>で済み、<strong>黙秘を続けたほうの刑期は１０年</strong>です。<br />
　もし<strong>２人とも自白</strong>すれば、<strong>刑期は８年</strong>になります。<br />
<br />
　これをマトリックスにすると、<br />
<br />
<table cellspacing="0" rules="groups" border="1" frame="box"><colgroup><col width="200" /></colgroup><colgroup><col width="113" /></colgroup><colgroup><col width="113" /></colgroup><tbody><tr><td align="center" width="200" height="13">（Ａの刑期、Ｂの刑期）</td>
<td align="center" width="113">Ａは黙秘</td>
<td align="center" width="113">Ａは自白</td>
</tr>
</tbody>
<tbody><tr><td align="center" height="13">Ｂは黙秘</td>
<td align="center">（－４、－４）</td>
<td align="center">（－２、－１０）</td>
</tr>
</tbody>
<tbody><tr><td align="center" height="13">Ｂは自白</td>
<td align="center">（－１０、－２）</td>
<td align="center">（－８、－８）</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<br />
　<strong>Ａ</strong>は、Ｂが黙秘しようと自白しようと、<strong>自白したほうが刑期が短くなる</strong>のです。<br />
　<strong>Ｂ</strong>も、Ａが黙秘しようと自白しようと、<strong>自白したほうが刑期が短くなる</strong>のです。<br />
　この結果、<strong>ＡもＢも自白</strong>します。<br />
<br />
　おやおや、<strong>２人とも黙秘していれば刑期は４年で済んだのに</strong>、２人とも自白して刑期が８年になってしまうではありませんか。このため「ジレンマ」と言われるのです。<br />
<br />
　似たような現象は、実際の経済の世界でもあります。<br />
　牛丼チェーン大手２社が協力し、そろって並盛りを４００円で販売し、消費者を仲良く半等分していたとします。<br />
　ところが片方が３５０円で販売し始めて、消費者を独占したではありませんか。追随してもう一社も３５０円に値下げして、消費者を呼び戻し、再び半等分できたとします。<br />
　このとき、<strong>４００円で販売していた頃よりも儲けが減っています</strong>。<br />
<br />
　ただし<strong>現実</strong>の経済は、<strong>相手がどういう行動に出たか情報を入手できる</strong>点、そして<strong>何度も繰り返せる</strong>点が囚人と異なります。<br />
　さあ、これを踏まえて<strong>現実の経済ではどうするのが一番得なのか</strong>、考えてみましょう。
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/haruomi-watashi-jibun/entry-10573534791.html</link>  
      <pubDate>Wed, 24 Mar 2010 22:42:53 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>＃３３７　私たちの運命をもたらす原因は、私たち自身のアクション</title>  
      <description> <![CDATA[ 　テストで悪い点数を取ったがために<strong>追試を受ける目</strong>に遭う。１つの<strong>「結果」</strong>です。<br />
　１人の<strong>部員が遅刻</strong>したためにクラブ全員が連帯責任で<strong>居残り練習</strong>をする羽目になる。これもれっきとした１つの<strong>「結果」</strong>です。<br />
<br />
　どちらのケースも、<strong><a href="http://http//ameblo.jp/haruomi-watashi-jibun/day-20100315.html" target="_blank">科学的・理性的に「結果」に対する「原因」を追究しようとする</a>
</strong>と、誰かほかの人に「原因」を尋ねてみたところで説明がつかず、<strong><a href="http://http//ameblo.jp/haruomi-watashi-jibun/day-20100317.html" target="_blank">自分自身の内に「原因」があると考えなければ説明がつかない</a>
</strong>ことが知られます。<br />
<br />
　この時点で感情的に受け入れられない方も相当いらっしゃるでしょうが、ここまでは理解できる、という方も一方でいらっしゃるでしょう。ところが、<br />
<br />
　<strong>私たち自身の内</strong>、とはいうものの、<strong>具体的にはどこ</strong>に「原因」があるのか。<br />
<br />
　この疑問に、科学的・理性的に真っ正面から向き合って答えようとできる方はどれほどいらっしゃるでしょうか。<br />
<br />
　運命というものは誠に不可解であります。<strong>いろんな人がいろんな意見</strong>を言うのはそのためでしょう。<br />
<br />
　ある人は、手相や顔相が原因だ、と言ったりします。<br />
　ある人は、運気のアップする方角がある、と言ったりします。<br />
　またある人は、壺や印鑑を買いなさい、と勧めたりします。<br />
<br />
　そこで、もう一度じっくり考えてみましょう。追試の例・居残り練習の例でです。<br />
<br />
　追試を受ける目に遭ったのは、成績や評価が悪かったからです。そんな評価しか得られなかったのは何が「原因」でしょうか。テストの場でその人自身が、<strong>そんな評価しか得られない程度のアクション（行為）をしたから</strong>でしょう。しかもそのアクションは、<strong>その人自身の自由意思</strong>によってなされたはずです。たったそれだけのことなのに、何が手相ですか。何が印鑑ですか。<br />
<br />
　こんな<strong>反論</strong>をなさる方があるかもしれません。<strong><font color="#009900">いやいや、本当は実力があるのに、その場に限って本領を発揮できなかった。多分、神がいて、本領が発揮できなくなるような仕業をして、この私に更なる試練を与えてくださったのだろう</font></strong>。<br />
　この種の反論には、<strong>理屈に合わないことが２つ</strong>あります。<br />
<br />
　更なる試練を与えてくださった、とか立派なことを言っていますが、本心は神を恨んでいませんか。<strong>恨みたくなる心を押し殺して</strong>、口では立派なことを言うあなたは<strong>ウソつき</strong>ではありませんか。<br />
<br />
　あなたの言うように神が存在するとしましょう。神が存在する、これも１つの「結果」です。このような<strong>「結果」をもたらした「原因」が必ずある</strong>わけですが、その「原因」は何であり、どこにあるのですか。神ならそれくらい知っているでしょう。<br />
<br />
　それでは、居残り練習の例はどのように説明すればいいのでしょうか。<br />
　大きな問題があるのです。彼らはそのクラブを自分の<strong>自由意思で選んだのかどうか</strong>ということ。<br />
　地域によっては、クラブ活動が限定され、生徒は強制的にどこかに所属しなければなりません。家族の都合でその地域に住み、ほかに選択肢がなくそのクラブに入ったのかもしれません。<br />
<br />
　この疑問に直接答えているわけではありませんが、とりあえず<strong>「袖触れ合うも多生の縁」</strong>という言葉を紹介しておきましょう。
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/haruomi-watashi-jibun/entry-10569967300.html</link>  
      <pubDate>Fri, 19 Mar 2010 22:29:21 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>＃３３６　みんな同じ運命だったり、みんなバラバラの運命だったり</title>  
      <description> <![CDATA[ 　<strong>運命</strong>というものは、なんとも<strong>不可解</strong>なものです。<br />
<br />
　<strong>みんながそろって同じ目</strong>に遭い、<strong>同じ運命を共有</strong>することがあります。<br />
<br />
　例えばクラブ活動で、たった１人の部員が遅刻してしまったその罰で、<strong>部員全体が連帯責任</strong>という名目で夜遅くまで<strong>居残り練習</strong>させられることがあります。このような目に遭うと、<br />
<br />
　<strong>「<font color="#009900">あいつ１人を遅刻させないように、前もって気配りしておけばよかった</font>」と後悔</strong>する人は、あっても<strong>少ない</strong>でしょう。<br />
　むしろ<strong>たいてい</strong>の人は、<strong>「<font color="#009900">自分は悪くないのに、あいつ１人のせいで苦しんでいる今の自分がいるのだ</font>」と恨んでいる</strong>ことでしょう。このような人は、<strong>原因を他人に求めている</strong>のです。<br />
<br />
　その一方で、<strong>１人１人がバラバラの運命</strong>を辿ることもあります。<br />
<br />
　<strong>同じテスト</strong>を受けてみて、<strong>１００点満点</strong>を取る人もいれば、<strong>９０点</strong>を取る人もいて、<strong>４０点に満たず追試</strong>を受ける目に遭う人もいます。このような時に、<br />
<br />
　<strong>「<font color="#009900">テストを通じて、点数という目に見える数字で自分の知識量や実力が分かってよかった。こういうテストでもないと分からない</font>」と喜ぶ</strong>人もあるでしょう。<br />
　しかし、<strong>「<font color="#009900">追試を受ける目に遭ったのは、こんな難しい意地悪なテストを作って解かせる出題者が悪い</font>」と恨む人</strong>もあるかもしれません。<strong>原因を出題者に求めている</strong>のです。<br />
<br />
　私たちの運命は、どのようにして決まるのでしょうか。そして私たちは将来、どんな運命にあうのでしょう。<br />
　<a href="http://http//ameblo.jp/haruomi-watashi-jibun/day-20100315.html" target="_blank">これを<strong>科学的に考えようとすれば</strong>、「運命」というものを１つの「結果」ととらえ、そのような<strong>結果をもたらした「原因」は何でありどこにあるのか</strong>、この「結果」と「原因」の関係を徹底的に究明することとなります</a>
 。<br />
<br />
　そこで、いきなり私たちの運命に飛びつく前に、科学で究明される一例を挙げましょう。<br />
<br />
　<strong>過酸化水素水に二酸化マンガン</strong>を入れると、<strong>酸素</strong>がブクブクと発生します。<br />
　酸素が発生する、これが「結果」です。<br />
　過酸化水素水に二酸化マンガンを入れた、これが「原因」です。<br />
　ここで絶対に間違ってはならないことがあります。<strong>「原因」が同じならば「結果」も必ず同じ</strong>になる、<strong>「結果」が同じならば「原因」も同じ</strong>である、ということです。<br />
　ですから、硫酸に二酸化マンガンを入れると全く違う反応が起きてしまいます。「原因」が違うために違う「結果」になってしまったのです。つまり、<strong>厳密な意味で二酸化マンガンは「原因」ではありません</strong>。過酸化水素水こそが「原因」なのです。<br />
<br />
　一通り確認したところで、テストの例・居残り練習の例を見直してみましょう。<br />
<br />
　<strong>テストが「原因」ならば、受験した人全員が同じ「結果」すなわち運命を受けることになります</strong>。現実は、１人１人の理解度や実力により点数が違ったのです。ということは、１人１人の内に「原因」があったのです。<br />
<br />
　では、居残り練習の例はどう説明すればいいのでしょう。<br />
　<strong>もし遅刻部員が「原因」ならば、世の中すべての人が居残り練習をする運命を受けることになります</strong>。ところが現実はそのクラブだけが居残り練習をしたのです。<strong>おまけにその日に休んだ部員は居残り練習していません</strong>。ということは、その日のクラブ活動に参加した人の内に「原因」があった、としか説明のしようがないのです。
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/haruomi-watashi-jibun/entry-10569025320.html</link>  
      <pubDate>Wed, 17 Mar 2010 23:03:55 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>＃３３５　どの学問においても別格の扱い、「結果と原因の関係」</title>  
      <description> <![CDATA[ 　<strong>関係がある</strong>。<br />
　一口にこう言っても、その関係が相関関係だったり、全体と一部の関係だったり、主従関係だったり、表裏一体の関係だったり、正反対の関係だったり、といろんな関係がありますが、中でも<strong>「結果と原因の関係」は扱いが別格</strong>のように感じます。<br />
<br />
　学問の世界では、<strong>２つのもの</strong>、時に３つ以上のものが<strong>どのような関係にあるか</strong>、研究・議論します。<br />
<br />
　自然科学ならば、冬場の気温と桜の開花時期には相関関係があると言われますので、その相関関係に基づいて桜の開花予想を発表します。<br />
　数学ならば、１から１０までの自然数の集合Ａがあり、２と５だけの自然数の集合Ｂもあるとすれば、Ａが全体・Ｂが一部の関係にあります。<br />
　社会科学ならば、組織全体に命令を徹底したいという目的があれば、その目的が達成できるよう組織を編成します。つまり目的と組織が主従関係にあるのです。<br />
<br />
　探してみると、いろんな関係があることに気がつきます。ところがその中でも、<strong>「結果と原因の関係」が扱いが別格</strong>のように感じると申し上げたのは、次のような理由があるからです。<br />
<br />
　せっかくですから例に挙げるのも大げさなものがいいでしょう。<strong>ロケットを月へ飛ばすという一大プロジェクト</strong>があるとします。<br />
　どういう気象条件の下で飛ばせばよいか、どのくらいの燃料が必要か、など、計算し準備することももちろん大事ですが、<strong>試作品を飛ばす</strong>ことも大事ではないでしょうか。試作品を実際に飛ばしてみて、<br />
<br />
　飛距離が足りなければ、<strong>「<font color="#009900">飛距離が足りなかった（結果）のはどういうわけ（原因）か</font>」</strong>、<br />
　針路がずれたのならば、<strong>「<font color="#009900">針路がずれた（結果）のはどういうわけ（原因）か</font>」</strong>、<br />
<br />
という、<strong>結果に対する正しい原因を真剣に徹底的に突き詰め</strong>、そして判明したことを次に<strong>活かして進歩</strong>させ、本当に月まで飛ばすロケットを作り上げるのです。<br />
<br />
　砂浜で火を燃やし、暖を摂っていた焼け跡に、さっきまでなかったはずの透明な物体が散らばっています。触ってみると、非常に使い勝手のいいものと分かりました。<br />
　この透明な物体をもう一度作ることができるのか。再び砂浜で火を燃やしましたができませんでした。その次もできませんでした。ところが４度目になってついにできたではありませんか。<br />
　<strong>どういう条件（＝原因）の違いでできたりできなかったりした（＝結果）のか</strong>、追究するでしょう。このようなことをして古代にガラスの製法が確立したと言います。<br />
<br />
　私たちは<strong>高度文明の下で生きています</strong>が、そのウラには私たちの知らないところでの<strong>山のようにたくさんの「結果と原因の関係」に基づく研究がある</strong>のです。<br />
　これはまた同時に<strong>研究者</strong>が、<strong>結果には必ず原因がある</strong>、<strong>原因の何もないところから結果だけが現れるようなことは絶対にない</strong>、と信じて疑わなかったことも大きいでしょう。<br />
<br />
　では、<strong>私たちの言動にも「結果と原因の関係」があるのか</strong>。学問ではあんなに真剣に徹底的に突き詰めていた<strong>研究者でも途端に議論できなくなる</strong>ような気がいたします。
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/haruomi-watashi-jibun/entry-10553316753.html</link>  
      <pubDate>Mon, 15 Mar 2010 23:08:33 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>＃３３４　納得できても感情が撥ね飛ばす、『効率性賃金仮説』</title>  
      <description> <![CDATA[ 　<strong>経済学</strong>には、ある意味で<strong>怖い</strong>、<strong>恐ろしい</strong>一面があるような気がします。私たちの<strong>運命が高い精度で予測できる</strong>のですから。<br />
<br />
　例えばマクロ経済学。今後景気はどうなるのか、見通しがよければまことにハッピーなことではありますが、対策のしようもない不景気に突入するようであればそれだけで心は不安にすっぽり包まれてしまうでしょう。<br />
　自分の運命を知りたい、理屈で納得できる説明で教えて欲しい、でも、怖くて恐ろしい運命なんて聞きたくない。理屈で納得しようと思っても、感情がこれを受け入れず、撥ね飛ばしてしまう、こういうことはしょっちゅうです。<br />
<br />
　では、『効率性賃金仮説』と言われる理論はどうでしょう。言葉で説明するのも大事ですが、グラフで見ていただくほうが分かっていただきやすいこともあります。<br />
<br />
<a href="http://stat.ameba.jp/user_images/fe/7b/10006286310.gif"><img height="100" alt="例：効用賃金仮説" src="http://stat.ameba.jp/user_images/fe/7b/10006286310_s.gif" width="220" border="0" /></a>
 <br />
<br />
　グラフを見ると、<strong>縦軸</strong>は一例として「新規獲得契約数など」としていますが、<strong>収入や稼ぎに直結する指標</strong>と言うことです。他方、<strong>横軸</strong>は<strong>努力水準</strong>を表しています。こうして２次元平面で表した<strong>曲線の特徴は「右上がり」</strong>、つまり、<br />
<br />
　<strong>努力水準が高いと高収入</strong>、反対に<strong>努力水準が低いと低収入</strong>ということを表しています。<br />
　もっと平たく言えば、頑張れば稼げる、頑張れなければ稼げない運命をたどる、ということです。<br />
　さらに厳しく言えば、<strong>頑張っていない</strong>、<strong>怠けている</strong>、チェックによってそのように<strong>判断されれば稼ぎは減らされる</strong>、ということです。<br />
<br />
　このように考えていくと、『効率性賃金仮説』と言われる理論から、私たちの<strong>運命</strong>、中でも<strong>収入や稼ぎ</strong>については<strong>ある程度予測</strong>できてしまえるのです。<br />
　就職や昇進に有利な資格も学歴もなければ、資格を取ったり教育を受けたりするお金も時間もない。そういう人の稼ぎは少ないままということになります。<br />
　病気になった、けがをした、もう人並みに働けない。そういう人の稼ぎは減らされることになります。<br />
<br />
　基本的人権という点において人間は平等ではありますが、いかんせん<strong>能力や経験などに差別</strong>がありますため上下があります。そして<strong>収入や稼ぎも異なってくる</strong>のです。<br />
　それに加えてさらに『効率性賃金仮説』。果たして感情はこれをすんなりと受け入れるでしょうか。<br />
<br />
　ほとんどの方が、<strong>「<font color="#009900">理屈は分かる、でも・・・</font>」という感想</strong>を持たれることでしょう。つまり、<strong>内心（感情）は撥ね飛ばしている</strong>のです。<br />
　ところが、同じように理詰めで説明した理論や学問、例えば物理学の『慣性の法則』とか化学の『質量保存の法則』に対して、「理屈は分かる、でも・・・」という感想を持たれる方は相当少ないはずです。<br />
<br />
　この違いはひとえに、<strong>自分と密接に関係するかどうか</strong>、中でも自分の<strong>運命と密接に関係するかどうか</strong>ではないでしょうか。この点で経済学にはどうやら、大きな課題が残されている、ほかの学問には見られない珍しい学問のようです。
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/haruomi-watashi-jibun/entry-10550544977.html</link>  
      <pubDate>Fri, 12 Mar 2010 23:41:56 +0900</pubDate> 
    </item> 
  </channel> 
</rss>

