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    <title>考えすぎ</title>  
    <link>http://ameblo.jp/bursted-dam/</link>  
    <description>考えすぎて答えが出ない、問い続ける日常。</description>  
    <language>ja</language>  
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      <title>共感が、言葉のエンジンを動かす</title>  
      <description> <![CDATA[ <p>生きるのに、目的だけでなく食料も必要であるように、<br />
言葉には、客観性や正確さの前に、まず共感が必要だ。</p>
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/bursted-dam/entry-10455626617.html</link>  
      <pubDate>Wed, 10 Feb 2010 21:15:45 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>孤独</title>  
      <description> <![CDATA[ 孤独とは、共感を得られない状態のことだ。
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/bursted-dam/entry-10455591748.html</link>  
      <pubDate>Wed, 10 Feb 2010 20:37:57 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>「道がない」</title>  
      <description> <![CDATA[ <p>「道がない」<br />
と聞くと、ひどく不安になる。</p>
<p><br />
山で迷った時も、「道がない」と言うし、<br />
目標に到達するための手段がない時も、「道がない」と言う。<br />
どのように生きていけば良いかわからない時も、「道がない」と表現することがある。</p>
<p><br />
それまで、道があるのが“当然”だったのに、そこで道が途切れてしまった。<br />
未来に続いているはずだった、想定していた道が、もはやない。<br />
だから不安になる。</p>
<p><br />
<br />
<br />
でも、本来、道は人工的に創られたもの。<br />
もともと存在していたものではないのだ。</p>
<p><br />
たぶん、「道がある」状態に慣れすぎていて、それが当然になってしまったのだろう。<br />
その状態が当然になることは、決して悪いことではない。<br />
国家が社会基盤（インフラ）を整備するのも、「道がある」状態をスタートラインとして住民が生活できるようにするためだ。<br />
ただし、それは公共の福祉として“意図的に”維持されて初めて実現されるスタートラインであって、<br />
自然に存在しているものではない。</p>
<p><br />
<br />
<br />
「道がある」状態に慣れすぎた人間にとって、<br />
「道がない」状態を前にすると不安になってしまうことは、仕方のないことだ。</p>
<p><br />
でも、せめて、<br />
「道がない」状態がもともと自然の状態だったのだ、ということを、<br />
理解しておくべきなのではないかと思う。<br />
いつ、どのような場面で、道がなくなるかわからないのだから、<br />
気構えだけはしておいたほうが良い。<br />
他の誰のためでもなく、今こうして生きている自分のために。</p>
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/bursted-dam/entry-10453173242.html</link>  
      <pubDate>Sun, 07 Feb 2010 21:10:45 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>「幸せな人生」が目標じゃない</title>  
      <description> <![CDATA[ <p>人生の枠内で考えてもしょうがない。<br />
その人生は、いつか終わりを迎えてしまうのだから。</p>
<p><br />
<br />
<br />
人生が豊かでも、貧しくても、不幸でも幸せでも、<br />
「最期に無に帰す」という点では、誰もが平等だ。<br />
人生を苦しみぬいた人にとって唯一の救いは、死が必ず訪れるということ。<br />
だから、人生の枠があるからこそ（何かに）耐えられる、<br />
・・・という見方も、確かにあるだろう。</p>
<p><br />
でも、僕が言いたいのは、そういうことじゃない。<br />
仮に自分の人生が幸せだとしても、その幸せが人生の枠内のものならば空しいだけだ、<br />
と僕は言いたいのだ。<br />
いつか終わることがわかっている幸せのためになんて、どうしても本当に真剣にはなれない。</p>
<p><br />
「人生を超えた何か」が無いわけにはいかない。<br />
だからこそ、在りもしないような真理や真実さえも追い求めてしまう。<br />
それが、（ある意味では）人間の悲しい性なんじゃないか、とも思う。</p>
<p><br />
<br />
<br />
僕は、死ぬことが怖い。</p>
<p><br />
でも、だからこそ、<br />
「じゃあ僕が生まれてきたこの世界は何なのか」<br />
ということを納得しないわけにはいかないし、<br />
「僕の人生は何なのか」<br />
ということを、自分の腑に落ちるように理解したいのだ。</p>
<p><br />
それらを納得し理解するために与えられたのが、<br />
この限りある人生なのだと思っている。<br />
だから、人生そのものを豊かにしたり幸せにするだけでは、<br />
何の意味も感じられない。<br />
・・・僕の場合は、ね。</p>
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/bursted-dam/entry-10452371791.html</link>  
      <pubDate>Sat, 06 Feb 2010 21:34:45 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>存在の意味を感じられること</title>  
      <description> <![CDATA[ <p>何事も、存在の意味を感じられることがまず大事だ。<br />
自分の人生を賭けられるだけの価値が見出せなければ、<br />
まず最初の一歩が踏み出せないからだ。</p>
<p><br />
だから、まず存在の意味を精いっぱい伝えることが必要だ。<br />
存在の持つ意味は人によって違うから、余計なお世話かもしれないけれども、<br />
たとえ否定されても、存在の意味について何も伝えないよりはいい。</p>
<p><br />
意思の疎通は、すべて、<br />
存在の意味について確かめ合うところから始まるんだ。</p>
<p><br />
<br />
<br />
ただし、<br />
「存在に意味があること」や、<br />
「存在の意味がわかること」は、それほど大事じゃないよ。</p>
<p><br />
一番大事なのは、<br />
「存在の意味を感じられること」だ。<br />
この違いは、とても重要だよ。</p>
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/bursted-dam/entry-10450300532.html</link>  
      <pubDate>Thu, 04 Feb 2010 09:00:50 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>言いたくても言えない</title>  
      <description> <![CDATA[ <p>「言わない」ということを自ら選んだわけじゃなく、<br />
例えば骨折した人が歩きたくても歩けないように、言いたくても言えない時がある。</p>
<p><br />
「言わないのだから自己責任だ」と責められても、<br />
例えば骨折した人が歩けずにじっとしているように、何も言えずに黙っている時がある。<br />
また別の時には、<br />
例えば骨折した人がそのまま無理に歩こうとするように、本心とかけ離れた言葉を吐いてしまう。</p>
<p><br />
<br />
<br />
骨折と違うのは、その状態が“目に見えない”こと。<br />
小さな骨のヒビでさえ、レントゲン写真を見ればひと目でわかるのに、<br />
“言えない”心理状態とその苦しみは、相当大きくならない限り、当人ですら自覚できないことが多い。</p>
<p><br />
さらに厄介なことに、骨折と違って、心理状態については簡単に嘘がつける。<br />
骨折なら調べれば一目瞭然だから、嘘で「骨折した」とはなかなか言いにくい。<br />
でも心理状態については、<br />
殺人犯の精神鑑定でさえ結果が分かれることもあるくらいだから、<br />
嘘かどうかを見分けることは非常に難しいのが現実。</p>
<p><br />
<br />
・・・だからといって、もちろん、すべてが嘘だというわけじゃない。<br />
でも、嘘かもしれない。<br />
本人だって、けっこう自分を疑っている。<br />
「自分は自分をごまかしているんじゃないか」って。</p>
<p><br />
「言わないのだから自己責任だ」<br />
というのは、ある一定の社会的ルールの上では、すごく“正しい”し、公平な判断だと思う。<br />
でも、それは、<br />
“すべての人が思ったことを言える”ことを前提として成り立つ判断なんだ。<br />
その前提が崩れた途端、<br />
「言わないのだから自己責任だ」という判断は、極めて不公平なものになる。</p>
<p><br />
<br />
<br />
見分けることはもとより、自覚することすら難しい。<br />
けれども、<br />
言いたくても言えない時だって、確かにあるんだ。<br />
僕は、そう思っている。</p>
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/bursted-dam/entry-10448753552.html</link>  
      <pubDate>Tue, 02 Feb 2010 12:20:56 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>嵐ではなかったけど</title>  
      <description> <![CDATA[ <p>一緒に暮らし始めてから、洗い物は、ほとんど妻がやってくれている。</p>
<p><br />
特に、去年の暮れから今年にかけては、慢性疲労気味だったこともあり、<br />
家事の手伝いすら、ほとんどしていなかった。</p>
<p><br />
<br />
<br />
昨日の朝、シャワーを浴びた後、心理的に一息つける時間があった。<br />
やることがすぐに思いつかないような、手持ち無沙汰な時間。<br />
キッチンを見ると、洗い物の皿が置いてあったから、皿洗いをした。</p>
<p><br />
部屋に戻ると、テレビを見ていた妻に、<br />
「何してたの？」<br />
と聞かれた。<br />
「お皿を洗ってた」<br />
と答えると、<br />
妻は呆然とした顔で立ち上がり、<br />
カーテンを開け窓の外を見て、<br />
「晴れてる」<br />
と呟き、それから僕を振り返って、<br />
「明日はきっと嵐だね」<br />
と言った。</p>
<p><br />
僕が皿を洗ったことが、よほど珍しかったらしい。<br />
一応、一人暮らししていた時は、皿洗いしてたんだけど。<br />
確かにほとんど自炊しなかったけど、さすがにコップくらいは洗うし。</p>
<p><br />
<br />
<br />
でも、いかに今まで家事してなかったか、ってことだよね。<br />
ごめんなさい。</p>
<p><br />
嵐ではなかったけど、今日は雪が降るようです。<br />
「驚き」を通り越して空が凍ってしまった、ということでしょうか。<br />
空よ。そんなに珍しいですか、僕の皿洗い。</p>
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/bursted-dam/entry-10448159966.html</link>  
      <pubDate>Mon, 01 Feb 2010 19:36:28 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>結婚とは</title>  
      <description> <![CDATA[ <p>結婚とは、<br />
一人称の基本的な意味合いが、単数形から複数形に変わることだ。</p>
<p><br />
結婚する前の「自分」は、ただ一人の「自分」でしかなかった。<br />
もっとも、「自分たち」という表現があったことは確か。<br />
しかし、それは、もともと一人である「自分」の延長に過ぎなかった。</p>
<p><br />
結婚してからの「自分」は、ただ一人の「自分」という意味では無くなった。<br />
ただ一人の「自分」のためだけの体では無くなり、<br />
ただ一人の「自分」のためだけの心では無くなった。<br />
・・・そう自分で思い込んでいるだけかもしれないが、<br />
少なくとも意識の上では、それが、「自分」という言葉の意味についての実感なのだ。</p>
<p><br />
<br />
<br />
転じて、結婚生活とは、<br />
一人称が複数形であるような生活のことだ。</p>
<p><br />
・・・どちらかというと、こちらのほうが実感に沿っていてわかりやすい。<br />
独身生活における一人称は、単数形。<br />
結婚生活における一人称は、複数形。<br />
改めて説明するまでもない。</p>
<p><br />
人生における生活単位が、ただ一人の「自分」から、「自分たち」へと変わること。<br />
それが、結婚ではないかと思う。</p>
<p><br />
<br />
<br />
この変化は、文章ではなかなか伝えづらいが、かなり劇的だ。</p>
<p><br />
例えば、自分がアメーバみたいに分裂したような気分。<br />
分裂した相手も、もともとの自分も、どちらも「自分」といった心境。</p>
<p><br />
でも、実際の結婚では、相手が自分から分裂して出てきたわけではない。<br />
強いて言えば、<br />
もともと他人だった相手に対して、「自分から分裂した相手の『自分』度」と同じくらい強く「自分」を感じる、<br />
ということ。</p>
<p><br />
<br />
<br />
妻が見たら、<br />
「私は分裂したアメーバにされた」<br />
と怒るかもしれないけど、今は、他に良い喩えが見つからない。</p>
<p><br />
決して、妻を自分の分身だと思っているわけではなくて、<br />
分裂したアメーバと同じくらいの“濃度”で、妻を自分だと思うような感覚が実感としてある、ということ。<br />
弁解になってないか。<br />
でも、分身は、やっぱり「自分」の分身であって、「自分」ではないからね。</p>
<p><br />
だから、他に良い喩えが見つからない。</p>
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/bursted-dam/entry-10447918676.html</link>  
      <pubDate>Mon, 01 Feb 2010 13:41:05 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>荒れる奇異</title>  
      <description> <![CDATA[ <p>今まで黙っていて済まなかった。<br />
何を隠そう、僕は、埃アレルギーの持ち主だ。</p>
<p><br />
一昨年くらいだったか、病院でアレルギー検査をしてもらったことがある。<br />
ここに今、当時の検査結果表があるのだが、<br />
もっとも陽性反応が強く出たのは、<br />
「ヤケヒョウヒダニ」<br />
であったらしい。<br />
聞いたこともない名前だ。</p>
<p><br />
次に強く出ていたのが、<br />
「スギ」と「ハウスダスト」<br />
である。<br />
花粉も埃も、僕にとっては所詮、似たようなものだったのだ。</p>
<p><br />
<br />
そういうわけで、僕は埃がとても苦手だ。<br />
ほこりをなくしたぃ男だ、と言っても過言ではない。</p>
<p><br />
だから、今日は宣言する。<br />
「持たず、作らず、持ち込ませず」<br />
非埃三原則を、いざ、ここに打ち立てよう。</p>
<p><br />
今まで黙っていて済まなかった。</p>
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/bursted-dam/entry-10445006919.html</link>  
      <pubDate>Thu, 28 Jan 2010 20:44:30 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>気持ちの切り替えで、世界は姿を変える</title>  
      <description> <![CDATA[ <p>「修行の果てに」とか、<br />
「努力の末に」とか、そういうことでなく、<br />
ちょっとした気持ちの切り替えで、世界は姿を変える。</p>
<p><br />
だから単に気の持ちようだ、・・・という単純な話でもない。<br />
もしかすると、<br />
どんな努力や修行よりも、気持ちを切り替えることのほうが困難かもしれない。<br />
一度できてしまえば何でもないことなのに、<br />
それができるまでが、一筋縄ではいかない。</p>
<p><br />
努力することや修行することの意義は、<br />
ある面では、<br />
自力では困難な「気持ちの切り替え」を引き出すための手段として、<br />
「努力や修行を重ねる」というプレッシャーを自分に与えるところにもあるのかもしれない。</p>
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/bursted-dam/entry-10437654336.html</link>  
      <pubDate>Tue, 19 Jan 2010 09:43:09 +0900</pubDate> 
    </item> 
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