<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>
<?xml-stylesheet href="../../../../../css/rss/feedRss2.xsl" media="screen" type="text/xsl"?>

<rss version="2.0"> 
  <channel> 
    <title>夜の断想</title>  
    <link>http://ameblo.jp/anator/</link>  
    <description>ヨーロッパ文学、クラシック音楽などを巡る断想を、気まぐれに綴っていきます。</description>  
    <language>ja</language>  
    <atom:link xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom" rel="self" href="http://feedblog.ameba.jp/rss/ameblo/anator/rss20.xml" type="application/rss+xml"/>  
    <item> 
      <title>コルンゴルト: 『過越の祝いの詩篇』 Op.30</title>  
      <description> <![CDATA[ <p>シュテファン・ツヴァイクによれば、ウィーンのユダヤ人たちの間では、シオニズムへの関心は低かったという。シュニッツラーがユダヤ人の問題を取り上げた作品『広野への道』を発表したとき、ホーフマンスタールはそれを非難した。ハプスブルク帝国の富裕層、知識階級で大きな勢力を持つにいたったユダヤ人たちは、出自を強調するよりもむしろ触れず、ハプスブルク帝国の臣民としての強い意識を持っていた。コルンゴルトもそうである。コルンゴルトはユダヤ人であることを理由にナチスドイツに排斥され、アメリカ移住を余儀なくされたが、その生涯を通じて、ユダヤ教、ユダヤ人を意識させる作品をほとんど書かなかった。そのわずかな例外が、 『過越の祝いの詩篇』である。とはいえ、詩がユダヤ教に基づくものであるにすぎず、音楽はいつものコルンゴルトの流儀であり、『死の都』や『ヘリアーネの奇跡』の甘美なアリアを想起させる。まったくもって、美しい音楽というほかない。</p>
<br />
<p>参考ＣＤ：　ヤナーチェク　『グラゴル・ミサ』　他　リッカルド・シャイー（指揮）、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、スロヴァキア・フィルハーモニー合唱団、他　LONDON POCL1856　　</p>
]]> </description>  
      <link>http://ameblo.jp/anator/entry-11105497635.html</link>  
      <pubDate>Tue, 13 Dec 2011 01:22:41 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>ツェムリンスキー: 歌劇 『フィレンツェの悲劇』</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 <p>オスカー・ワイルドの戯曲『フィレンツェの悲劇』をもとにツェムリンスキーが作曲した一幕物の歌劇である。『フィレンツェの悲劇』というと、壮大な歴史劇のように思えるが、実は単なる不倫の話である。商人の妻ビアンカとフィレンツェの王子グイド・バルディが密会しているところに商人シモーネが帰ってきて、口論の末、決闘にいたる。他愛ない話をこの上なく華麗な修辞で飾るワイルドの手法は手慣れたものだが、さすがに歌劇にするには台詞が長すぎたようで、ツェムリンスキーはところどころ省略したという。ツェムリンスキーの代表作、『抒情交響曲』と同様に、これは音楽つきの歌ではなく、歌つきの音楽である。本作において交響曲と歌劇との融合をツェムリンスキーは成し遂げた。表現主義的で、とりわけ官能的表現に長けた音楽、決して途切れることなく自然に新たな楽想に移っていく手法はまったくツェムリンスキー独自のものである。ホフマンスタールの文学作品などと同様に、ツェムリンスキーの音楽は、ハプスブルク帝国末期に花咲いた、洗練を極めたウィーン文化の象徴と言えるであろう。</p>
<br />
<p>参考ＣＤ：　ツェムリンスキー　歌劇 『フィレンツェの悲劇』 リッカルド・シャイー（指揮）、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、アルベルト・ドーメン（バリトン）、ハインツ・クルーゼ（テノール）、イリス・フェルミリオン（メゾ・ソプラノ）　LONDON POCL1786</p>
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/anator/entry-11104530995.html</link>  
      <pubDate>Mon, 12 Dec 2011 00:18:59 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>マーラー: 交響曲 第9番 ニ長調 室内楽版 (編曲: 瀬尾和紀)</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 <p>2011年12月4日</p>
<p>三井住友海上しらかわホール</p>
<br />
<p>Fl：瀬尾和紀／Cl：ニコラ・バルデイルー／Hrn：アントワンヌ・ドレイフュス<br />
Vn：スヴェトリン・ルセフ＆ニコラ・ドートリクール／Vla：馬渕昌子＆小峰航一<br />
Vc：中木健二＆ベルトラン・レイノー／Cb：市川雅典／Pf：ローラン・ヴァグシャル＆上野真<br />
</p>
<br />
<p>マーラーの交響曲第9番の室内楽版を聴いた。とは言え、もともと室内楽版が存在したのではない。フルート奏者である瀬尾和紀がこの日の演奏会のためにわざわざ室内楽版を作ったものであり、もちろんこの日が初演となった。あらゆる交響曲の中でもとりわけ長大で、大編成のこの作品を、室内楽のために編曲するというのは、ずいぶん無謀に思え、あえて言えば下手物とさえ思えた。しかし、いざ演奏が始まってみると、なかなか良い仕上がりで、良い意味で期待を裏切られた。わずか12名の奏者による演奏であっても、マーラーはマーラーである。むしろ作品の構成が露わになり、新たな発見があった。第4楽章のアダージョは、室内楽の美質がよく現われ、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を聴いているような気すらした。コーダの美しさは、なんとも例えがたい。聴衆の拍手喝采はなかなかやまなかったが、演奏者たちが聴衆よりも喜んでいるように思えた。</p>
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/anator/entry-11098059916.html</link>  
      <pubDate>Mon, 05 Dec 2011 00:35:12 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item>
      <title><![CDATA[PR: フレッツ光で人気の年賀状ソフトがレンタル感覚で使える]]></title>
      <link>http://rss.rssad.jp/rss/ad/RWKdAlbcN.i8/LUld91QRF9ZM?type=2&amp;ent=98e461c73d4c71561cd3bce1829d88ba</link>
      <description><![CDATA[<table cellspacing="0" cellpadding="0"><tbody><tr><td align="left" valign="center"><a href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/RWKdAlbcN.i8/LUld91QRF9ZM?type=2" target="_blank"><img alt="" style="border: 0;" border="0" src="http://rss.rssad.jp/rss/img/RWKdAlbcN.i8/LUld91QRF9ZM?type=3&ent=98e461c73d4c71561cd3bce1829d88ba"/></a></td></tr><tr><td align="left" valign="top" > 辰の絵柄も勢揃い！簡単便利な《光ソフトタウン》で年賀状を作ろう。 </td></tr></tbody></table><div style="font-size:10px;"><span style="padding-top:5px;"><br style="display:none"/><a href="http://www.rssad.jp/trendmatch/trendmatch.html">Ads by Trend Match</a></span><br/></div>]]></description>
      <pubDate>Mon, 05 Dec 2011 00:35:12 +0900</pubDate>
    </item>
    <item> 
      <title>リルケ 『フィレンツェだより』 森有正・訳</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 <p>リルケの『フィレンツェだより』はフィレンツェを舞台にした思索の跡である。これは『マルテの手記』がパリを舞台にした思索の跡であるのと、対をなしている。『マルテの手記』の方が後年の作品であり、作品として熟しているのは確かであるが、『フィレンツェだより』にはそのような比較をものともせぬ煌めきがある。つまり、『マルテの手記』が否応なしに死を読者に予感せしめる、陰鬱な作品であるのに対して、『フィレンツェだより』では死の臭いは希薄であり、終わりなき広がりと、それを鮮やかに照らす眩い光とに満ちている。このような好対照が、リルケの年齢によるのか、執筆した場所によるのかは定かではない。ただ、いずれにしても、それぞれリルケの散文の特性を強烈に主張していることは確かである。</p>
<br />
<p>参考文献：　リルケ　『フィレンツェだより』　森有正・訳　ちくま文庫</p>
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/anator/entry-11062591489.html</link>  
      <pubDate>Sat, 29 Oct 2011 17:22:06 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>アンヌ・ガスティネル チェロ・リサイタル</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 <p>2011年10月22日</p>
<p>三井住友海上しらかわホール</p>
<br />
<p>ベートーヴェン： チェロ・ソナタ 第4番 ハ長調 Op.102-1</p>
<p>プーランク： チェロ・ソナタ</p>
<br />
<p>ドビュッシー： チェロ・ソナタ</p>
<p>フランク： チェロ・ソナタ</p>
<br />
<p>アンヌ・ガスティネル （チェロ）</p>
<p>クレール・デゼール　（ピアノ）</p>
<br />
<br />
<p>フランスの二人の女性演奏家によるデュオを聴いた。二人とも全く未知の演奏家であったが、ベートーヴェンの初めの数秒を聴いて間もなく、この演奏会を訪れたことを大いに幸運に思った。ガスティネルのチェロは、造形の面では端正そのものであるが、それにも関わらず、清冽な詩情をいっぱいにたたえている。激高も嗚咽も無縁、細い身体から爽やかで薫り高い音楽がとどまることを知らず溢れ出し、ホールを満たした。デゼールのピアノも音量の点でチェロとのバランスを失うことはまったくなく、ガスティネルにぴったりと合わせていた。ベートーヴェンとプーランクという、時代も国も隔たりの大きい作品が、続けて演奏されても何ら違和感を覚えさせなかった。それは、ガスティネルが作品をすっかり自分自身の色に染めてしまっているからであろう。後半のドビュッシーもフランクも素晴らしかった。アンコールはラフマニノフのヴォカリーズであった。</p>
<br />
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/anator/entry-11056203977.html</link>  
      <pubDate>Sun, 23 Oct 2011 00:08:52 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>マレク・ヤノフスキ指揮 ベルリン放送交響楽団 演奏会</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 <p>2011年10月9日</p>
<p>豊田市コンサートホール</p>
<br />
<p>ブラームス：　交響曲 第3番 ヘ長調 Op.90</p>
<p>ベートーヴェン：　交響曲 第3番 変ホ長調 Op.55 『英雄』</p>
<br />
<p>ここのところにわかに寒くなってきたが、ブラームスの3番は、そのような季節の移ろいによく合う曲目であった。オーケストラの音色は、先日のサンタ・チェチーリア管弦楽団に比べると地味ではあったが、弦楽器と管楽器とが溶け合う響きは心地よく、聴き手はその暖かな響きに身を任せればよかった。雄弁も絶叫も慟哭もない、落ち着いたブラームスであった。</p>
<br />
<p>後半のベートーヴェンは、古典主義のベートーヴェンではなく、ロマン主義のベートーヴェンであった。そうは言っても、特にロマンティックな演出をしていたわけではない。オーケストラの音色そのものがロマン的だったのである。昔ながらの大編成ではあるが、その分厚い弦楽器の響きに決して管楽器が埋もれることはなく、しかし決して管楽器は無理することなく、のびやかにその存在を知らしめていた。これはヤノフスキの絶妙な手綱さばきによるのであろう。そして曲全体を支配した高揚感は、こけおどしではなく、全体の構築が確かであることの証左であろう。</p>
<br />
<p>アンコールはベートーヴェンの交響曲第8番から第2楽章、シューベルトの『ロザムンデ』から「間奏曲」であった。</p>
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/anator/entry-11044305209.html</link>  
      <pubDate>Mon, 10 Oct 2011 23:11:51 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>アントニオ・パッパーノ指揮 ローマ・サンタチェチーリア管弦楽団 演奏会</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 <p>2011年10月1日</p>
<p>愛知県芸術劇場 コンサートホール</p>
<br />
<p>リムスキー=コルサコフ：　交響組曲 『シェヘラザード』</p>
<p>チャイコフスキー：　交響曲 第6番 ロ短調 『悲愴』</p>
<br />
<br />
<p>録音を含めて、何年振りかに『シェヘラザード』を聴いた。それでもよく覚えているものである。それは、単にこの作品の旋律が親しみやすいからだけではなく、それらの旋律を、手を替え品を替え、何度も繰り返すことによって、この作品はできているからである。</p>
<br />
<p>リムスキー=コルサコフの古典的な交響曲第1番や第3番は凡庸である。彼の才能は、人懐こいロシア民謡風の旋律を編み出し、煌びやかな管弦楽法で装飾することにおいて開花した。その萌芽は交響曲第2番『アンタール』にあったが、やがて『シェヘラザード』として、そして10を超えるオペラとして結実した。</p>
<br />
<p>パッパーノというイタリア人、サンタチェチーリア管弦楽団というイタリアのオーケストラによる『シェヘラザード』は、まず何と言ってものびやかで明朗なカンタービレに特徴があり、さらに洗練された響き、誇張のない表現、見通しの良い造形を兼ね備え、楽しくも上品な演奏であった。</p>
<br />
<p>それは『悲愴』においても同じである。第1楽章から第3楽章までは、チャイコフスキーの音楽の特性である旋律、管弦楽法、劇性を楽しませてくれた。ただ、楽しいばかりでなく、第4楽章では痛切な響きでもってアダージョを歌い切っていた。</p>
<br />
<p>アンコールはヴェルディの『運命の力』序曲、さらにロッシーニの『ウィリアム・テル』序曲から数分の抜粋であった。これら2曲では、指揮者もオーケストラも水を得た魚のように振舞っていたのは言うまでもない。</p>
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/anator/entry-11036596511.html</link>  
      <pubDate>Mon, 03 Oct 2011 01:41:59 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>レイフ・オヴェ・アンスネス ピアノ・リサイタル</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 <p>2011年9月24日</p>
<p>電気文化会館 ザ・コンサートホール</p>
<br />
<p>グリーグ： 『抒情小品集』より「ノルウェーの旋律」、「民謡」、「孤独なさすらい人」、「春に寄す」、「羊飼いの少年」、「ノルウェーの農民行進曲」</p>
<p>ブラームス： バラード集 Op.10</p>
<br />
<p>クルターグ： 『遊戯』より8曲</p>
<p>ベートーヴェン： ピアノ・ソナタ 第21番 ハ長調 Op.53 『ワルトシュタイン』</p>
<br />
<br />
<p>もう若手とは言えなくなった北欧の秀英、アンスネスの演奏を聴いた。ムストネンのような才気煥発はなく、それとは対照的に、実に安定した演奏ぶりであった。それは特にブラームスやベーとヴェンについて言えることであったが、そういう中で、クルターグはびっくり箱を初めて手にした子供のような、無邪気にして悪戯心を備えた演奏であり、聴衆の微笑を誘っていた。グリーグは控えめで節度はあったが、もっと抒情的な演奏も聴いてみたい。なお、アンコールは、ショパンの前奏曲第17番、ワルツ第5番、第11番、第7番であった。</p>
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/anator/entry-11034526758.html</link>  
      <pubDate>Sat, 01 Oct 2011 01:48:59 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>プルースト　『サント=ブーヴに反論する』</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 <p>マルセル・プルーストの高名な評論、『サント=ブーヴに反論する』を読んだ。これは、サント=ブーヴの文学批評が、文学作品を批評するというよりも、文学作品を書いた作家の人生や、その時代の社会情勢を批評したものであることを指摘して断罪した評論である。しかし、プルーストもまた、サント=ブーヴと同様に、この評論において、サント=ブーヴの人生を執拗に面白おかしくあげつらっている。結局、同じ穴の貉である。作家というものは、他人の人生を覗き、書かずにはいられない生き物なのかもしれない。</p>
<br />
<p>参考文献：　『プルースト評論選Ⅰ文学篇』　ちくま文庫</p>
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/anator/entry-10934679152.html</link>  
      <pubDate>Sun, 26 Jun 2011 00:40:53 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>プフィッツナー 5つのピアノ曲 Op.47</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 <p>プフィッツナーは、リヒャルト・シュトラウスと同じ時代を生きながら、シュトラウスとは好対照をなす、抒情美の極致に到達した。それは、代表作として知られる歌劇『パレストリーナ』やカンタータ『ドイツ精神について』において明らかである。シュトラウスがウィーンの享楽を体現したように、プフィッツナーは、ドイツ・ロマン主義の故郷である、蒼白い月明かりに照らされた森を具現したのだ。ほとんど知られていない、5つのピアノ曲 Op.47を聴けば、プフィッツナーの音楽の特性は、歌劇や声楽曲だけでなく器楽曲においても揺るぎないことが分かるであろう。これは「最後の努力」「大はしゃぎ」「象形文字」「傷心」「メロディー」の5つの小品からなるが、とりわけ、「象形文字」と「メロディー」は、深淵にして静謐な抒情美そのものであって、プフィッツナーにしか書けぬ音楽である。シューマンやブラームスの良き影響を受けながらも、まったく独自の境地に到達している。</p>
<br />
<p>参考CD:　「プフィッツナー＆ブラームス」　鷲見加寿子（ピアノ）　ナミ・レコード WWCC7433</p>
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/anator/entry-10933669050.html</link>  
      <pubDate>Sat, 25 Jun 2011 00:24:38 +0900</pubDate> 
    </item> 
  </channel> 
</rss>

