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    <title>ニャンちゅうなブログ</title>  
    <link>http://ameblo.jp/aimis-u/</link>  
    <description>日々の雑記帳　</description>  
    <language>ja</language>  
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    <item> 
      <title>ゴースト</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 矛盾する思想が人の中に同居しているのはなぜなんだろう？<br /><br />『EV.CAFE』をずっと読み直していた。<br />坂本龍一も村上龍もまったく彼ら自身の中で矛盾しているのだけど、それを敢えて無視しようとしてるのか、そこは見えないように自動的にマスクされてしまうのか。<br /><br />自分の中にもそれはあって、とくに好き嫌いの部分の中に。<br />例えば、中島みゆきは好きで長淵剛は嫌い。<br />どう考えてもどっちも演歌だし。<br />どっちも自分に酔っているし。<br />どっちも歌唱的にまとわりついてくるし。<br />そんなふうに自分の中で分析していくとまったく矛盾してしまう結果に終わる。<br /><br />好きとか嫌いに理由はなくて、もっともらしい理由は後付けで自分の脳がでっちあげたものだと。<br />そういう話が池谷裕二氏の本の中にある。<br />脳科学的にはそうらしい。<br /><br />結局、後付けで考えた話だからどこかで破綻するわけだけど、まったく相矛盾する帰結を生む結果になってしまうのはなぜなんだろうと。<br /><br />それぞれの人の中には、コンプレックスとかトラウマとは違う、それよりもっと根源的で生理的な本能的なコアがある。<br />それはまったく相矛盾するベクトルを持っていて、それによって、これはこっちに、それはあっちに無意識的に振り分けられてしまうとか。磁石のＮ極Ｓ極の境目みたいのがあって、そこで全く逆転してしまう。そこの振り分けはとっても強固で。だから、矛盾してしまうとか。そんなふうにそれは表裏一体になっていて、それこそが生物の宿命で、宇宙の根源的な成り立ちがそうだからとか。<br /><br />やっぱ、この本を読んでると病むわ。哲学ってほんと無駄な学問だなあ。<br />無駄じゃ無駄じゃ。<br />もっと動物的に生きるほうが健全だよ。<br /><br />もうういい、わかった。<br />好きなものは好き。<br />嫌いなものは嫌い。<br />それでいいことにする。<br />理由なんてどうでもいい。<br />所詮欲望なのだ。<br />欲望に高尚もへったくれもない。<br />相矛盾するコアで決定されるなにかに理由づけなんてできるわけはないのだ。<br />そういうことにしておこう。<br /><br />だからいいのだ。<br /><br /><iframe width="420" height="300" src="http://www.youtube.com/embed/8LE3FcL3dwU" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br /><br />モンキー、モンキー、猿は猿<br />ティファニーで朝食を食べたとしても。<br /><br /><font size="1">後記 2.11 AM11:51<br />ああ、そうか、やっとわかった。<br />脱構築のあと、世界にまともな哲学潮流がなくなった理由が。<br />基本的にあそこですべて解体されたのだ。<br /><br />あるいは彼らが意図して解体した節がある。<br />そして『知の欺瞞』でその衒学部分にとどめを刺された。物理学者によって。<br />それにいちはやく反応したのが日本では浅田彰だったというのもなんだかよくわかる。<br /><br />８５年の時点で彼も既に脳科学を暗黙的に希求しているように思う。<br />浅田彰の『構造と力』は意図してるのかしてないのかわからんが、言ってることが現象学的に脳科学というか神経システムを社会モデル化しているようにしか思えないし、蓮實重彦もどうやらそういうものを希求してるのを自身で薄々わかってた。だが文系の学者という立場上自分から白旗を揚げる訳にはいかないわけで。。だから結論がいつもぼやけてたのか。</font><br /><br />後記 2.12 15:39<br />シナプスの長期増強や長期抑圧などによって神経回路それ自体を形成するための重みが内的に決定されるその要因というのは扁桃体によるもの？情動的な出来事に関連付けられる記憶の形成と貯蔵における主要な役割を担う扁桃体。結局それは遺伝子によって決まってしまっているのだろうけど、それ自身の決定に作用を及ぼすフィードバック機構もある筈で。結局、脳深部の機能なので好悪の感情を大脳がロジカルに意味づけなんて出来ない。でも、人間の活動の中で相互影響しながら育っていくわけだから、丹念に自分の中を追っていけば自分の好みはわかってくる筈で。でもそんなふうな後付けのものよりやっぱり直接的な生理的嫌悪みたいなもののほうが強くて女性の方が平均するとそっちの影響が強いっていう気がする、人によるのだろうけど。そういう正直さというのはやはり生きる上で強いんだろうと思うのだが、まあそれがやたら強い場合学習出来ないという面もあるので、あながちそうだとは言い切れない。まあそんなとこだろう。だから学習された美というのは当然あるわけで、それがその社会において高尚であるとかどうか、いろいろ喧々諤々されているだけなんだろうけど。ただそれだけの話。どっちもあっていいんだよ、結局。多様性というのが生物にとってその種が生き延びるための真理だから。どっちにしても、他人の評価は他人の評価、自分は自分。自分的には、可塑的な面も持ちながら自分をきっちり追い求めて成長できる人がやっぱりカッコいいなあ。
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/aimis-u/entry-11161339952.html</link>  
      <pubDate>Sat, 11 Feb 2012 02:46:37 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>『EV.cafe』</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 『小澤征爾さんと、音楽について話をする』を本屋でチラ見。<br />なんだか、対談文で（ここで、誰かが身をのりだす）的な動きが説明で入っているのが、個人的に読みにくい。何より、内容が思ってたものと違ったのでパス。オヤジが部室でダベってる感じ？<br />しかも会話が浅いというか、盛り上がりに欠けるというか。<br /><br />芥川賞２作もチラ見したけど、もう芥川賞というのはムーブメントとして終わっているのかもしれない。同じ土俵で勝負してもあのオヤジどもが納得するものは書けないだろうし、彼らは自分達を破壊してほしいんだろうと暗に願ってるんだと思う。そしてそれはもはや文学ではないような気がする。<br />それがもうさんざんわかったから選考委員を辞退したり選考会を欠席したんだろう。<br /><br />『EV.cafe』をチラチラ読み直している。<br />これ、やはり読んでて難しい。<br /><br />当時の村上龍と坂本龍一の中で醸成された価値観があって、それを把握するのが難儀。<br />１９８５年のバブル期のもので、浅田彰、蓮實重彦が席巻してた頃なので、ポスト構造主義の時代なのだけど、村上龍と坂本龍一の主張を読んでいるとどうも、脱構築という運動自体が時代によって要請されていて、というか彼らの中にもそういう価値観があって、なにも例えば浅田彰が『構造と力』を書いたからムーブメントがおこったわけでないらしい。だからあんな哲学書？が売れたわけで。<br /><br />まあいいや。<br />で、この中で音楽論について坂本龍一が語っているところが多くあって、そっちを読むほうが、『小澤征爾さんと、音楽について話をする』よりずっとスリリングなんだよね。しかし、これ読んでるとわかるけど、村上龍ってほんとバカだなあと思う笑。対談するまわりの人間に賢い人たちが多いからだと思うけど。彼はこの本の中でもそうなのだが、基本的に舞台回しの役割なのよね。トリックスター的な。もしかしたら、そこが好きなのかなあ、オレ。<br /><br />でも３０代前半でこういうレベルの会話をこういう錚々たるメンツとするっていうのは凄過ぎ。昔の人ってそういう人ばかりでもないと思うのだけど、こういう年齢でこういう話を普通にできたんだろうか？自分は今でも出来ないし、今こんな会話が出来る３０代の人っているのかなあ。<br /><br />音楽やってる人は、最初の坂本龍一と村上龍との対話部分、あと吉本隆明と彼らの対談部分は読んだほうがイイと思う。とくに音楽で後世に名を残したいと夢想しているような人は、たぶんいまの自分の足元から崩壊し始めるだろうと思う。<br /><br /><a href="http://click.affiliate.ameba.jp/affiliate.do?affiliateId=18863914" alt0="BlogAffiliate" target="_blank" rel="nofollow">EV．Caf　　超進化論 (講談社文庫)/村上 龍<br /><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/215MABFBP9L._SL160_.jpg" border="0" /></a><br />￥700<br />Amazon.co.jp<br /><br />
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/aimis-u/entry-11159459858.html</link>  
      <pubDate>Thu, 09 Feb 2012 00:11:52 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>イソップ童話の尻尾</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 北風と太陽って、最初は旅人の帽子をとる話で、太陽は燦燦と旅人を照り付けると、旅人はあまりにもの日差しで帽子をしっかりかぶり、次に北風が力いっぱい吹くと、みごと簡単に帽子は吹き飛んでしまった。というのがあるって今知った。<br /><br />この話を聞かなければ、北風に対する愛の気持ちは少しはあったのだけどねえ。<br /><br />なんだかさ、帳尻を合わせようとする行為っていうのは、逆にあざとく見える。<br />この話を聞いたとき、まず思ったのは潔くねえなあということで。<br />バランスなんていらないんだよ、感情にバランスは要らない。<br /><br />逃げだよな、はっきり言ってそれは。<br />相手に対して留保される余地を残すというのは自分を守りたいためだけだという。<br />それって大人なようで全然大人じゃないなあと。<br />ただ小汚いだけだと。こぎたねーんだよと。<br /><br />自分に対する甘えが自分にあるのはもうしょうがないと今では悟ってしまってるし。<br />そして必要のない敵もわざわざ作る必要なんてないけど。<br />自分が自身で守るべき場所はどこかでしっかり持ってないと、自分自身ですらなくなってしまう。<br /><br />お互いがそうであるとお互いわかってれば男同志はそれでよいのだろうと。<br />喧嘩別れしたってそれでいい。<br /><br />でも、北風と太陽って、しょうじきその関係は無理だったろうなと。<br />この話がなければね。<br />一勝一敗であり続けるっていうのも、しかも全力で。<br />それはそれで違う童話としてアリなのかもしれないと今ふとそう思った。
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/aimis-u/entry-11155689857.html</link>  
      <pubDate>Sun, 05 Feb 2012 07:48:41 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item>
      <title><![CDATA[PR: 【フォード】選べる2つの特典キャンペーン実施中！]]></title>
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      <description><![CDATA[<table cellspacing="0" cellpadding="0"><tbody><tr><td align="left" valign="center"><a href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/ejU6MobuCJtQ/vGTivGToj32e?type=2" target="_blank"><img alt="" style="border: 0;" border="0" src="http://rss.rssad.jp/rss/img/ejU6MobuCJtQ/vGTivGToj32e?type=3&ent=a845a4eb6fdfe33aefb1c127d1175f3a"/></a></td></tr><tr><td align="left" valign="top" > アクセサリー最大15万円分プレゼント！または特別低金利2.9%をご利用ください！ </td></tr></tbody></table><div style="font-size:10px;"><span style="padding-top:5px;"><br style="display:none"/><a href="http://www.rssad.jp/trendmatch/trendmatch.html">Ads by Trend Match</a></span><br/></div>]]></description>
      <pubDate>Sun, 05 Feb 2012 07:48:41 +0900</pubDate>
    </item>
    <item> 
      <title>江の電</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 季節外れ。<br /><br />そういう言葉で思い出す。<br />そんな場所とかモノにどこか魅かれる。<br /><br />なんなんだろう？<br />誰にでもあるんじゃないかって思うのだけど。<br />いろんな人に「あなたが思う季節外れの場所は？」って聞くと<br />多くの人が、「あぁっ…」っていう郷愁を感じる場所ってあるんじゃないかと。<br /><br />そういうのって聞いてみたいし、その場所に対する想いをそれぞれに聞いてみたい気がする。<br /><br />たぶん、多くの人が江の島電鉄に乗った経験はあって。<br />それに対する想いっていうのが季節限定であるような気がする。<br />サザンオールスターズのせいかもしれないし、そのほかにもいろいろあるだろうけど。<br /><br />季節外れの江の島とか鎌倉とか逗子に対する想いって、結構多くの人が夏以外に抱いているとそんなふうに思うのだけどどうだろう？<br /><br />そういう場所が全国各地にあるって思うと、なんだかその場所にその時にいなければならないというjust in timeでない、ゆるーいくくりでのその場所に行ってみたい気がするのよね。<br /><br />なんていうのか、盛りを外したその場所でしか味わえない、でもどこか自分だけの豊饒な時間。<br /><br />独り占めしたい空間。<br /><br /><iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/zve5dB0CpeA" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br />
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/aimis-u/entry-11154725348.html</link>  
      <pubDate>Sat, 04 Feb 2012 04:57:30 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>鴉空</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 うーむ、難しいのである。<br /><br />正直、『レッド・カウンター』と『バーディー』をどんな顔で聞けばいいのか。<br />どんな態度で聞けばいいのか。<br /><br /><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120204/00/aimis-u/d3/22/j/o0384028811773011789.jpg"><img src="http://stat.ameba.jp/user_images/20120204/00/aimis-u/d3/22/j/t02200165_0384028811773011789.jpg"  alt="$ニャンちゅうなブログ-AKUH" border="0" /></a><br /><br />ソロであればよいのだ。<br />どんな歌詞であろうと。<br />どんな想いで謳っていようと。<br />わかっているのだよ。<br />知っているのだ。<br />そういうファンばかりだからさ。<br /><br />ただ、音楽というのは善悪を超えたところで。<br />特にロックというのはそうなのだと思う。<br />だから解放されるのだ。<br />村上龍が言うように。<br /><br />フタをされるのだよ。<br />だから困るのだ。<br />どういう態度で聞けばいいのか。<br /><br />ほんとはね、『Ｓｏ』にしてもさ、歌詞を聴けばわかるのだけどね。<br /><br />生きるとか、死ぬとか<br />そんなことはもういい<br /><br />そういう他人の死に対する感覚や感情の断絶というのがあってもいいと。<br />それでいいと。<br />それも普通のことで<br />それでもなおと。それでもと。<br /><br />そういうアンビバレンツを謳うから納得するわけで。<br />ギリギリなんだよ。<br />どっちに転んでもおかしくないという。<br /><br />ただの平和のプロパガンダだったら、客は歌を突き放すよ。<br />ニヒリスティックにならざるを得ない。<br />オマエは現場に行ったのか？と。<br />そこにその場にいたのかと。<br />問わざるを得ないのだよ。<br /><br />と、なんだか老婆心が先奔るんだね。<br />とくに板谷祐氏の有り様を知っている彼らのグループのファンとの温度差を感じるこんなライブだとね。彼はいつも自分自身に対してリアルだ。<br />だからＶＥＺは、善悪を超えて解放してほしい。<br /><br />解放されたあとの答えは、歌い手ではなく、聴く人の中にしかないのだから。<br />コミュニケーションっていうのは、説教じゃないからね。<br />自分が善悪ギリギリでなければ相手には届かない<br />一方的な想いじゃない。<br />お互いの想いの間でしか、しかもお互いがギリギリの状況でしか成り立たないものだと思う。<br /><br />受け手というのはいつもギリギリにいるわけじゃないけれど。<br />そういう状況を仕事だったり恋愛だったりでさ、あるいは生活そのものの中であたりまえのように知っているわけで。<br />なんどもそんなシノギを削ってきている年齢の人たちだからね。<br />そういう相手に響くかどうかというところ。<br /><br />それに対して客はお金を払ってるんだろうと思う。<br />夢の無い話をすると。<br />でもやりとりしてるのがお金だけだったら、すべてのライブハウスなんてとっくに潰れてるし。<br />そもそもそんな世界なら歌や音楽なんていらない。<br />そんなふうに誰でも思ってんじゃないかなあと思うのだけど。<br /><br />特に女子達。<br />あの子たちはヤバイよ。<br />そんなことなんて１秒で見抜く。<br />男なんて一瞬で三枚に卸されるね笑<br /><br /><iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/g5Xu2_UkjI8" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br /><br />すげーから。<br />欲望にリアルだから。<br />いくいく、こいこいって笑<br />負けるぜ！ちくしょー！<br /><br />つっか、なんだかんだって前の方にいる女の子たちって愛だよなと。<br />いつものように思ってしまった名古屋ライブ。<br />まじ負ける苦笑<br /><br /><br />VEZ<br />2012/3/20(祝) Ikebukuro Chop<br /><br /><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120204/01/aimis-u/37/f0/j/o0800046911773052760.jpg"><img src="http://stat.ameba.jp/user_images/20120204/01/aimis-u/37/f0/j/o0800046911773052760.jpg"  alt="$ニャンちゅうなブログ-VEZ" width="800" height="469" border="0" /></a><br /><br /><font size="1">あ<img src="http://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/089.gif" alt="ひらめき電球" />、そうか！Ｘ　ＪＡＰＡＮ！！<br /><br />「お客さんがみんなセイイチさんのベーアンヘッドを写メしまくっていたから何だろう？と思って見てみたら、hideちゃんの写真が貼ってありました。泣けた…」<br />だそうで。。やっぱそっちなのか、強えぇなあ、Ｘ。</font>
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/aimis-u/entry-11154631392.html</link>  
      <pubDate>Fri, 03 Feb 2012 23:34:31 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>舞踏で表現！</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 教えてもらって、前にもつぶやいたのだけど<br /><br /><a href="http://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/owarai/p4bbeaf657405246d40c9614dad50fe33" target="_blank">ギリシャ問題を舞踏でわかりにくく解説</a><br /><br /><iframe width="420" height="285" src="http://www.youtube.com/embed/zb6bT_gc2dQ" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br /><br />ええっとー、「山海塾」のメンバーさんだそうです。<br /><br />うーん、緊張感。。<br /><br />げいじゅつ！笑<br /><br />ベンチがＥＵですよ。すげー力技。１０点！<br /><br />
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/aimis-u/entry-11149704471.html</link>  
      <pubDate>Sun, 29 Jan 2012 21:01:41 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item>
      <title><![CDATA[PR: 5つの特長で集客UP！ヤフーリスティングをはじめよう]]></title>
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      <description><![CDATA[<table cellspacing="0" cellpadding="0"><tbody><tr><td align="left" valign="center"><a href="http://rss.rssad.jp/rss/ad/ejU6MobuCJtQ/zu0WkQuVHVZK?type=2" target="_blank"><img alt="" style="border: 0;" border="0" src="http://rss.rssad.jp/rss/img/ejU6MobuCJtQ/zu0WkQuVHVZK?type=3&ent=bd8ffe16a5485a44eb4162836fa906a5"/></a></td></tr><tr><td align="left" valign="top" > 大手サイト掲載・充実サポート・安心のクリック課金・レポート機能・スマホに掲載 </td></tr></tbody></table><div style="font-size:10px;"><span style="padding-top:5px;"><br style="display:none"/><a href="http://www.rssad.jp/trendmatch/trendmatch.html">Ads by Trend Match</a></span><br/></div>]]></description>
      <pubDate>Sun, 29 Jan 2012 21:01:41 +0900</pubDate>
    </item>
    <item> 
      <title>live a life</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 ふたたび<br />再び路上で<br />元素記号を<br />さがしはじめる<br />キミみたいな武闘派のために<br /><br />と最初。<br />いやﾌﾞﾄｳﾊというのは、舞踏派のほうがカッコいいなあ。<br /><br />でも結局、本当は<br />キミみたいな無党派のために<br />だった佐野元春の『再び路上で』<br />そういう詩の聞き間違いって不思議なモーメンタムを自分の中に与える。というか、勝手に聞き間違える言葉っていうのは自分の中の無意識と繋がっているのだろうか。無意識からなにかが表出すると同時にその表出に自分でも驚くというか改めて気づくというか。<br /><br />ずっと舞踏家が気になっていた。<br />自分の身体のすべてをその瞬間に随意に扱わなくてはいけない。意識されて統制された筋肉。なんかそれってなにげに究極のアスリートじゃない？<br /><br />だが実際にテレビで暗黒舞踏をみたときには、いやたしかに「肉体の質感の提示」ではあったのだけど。どうもすっーと心に入ってこないし、なんだかなあと。<br />自分の無意識の中にある言語化できないフレームワーク化された何かというものが、ただ躍る肉体をみることで引っぱり出されてきて、あーそういうことかとハタと膝を打つなんていうのを期待してたんだけれど。まあ、ムシのいい話だけど。<br /><br />それから時はながれて2008横浜トリエンナーレ。田中泯とか勅使川原三郎、佐東利穂子とか。結局時間の関係でそれらはみれなかったけど、三溪園で行われているティノ・セガールの《Kiss》を観た。<br /><br />三溪園の日本家屋のなかで、男女２人のダンサーがまあ「いちゃつく」わけだけれども、なんていうのか凄い緊張感があるんだよね。畳の上で演じられて、自分達もその部屋の中にいて、ほんとに手の届く範囲で至近距離で見てたんだけれど、とくにお互いの身体をゆっくりと抱き合いながら臥位のままで身体を移動させていくシーン、どうやっておたがいにタイミングを取ってるのかがわからない。そのくらい自然ではあるけれど、張り詰めているのがわかる。まさに、《Kiss》っていう題にふさわしい、恋愛の駆け引き的な動き。聞こえるのは、畳をする音、衣擦れの音だけで。ひっそりと、ゆっくりとそれが行われる。まあ普通じゃない状況ではある。ティノ・セガールの作品は撮影禁止で、今までの作品もすべて記録に残していないそうで。<br /><br />ああ、そういうことなんだと。舞踏というものの本質はそういうものなんだと。見たかったのは肉体が持つ緊張感なのだと。そして存在そのものなのだと。存在の瞬間というか、一瞬の生というか。その場で演じられて終わる、痕跡をのこさない一瞬というか。過ぎ去っていく現在というか。生きていることそのもので。今これを書いてて気がついた。<a href="http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201004200244.html" target="_blank">田中泯のインタビュー記事</a>（クリックすると飛びます）をこれを書くまえに見ていたのだけど、その中で<br /><br /><strong><font color="#0000FF">「世界を回っていて一番好きな場所はどこですか」とか「一番記憶に残るパフォーマンスは」などと質問されると、もう、ダメですね。自分の記憶の中からエポックを取りだし、それを一つの存在証明にするやり方は、僕には出来ない。一瞬一瞬を生きているのであって、次の瞬間に何を思い、何を言うかなんて、分からないんですから。」</font><br /></strong><br />とあって。そうか、この人ってだからそうなのかと。<br />『八日目の蝉』を観ていて、「なんだかすげえじいさんが出てる。なんだ、この存在感？この人、ただもんじゃねえなあ」と思ってたら田中泯だったのだよ。<br />いやまじで存在感が半端ないんだよ。無言というのはすごいね。まあ、無言ではないんだけどさ。<br /><br />たぶん彼らが行っているのは、存在そのものの追求なんだよね、それを思索でなくて肉体そのもので表現するというか、一瞬一瞬の自己の存在確認。その作業が見ている観客に、肉体そのものを感じさせるというか、その人の存在そのものを確認させるというか。。<br />即興というのは、そのための手段であって。一瞬一瞬を生きること。そのことを他者に実際にリアルに感じさせること。<br />そういうことを普段から生業にしているから、ああいう映画にあって、ほんと多彩な俳優陣の中でも、とくに存在感が強いというか。<br /><br />だからドキドキしたんだと思うんだね。ティノ・セガール＊１の《Kiss》を見てて。人の恋愛を盗み見るような背徳感。それもあり。それをダンサーたちに逆にみられているという感覚。それもあり。それによって、自分自身がそこにいることを、自分の存在を客観的、主観的、その両方で同時に確認している自分。そういうのもあり。<br /><br /><strong><font color="#0000FF">こうやって話していても「あなた」と「わたし」がひっくり返るかも知れない。</font></strong><br />あー、それってそういう意味だったのかと。<br /><br />だから、生で見ないと意味がないんだね。<br />その場その場で一瞬の生を生きる。<br />一瞬一瞬それを続けること。<br />そのことによって、人がどういう存在になれるのかというのを確認する。<br />それがもし自分だったらどうなのかと。<br />そういうことを確認する場でもあるのだと。<br /><br />＜参考＞<br /><a href="http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2008/09/yt2008_performance.html" target="_blank">横浜トリエンナーレ2008－パフォーマンスを中心に</a> <br /><br />そう、だから<br /><br />再び路上で<br />元素記号を<br />さがしはじめる<br />キミみたいな舞踏派のために<br /><br />だからそれもやっぱり違うんだね。元素記号を探すこと自体がおかしかったのだ。探しているのは記号じゃない。探していたのは、探したいのは存在そのものを生きることだったのだよ。<br /><br />もちろん日常ってのは常にそうじゃないけど、ふとした瞬間にためらったり迷ったりすることってあって。で、あのときなんでオレは行かんかったんやろ？とか動けよオレ！とかいう。。そういうことがより少なくなるほうに自分を倒していくことでしか何かに近づいていくことなんて出来ないと思うし、そう常に心がけることができたらハッピーだよなあと形而上ではなく単純に思う。<br /><br />後記 2012.2.2<br />＊１　ティノ・セガール（誤）→ティノ・セーガル（正）<br />    誤り。スティーヴン・セガールという俳優が頭にあったんだろう。<br />　　恥っずー苦笑
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/aimis-u/entry-11147298071.html</link>  
      <pubDate>Sat, 28 Jan 2012 08:08:21 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>夢と文章</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 自分の夢の内容を記述してみようと思い立って文章を書き始めたのだ。<br /><br />そしてそれが難しいことに気づいた。景色を記述する場合の筆の使い方がよくわからない。全体像から始めるのか。部分から始めるのか。<br /><br />通常文章を書く場合、自分の目と意識が向いている方向から書き始めて、視点をずらしていく。その視点の先にあるものと、自分の意識に浮かんだことを交互に書いていく。基本的に自分の意識がどう動くのかという動き方を考えてそれを追っていけば、自らの脳の動きが文章に転写されていく。その脳の動き方は、自分が景色を捉える動き方と同じ。「情」と「景」。<br /><br />芥川龍之介の『歯車』は精神に異常をきたした人の主観でモノを眺めている。そういうものの見方が自然に自分の視点となって、自分が狂っているのか、主人公が狂っているのか、その境界があいまいになる。あれは気持ちの悪い読書体験だった。<br /><br />文章を作る上での基本は読み手の意識の運動をどう作りだすかということに尽きるように思える。文章を読む人の意識を操る。でもそれは、自分の意識の動きを丹念に追っていくことでしかできないように思える。小手先で操ろうとすると、その筆先が読み手にはどうしても見えたりする。伊坂幸太郎のそれは自分にはよく見えてそれが彼の本を敬遠する理由の一つ。考えも浅いくせに教条じみてるからむかつくんだよね。人によってそれもさまざまだろうけど。<br /><br />夢の記述に話を戻すと、夢の場合、自分の見えている風景があいまいで。<br />たぶん、あいまいなものをあいまいなまま記述することはできるけど、それだと読み手の意識が動かない。よくＳＦやファンタジーで地上に存在しない場所を書いていたりするけど、そういうものを記述しようとすると、自分がそれまでに見たことのあるものを引き合いに出してきて、「～のような」と書いてしまう。そうとしか書けないから。で、それを続けると冗長で締まりがない文章になってしまう。<br /><br />だから途中で辞めてしまった。でも一番の理由はたぶんはっきりとモノが見えてないから。モノがはっきり見えてないと描けない。あたりまえだけど。<br /><br />少し脱線するが、理系で仕事が出来る人には絵の才能がある人が多い。プログラマでも、絵が上手に描ける人には仕事のできる人が多い。文章だと誤魔化せるけど、絵にするとあいまいなところがすぐに露呈するから。特に設計能力のある人は絵が上手い。まあそれはともかく。<br /><br />夢でなくても、景色を書こうとするとそんなふうに文章が冗長になる。テンポをつくって区切ってくというのがそれを防ぐ代表的な方法なんだろうけど、会話を入れたりして。それをしないで、一文で文章を書いていくとそれはそれでぐにゃぐにゃしたオモシロイ文章になるんだろうけど、例えば中上健次の『千年の愉楽』みたいに。でも、あれはあれで文章が不思議に締まっている。<br /><br />『千年の愉楽』では、というか中上健次はメタファーを使わない。いとうせいこう氏がいうように間違っても「時計と目が合った」的な文章は書かないし、三振の美学的な文章なのだけど、文章を絞めるというか、読み手の意識の運動の方向を固定させるために使われる手法のひとつがメタファーなんだと思う。よいメタファーの場合、個々の情景描写に掛けるのではなく、もうすこし大きなある固まりで掛けるんだろうけど。蓮實氏との対談で、「表象をやるには技術論をやるしかないが、その技術というのはたんなる小手先の技術だったり飾ることではない。メタファーにしても本当にいいメタファーは一つしかないわけでそれをどう厳密に探すかということを小説の場合考えます」と村上龍は言っていて。本当にいいメタファーは一つしかない、それをどう厳密に探すか、たぶんそこがミソなんだろうと。どの単位でどう掛けるかとかね。よいメタファーは人にとって根源的な無意識の運動を含んでいるから、その動きで冗長さが救われたりするのかもしれない。よくわからんけど。<br /><br />とはいえ技術論、そんなふうな文章作成のいろいろな手法を分析的に体系的に記述した本があればおもしろいなあ。その人の独断でもいいので、すごく読みたい。ないものだろうか。作家別にそれぞれの人がよくとる手法だとか。文学部のゼミでそういうのを考えたり研究したりしているところってあるのだろうか。筒井康隆なら自分でいろいろそういうのを纏めてるに違いないのだが。<br /><br />もちろん、それは上から目線で研究するだけじゃなく、自分で真似してやってみるために纏めてるだろうわけで。あのオッサンのそういう偏執狂的なところが好きだ。なんにせよ自分でやってみないとホントのところはわからない。<br />別に小説家になりたいわけじゃないけれど、どんなことでも自分で実際真似してやってみないと気付かないことって多いものだと、こういう作業を始めてみるとわかる。<br />逆に言えば、やらないと絶対わからない。そしてわかることは人によって違うのかもしれない。<br /><br />なにごとにおいても基本というのはたぶんそこなんだろうと思う。真似して考えながらトライしてみる。そして気付いてまたやってみる。地道な積み重ねだけど、そこでどう遊べるか、自分が楽しめてるかっていうのがまず始めにないと、基本続かないから積み重ねられない。その小さな愉しみが厚みを増していくといつのまにか目の前に別の世界が開けているっていうことがあるのだと思う。自分だけの大きな世界。しかもそこで初めて他の人と繋がれるというか。<br /><br />上から目線で「自分を探す暇があったら自分を磨く」とかそんな当たり前のことだったら言う必要もないし、「世の中、探したって実現するほどの自分がない人間が大半だ」と言われても、それを言っちゃおしめえよとなるだけで。なんとかなんねえの？その袈裟斬りばりな言葉ってさとか思うわけ。芸がないというか、もうちょっと建設的な方向へ持っていけないのかねえ？と。<br /><br />そういえば、ムーミン谷のじゃこうねずみさんって、『すべてがむだである事について』という哲学書を持っていてよくハンモックに寝ながら読んでいるとか。そんなふうになにもしないで知ったかぶりで自分の気持ちにフタをして終わっていく人から得られることなどなにもない。一人で死んでいくだけだろう。<br /><br />なんだか、子供のときからこのじゃこうねずみさんというのがずっと気になっていたのだけど、たぶんそうやって自分を慰めることもときには必要なんだけど、見ないふりとか。自分の中にそういうところが人より多分にあるから気になってたんだろうと思う。だから余計にそういう言葉を吐く人に腹が立つというか。<br /><br />しかし、トーベ・ヤンソンっていうのはすごい人だなあ。女の人にしかこういう小説は書けないんじゃなかろうか。人に対する洞察力と人生に対する慧眼を童話的に昇華させるというか。ときにやわらかく、そして辛辣に。てか一冊も読んだことないんだけど。なんじゃそりゃ苦笑。今度買ってみよう。
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/aimis-u/entry-11145677821.html</link>  
      <pubDate>Wed, 25 Jan 2012 22:03:39 +0900</pubDate> 
    </item>  
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      <pubDate>Wed, 25 Jan 2012 22:03:39 +0900</pubDate>
    </item>
    <item> 
      <title>『八日目の蝉』　角田光代</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 そう言えば、年末にダイハツクーザに行ったのだ。<br /><br /><a href="http://stat.ameba.jp/user_images/20120125/21/aimis-u/60/a5/j/o0800060011755339332.jpg"><img src="http://stat.ameba.jp/user_images/20120125/21/aimis-u/60/a5/j/t02200165_0800060011755339332.jpg"  alt="$ニャンちゅうなブログ-クーザ" border="0" /></a><br /><br />妹と姪っ子２人と。<br /><br />今、角田光代の『八日目の蝉』を観ている。映画のほう。<br />姪っ子の成長を見ていて、友達が言っていた「女のコは生まれたときから女」というのは全くその通りだと。正直、角田光代の小説は嫌いなのだ。生理的に受け付けない。<br /><br />「甘い、ヌルい、あつかましい」<br />女の持つそういう面が小説の前面に押し出されている。しかも、「それをすべて受け入れて欲しい」という意識がどこかしらに見える。しかもそれが女のすべてなのだと。<br /><br />正直、人間として気持ち悪いだろうと。自分自身ですら扱いに困るし、それってどうなの？って思っている（であろう）そんな面。それだけを丸投げされて「ああ、全部オッケー！」。んな寛大な男がいたら逆に、裏を疑うのが筋ってもんでしょ？そういう甘さ。<br /><br />だがね、どうも姪っ子どもを見てるとそれだけでもない。<br /><br />しかし、女のコっていうのは、どうしてこうもほんと一人一人ぜんっぜん違うのに、女であることは同じなのかと思う。同じ親から生まれたのかと思うほど姪っ子２人性格が違うのだけれど。<br /><br />しかもまだ、６歳と９歳なのにしっかりしてるというか、ほとんど基本は出来てしまっているしね。男のコはたぶん１０歳くらいにならないと基本はできないんじゃねえか。ぐずぐずしてる。<br /><br />妹夫婦が自分のことをどう喋っているのかっていうのは、だいたい彼女たちの話を聞いてて、それに対する妹の慌てた反応を見てるとわかるのだが。しかし、オイラの妹はほんとバカだなあと思う笑。隠し切れていると自分では思っているのだろうけど、底が浅すぎなんだよ、おめえ。ウソなんていっつもバレバレだぜ。しょうがねえなあ苦笑。まあ、それはともかく、それを隠したうえで、さらに自分の考えを反語的に喋ってくる下の６歳の姪っ子。６歳だぜ？まったく…<br /><br />そういう逆に言えば正直なところとかさ、そういうところがやっぱり『八日目の蝉』を観てると見えて来て、まったくしょうがねえなと思いつつ、どこかで許してしまうんだろうねえ。どこかで腹立たしく思いながらも。<br /><br />この作品を観ていて、あるいは彼女の本を読んで、男は男同志、女は女同志で過ごしたほうが楽にちがいないとも思うんだけど、とくにね、あのエンジェルホーム。あれは一つの理想社会ではあるのだと思う。<br /><br />だけど、一方でそれだけではオモシロくも可笑しくもないという人生のやっかいさというか苦しさというか。そしてあのエンジェルホームは、なにかを逃れた世界でしかないというか。困ったもんだね苦笑。あんなに円環はキチンと閉じているというのに。<br /><br />「七日で死ぬよりも、八日目に生き残ってしまった蝉のほうが悲しいと思ってたけど、違うのかも知れない。八日目の蝉ははさ、他の蝉に見られなかったなにかを見れるかもしれないよね。」そのセリフがやっぱり金言なこの映画。<br /><br />ていうか、必死に生きる。そういういのちのギリギリっていう。そういうところでしか見れない景色があるかないかを知ってるか否か。八日目に生き残ってしまった蝉が悲しい存在なのかどうなのか？っていうのを各自が決めるのはそういうとこなのだと思う。なにかを自覚してしまった。なにかを知ってしまった。しかし、そこで更に…。そこを汲み取れるかどうかっていうところがこの映画を観て面白いとおもえるかどうかの境目なんだと思う。<br /><br />結局、そこを今までの経験から知っているかどうか。<br />そういうことなのかもしれない。<br />そのために生きているのかも知れない。<br />人が自殺するかしないか、極論すればそういうことなんだろうか？あるいは女の人が自分の子供を堕ろす堕ろさないかを決める基準になるとか。あるいは夫婦ともに子供を作るか作らないかを決める基準になるとか。<br /><br />考えてみればコワいことなのだけど。そこまで迷うことがないならそれはそれで幸せだけど、迷った後に生のほうに倒せるのであれば、そっちのほうがやはりより素敵なことだと思うのだね。そこに共感したというか。<br /><br />でも小説のほうを読んでないからなあ。映画はいいんだけど。読んだらまた胸が悪くなるかもしれないなあ、wikipediaでちょっと小説の方の筋を見たけど、やっぱ、角田光代はダメだわ、生理的にダメだ。受け付けんわ。<br /><br />誰にだって経験はあるんだと思う。そういうギリギリで見た景色っていうのが、永遠に覚えているかもって思ったこととかね。そう思える経験さえあればさ、まだこの先にもそれがあるから生きていけるんだと。<br /><br />忘れっちまうんだよね、そういう経験って。<br />だから行けるときは行かないと笑<br /><br /><iframe width="420" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/aWiNbA8HJVc" frameborder="0" allowfullscreen></iframe><br />ACOがいないと、この歌、締まらない二人だよね。
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/aimis-u/entry-11146010134.html</link>  
      <pubDate>Wed, 25 Jan 2012 21:00:57 +0900</pubDate> 
    </item>  
    <item> 
      <title>溺れる者は藁をもつかむ</title>  
      <description><![CDATA[<p>
 もうひとつ。<br /><br />日本では、経験したことがほとんどないのだけれど、海外に一人っきりで旅行に行くと、全部自分で決められるけれどそうそう予定通りにはいかなくて、トラブルとか予期しない出来事があり。腹の立つことも多いけど、その分、なぜだか、人に助けられることも多い。あるいは自分の第六感に助けられたり。<br /><br />必死なときには、偶然何かが起こるというか何かに出会う。<br />溺れる者は藁をもつかむ、なんていうけど、溺れた人は藁であろうとなんであろうと掴むだろうし、それで藁じゃないものを掴む機会も増えるわけで。<br /><br />すでに何かを持っていて更にすけべ心出してるヤツがババ掴んでヘの字口になってるのってよく見るけど、そうじゃない人っていうか、そうじゃないときって、もう感謝するオンリーだし、その気持ちは相手に当然伝わるから、お互いにハッピーな方向へ行くじゃない？なので、結局、その後、いろいろ良いことが続いて起こる。しかもトントン拍子にそれが続いたりする。なんなんだろう？そう思い込むからか？単純だからねえ、おれ。いや、確かにひでえやつも多いけどね。いまだに思い出すだけでもムカつくヤツも何人もいるけど。<br /><br />なんかね、結局助けられてるね。そういう経験も含めて。生きることで。もうそうとしか考えられない。<br /><br />という楽観主義者であることにあまりこれまで不都合を感じたことがないのですが、何か？笑<br />ってか、何で日本にいるとそういう感謝の気持ちが薄くなってしまうのかなあ。腹立つことのほうが多い。比率が真逆だ。甘えなんだろうか？甘えなんだろうなあ。甘えかっこわるい。<br /><br />追記<br />いや、多分必死でなにかを最近やってないからだな。<br />最近というかここ何年もといったほうがいいのか。<br />そういうことなのかもしれない。
 
</p>]]></description>  
      <link>http://ameblo.jp/aimis-u/entry-11140633413.html</link>  
      <pubDate>Fri, 20 Jan 2012 02:53:45 +0900</pubDate> 
    </item> 
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